「ただ、残念ですが、腎臓はひとつ摘出しました。ですが、腎臓はもうひとつありますので、日常生活は問題なく過ごしていただけるはずです」
「はい。ありがとうございます」
ドクターの説明を聞きながら、お母さんがハンカチを握りしめ声を震わせる。
「これから、感染症などの危険が伴いますし、二十四時間体制で経過観察が必要です。当面、ICUで入院になります」
「はい。どうかよろしくお願いします」
お父さんが深く頭を下げると、朝陽を乗せたストレッチャーが出てきた。
私たちの前で止めてくれた看護師は、朝陽との対面を許してくれた。
「朝陽、よく頑張った。高瀬さんもいてくれてるぞ」
お父さんが話しかけたけれど、麻酔で眠っている彼はもちろん反応しない。
それでも幾分か顔色が戻っている彼の姿を見て、やっと酸素が肺に入ってきた。
朝陽はそのままICUに入り、私たちは近づけなくなった。
朝陽が一命をとりとめたことで胸がいっぱいな私は、立っていることすら困難になり、廊下にそのまま座り込んでしまった。
「高瀬さん、ありがとう。遅くまで申し訳なかったね」
するとお父さんが私を立ち上がらせ、椅子に座らせてくれる。
壁にかかる時計を見るともう二十二時。
時間の経過がわからないほど私の頭は混乱していた。
「これで、タクシーで帰りなさい」
「いえ……」
お父さんが一万円札を握らせてくれたから慌てる。
さっき、母に電話で事情を話してもらい、遅くなることの承諾を得てくれた。
それだけで十分だ。
「朝陽は、高瀬さんの励ましがあったから、持ちこたえたんだと思う。本当にありがとう」
あなたのせいで……と恨まれても仕方ないと思っていたのに、朝陽の両親は本当に優しい。
こんな人たちに育てられたから、朝陽はあんなに優しいんだ。
本当はずっとここにいたい。
ずっと朝陽の手を握っていたい。
でも、ICUには簡単に入れてもらえないし、私にできることなどなにひとつとしてない。
「また明日、来てもいいですか?」
「もちろんだ。きっと朝陽も待ってるよ」
結局夜道をひとりで帰せないと強く言ってくれる朝陽の両親に甘えて、タクシーで帰宅した。
その晩は、もちろん眠ることができなかった。
食事ものどを通らず、窓の外を眺めて朝陽のことだけ考える。
ドクターは山は越えたと言っていたけど、まだ予断を許さないとも言っていた。
どうか、これ以上朝陽を苦しめないで……。
すっかり雨雲が去った空には、月が煌々と輝き、私を照らしていた。
この光が朝陽にも届きますように……。
眠れぬ夜を過ごすと、朝早くにスマホが震えた。
朝陽が急変したのではないかと慌てたけれど、電話の相手は新聞社の増田さんだった。
『朝早くにごめん。いじめの件、いろいろ取材してるんだけど、学校はやっぱり取材拒否なんだ』
「そう、ですか……」
『ただ、こちらが証拠を握っていることをチラつかせておいたから、諦めるのは早いけどね』
「はい」
単なる経過報告なのかと思ったら、次のひと言に驚いてしまった。
『僕、記者生命かけてみようかと思ってる』
「記者生命?」
どういうこと?
