朝陽はそれから一ヶ月ほど入院し、無事に退院した。
退院した次の日は丁度土曜日で、彼の希望もあり、神社でふたりきりのデート。
毎日通い、神様に弁当を届けることは続けていたけれど、朝陽と一緒に見る景色は違った。
一ヶ月前とは違い、遠くの山も、もう葉を落としてしまった木ばかりが目立ち少しさみしい。
それでも、木々は死んでしまったわけではない。
また春になって青々とした葉を生み出すために今は寒さに耐えているだけ。
生き続けるために、耐えているのだ。
朝陽も耐えに耐えた。
そうしてやっと、春が来た。
「また、ここから始められるんだな」
彼は感慨深くそう吐き出すと、社に向かって手を合わせる。
私も同じように手を合わせて、ふたりでここに来られたことのお礼を言った。
そしていつもの定位置に座り、お弁当を広げる。
「久しぶりだな。つぐの弁当」
今日は母に教えてもらった野菜入りのキッシュを詰めてある。
こうしてふたりで同じものを食べていられるのは、本当に些細なことだけど、幸せだった。
「ちょっと作りすぎたかも」
張り切りすぎて、弁当箱は満タンだ。
「いや、食うよ。うまっ」
キッシュを口に入れた彼は、満面の笑み。
「トマトとニンジンと玉ねぎ克服」
「は? これに入ってるのか?」
「そう。でもおいしいでしょ?」
朝陽は箸でつかんだキッシュをじーっと観察して、野菜を探している。
「あぁっ、このオレンジのがニンジンだ。でもうまいわ」
そしてもうひとつ口に放り込んだ。
「これからは野菜もたっぷり食べてもらうから」
「肉も食わせてくれー」
「あはは、それなりにはね」
顔を見合わせて笑えるこのあたり前の光景が、こんなに貴重だと今まで知らなかった。
でも、それを知った私たちは、ここにこうして生きていられることのありがたみを噛みしめながら、これからも生きていく。
「なぁ、つぐ。俺、これから必死に戦ってくる。だから、待っててくれるか?」
「うん。待ってる。ずっと待ってる」
だって私たちには未来があるもの。
受験の一番大切な時期を入院でふいにしてしまったものの、推薦入試以外はまだまだこれらが本番。
朝陽は一般入試で、いくつか受験することにしている。
とはいえ……入院中によくふたりで勉強をしていたけれど、さほど勉強しているように見えなかったくせにどうして!と思うほど彼は賢く、基本問題でつまずく私を彼はおかしそうに笑った。
彼は、罪を犯した人たちを正しい道に導きたいと、弁護士になる夢を貫くことに決めたようだ。
そしてそのために、今は苦しんでみると。
それなら私は、信じて待つだけ。
それから私たちは会わなくなった。
今は受験だけ。
それが終わればまた会える。
でも時々入るメールで、勉強が順調に進んでいることだけは知っていた。
私は相変わらず神社に通い、神様に手を合わせた。
でも、合格祈願していたわけじゃない。
『今日も無事に生きていられました。ありがとうございます』とお礼を言っていた。
それは朝陽が『合格は自分で勝ち取ってくる。神様にお願いするのは、命だけでいい。あとは自分の力でなんとかしてみる。そうじゃないと神様が疲れるだろ?』と言っていたからだ。
そして、それを六十回ほど繰り返したその日は、昨日の夜降った雪が山々を真っ白に染めていた。
学校の帰りに足早に神社に向かうと、約束している朝陽の姿はない。
今日は、第一志望のK大学の合格発表があったはずなのに、まだなのかな……。
ダッフルコートを着ているのに、寒さが体を突き刺してくる。
いつもの定位置に座ろうとすると……。
「あれっ?」
また社の扉に手紙が挟まっているのを見つけた。
「朝陽?」
ドクンドクンと心臓が高鳴りだして、体が震える。
あのときの光景を思い出してしまうのは、あの手紙があまりにショックだったからだ。
でも今日は違うと信じて、手に取った。
「あ……」
封の開いていた封筒には、九条朝陽という彼の名前と……”合格”の文字。
「朝陽……おめでとう」
彼は自分で未来をもぎ取ったんだ。
うれしい涙は何度だって流したい。
合格通知を胸に抱き、ポロポロと涙を流し始めると、「泣き虫」とうしろから突然抱き寄せられた。
「朝陽……もう、バカ! びっくりするじゃない」
驚かせないで。
彼の腕をギュッと握り声を振り絞ると、彼は私の肩に顎を乗せた。
「これで上書き終了」
「上書き?」
「うん。この神社にある手紙は、悲しみの手紙じゃない。喜びの手紙だ」
そうか。
彼も一度目の手紙を書いたとき、死に向かうつもりだったのだから、苦しかったに違いない。
私も胸が張り裂けそうだった。
でも、この合格といううれしい報告が、辛い過去を上書きしてくれる。
「俺、頑張っちゃった」
「うん、おめでとう」
涙が止まらず、声が震える。
「ありがと。つぐがいてくれたからだ。つぐを笑わせたかったんだから、泣くな」
「だって……」
彼は呆れた声を上げるけど、ここまで来るのに平坦な道のりではなかったのだから、仕方ないじゃない。
うれしい涙は流させてよ。
「しっかし、寒いな」
それから彼は私をいつもの場所に座らせ、自分も隣にくっついて座った。
そして「つぐ」と私の名前を呼ぶ。
「なに?」
「俺……今すごく楽しいよ」
「朝陽……」
私も楽しい。すごく楽しい。
朝陽と一緒に笑える幸せは何物にも代えがたい。
「諦めなくて、よかった。未来は、続いてた」
「……うん」
再びジワジワと瞳が潤んでくる。
あの日、もし朝陽が裕一先輩に手にかけていたら、朝陽も死んでしまっていた気がしてならない。
あそこグッとこらえた朝陽に、神様がご褒美をくれたのではないかと、勝手に思っている。
「つぐ、俺と一緒に、未来を歩いてくれるか?」
「もう、歩いてるじゃない」
もしかしたら、存在しなかったかもしれない未来を。
「そうだな」
朝陽は「フッ」と笑うと突然私の肩を引きせ、唇を重ねた。
生きることを選択してくれた朝陽と、私はこれからもずっと生きていく。
これからも辛いことはあるだろう。そのたびに確認したい。
“生きていなくちゃ、なにもできない”と。
生きていれば、神様だって説得できるんだよ。
ね、朝陽。
【END】
ちょっと重いテーマにもかかわらずお付き合いくださいました皆様、ありがとうございました。
このお話を書くきっかけになったのは、まさに『自動扉が間に合わなかった』からでした。
私のよく知っている駅で、早紀と同じようなことがありました。中学生の男の子でした。
私は亡くなったその子のことを知らないし、どうして死を選んだのかも知りません。
でも、そのニュースを聞いたとき、辛くてたまりませんでした。
生きたくてもなんらかの事情で生きられない人もいます。
せっかくこの世に命を授けられたのですから、本来ならばその命をまっとうすべきでしょう。
でも、その男の子のことを責める気にはなれません。
作中にも書きましたが、寿命ではない”死”は多くの場合苦痛を伴うようにできています。
それは簡単に死を選べないように、神様が決めたんじゃないかとさえ私は思っています。
それにもかかわらず自死を選ぶということは、その身体的苦痛より、精神的苦痛が上回ってしまったことを示しているのだと思うんです。
その男の子もそうだったんじゃないかと。