先輩も私も驚いていた。
なんだ、その言葉。どうして今言うんだ。先輩が引退するまで、あと一ヶ月はあるのに。
なんで、まるで今日で終わりみたいな言い方をするんだ。
「は、橋倉くん……?そんな、お礼なんかいいんだよ。もともと美術室は全生徒が使うものだし。それに、そんな言い方……」
先輩が困った顔で、「だから顔をあげて」と言う。
ゆっくりとした動作で顔をあげた颯は、ぎゅっと唇を噛んで、何かに耐えるような顔をしていた。
私は初めて見る彼のその表情から、目が離せなかった。
水道からシンクに落ちた一滴の雫が、ピチョン、と音を立てた。
*
先輩も午後六時前には帰り、美術室には私と颯だけになった。
途端に、気まずい沈黙が落ちる。
颯のことが気になって集中できなくて、筆が止まった。
それに気づいたのか、颯が「理央」と呼んだ。
「……今日はもう、帰ろうよ」
遅くなったら、颯がいつも私にかける言葉。
だけど今日は、それが告げられるのが怖かった。
顔をあげて、彼を見る。いつもなら、ちょっと不満げな顔で『早く帰ろう』と急かすのに。
颯は今、少しも笑っていない。
まっすぐな目で、私を見ていた。