『うん。自分なりに岸本さんについて調べたんだ。きみのクラスメイトにも話を聞いた。皆、口は堅かったけど、ちゃんと罪悪感のある子もいて、匿名ならっていじめを見たと認めた生徒もいた』
「本当ですか?」
誰も協力なんてしてくれないと思っていたから驚いた。
『もっと聞きこんでいけば、学校も認めざるを得ないと思う。だけど、これは岸本さんの問題だけじゃない。どの学校にもいじめはあるし、社会問題なんだ』
「はい」
熱く語る増田さんに、思わず電話口でうなずく。
『今まででわかったことだけで、とりあえず紙面に載せるつもりだ。僕はいじめはあったと確信している。二人目の岸本さんが出てしまう前に、なんとかしたい』
イチ高校生の話を信じてくれた増田さんはまだ若く、きっとまだまだこれからの人。
それでも、記者生命にかけると言いきってくれる。
その行動力と熱さに胸を打たれた。
私は素敵な人に巡り合えた。
「私……早紀を死に追いやった彼女たちが憎いです。でも、彼女たちには自分のしたことにきちんと向き合って反省して……そうしたら前を向いて歩いてほしいんです」
早紀にしたことを背負って、まっとうに生きてほしい。
罪の意識を突っついて、早紀と同じように自ら命を絶つことを望んでいるわけではない。
生きて、償ってほしい。
最初は、殺してやりたいほど憎かった。
だけど、彼女たちを死に追いやったら、いつまで経っても負の連鎖は止まらない。
『本当に高瀬さんは強いね』
「強くなんてありません。未来を信じているだけ」
朝陽と一緒に、笑顔でいられる未来を。
『また、連絡します』
「はい」
「お母さん、おはよ」
着替えてキッチンに行くと、母が青ざめた顔で私を待っていた。
心配してくれたのだと思う。
早紀のことがあってから、私は心配をかけっぱなしだ。
「つぐみ、おはよ。朝ごはん……」
「うん。食べる。今日はなに?」
私がそう言うと、母はすごくうれしそうに微笑んで、大きくうなずいた。
私が弱っている場合じゃない。
しっかり食べて、朝陽を支えなくちゃ。
「今日はオムレツとポテトサラダとピザトーストよ」
「ありがとう。いただきます」
早速フォークを手にしてオムレツを口にはこぶ。
「おいしい。ねぇ、お母さん。野菜嫌いを克服するメニューってない?」
朝陽のためにいろいろ試してみているけれど、他にもバリエーションを増やしたい。
「そうね、キッシュなんてどう? 野菜をすりおろして加えると、わからなくなるわよ。それにケチャップを添えればトマトも食べられるわね」
「なるほどね」
「つぐみにも小さい頃よく食べてたわよ」
そんな記憶はあまりないけど、母の作った料理は大好きだ。
こんな会話を交わしたのは久しぶり。
早紀のことがあってから、母が私にビクビクしながら話しかけているのがわかっていたし、私も笑顔で話せなかった。
「つぐみ、あのお弁当、彼氏にでしょ?」
いつもお弁当を余分に作っても、母はなにも言わず見守ってくれていた。
「彼氏、じゃないけど、すごく大切な人。ケガが治ったら、紹介するね」
「えっ……それじゃあ昨日の事故は、その彼?」
「うん」
途端に瞳が潤んできてしまったけれど、歯を食いしばって耐え、笑顔を作った。
「でも大丈夫。絶対に連れてくる」
朝陽は絶対に治るから。
私がそう言うと、母はすごく優しい笑顔を向けてくれた。
母に学校を休む許可をもらい、病院へ向かった。
その途中で、あの神社に寄り手を合わせる。
「朝陽を生かしてくれて、ありがとうございました」
腎臓はひとつ失ったけど、彼なら強く生きていく。
「必死に生きます。毎日、必死に」
ずっと、ただ流されて生きてきた。
なんとなく学校に通い、特にやりたいこともなく、淡々と時間が過ぎるのを惜しいとも思わなかった。
でも、生きていることがこんなに価値のあることだとわかった今は、毎日を精いっぱい生きようと思う。
階段を下りようとすると、ブワッと強い風が吹いてきて、頬を冷たい風が駆け抜けた。
まるで、神様が目の前を通ったかのようだ。
「また来ていいですか? 今度は神様にもちゃんとお弁当を持ってきます」
私たちにとって、ここは特別な場所。
これからもずっと通いたい。