(……ドッグイヤー?)
生徒手帳には珍しく、なんだか使い込んでいる感のあるカバー。
その1ページに、不自然なドッグイヤー……折り目が、つけられていたのだ。
心の中で申し訳ないとは思いつつも、気が付けば、好奇心からその折り目に指をかけていたのは男子の性(さが)と思って許して欲しい。
「……え、」
「ん?なんだ、相馬(そうま)。質問か?」
「あ……いえ、なんでもありません」
だけど、そこに書いてあった言葉を見て思わず声を漏らしてしまった俺は、教師から隠すように慌ててその生徒手帳をポケットに戻した。
(……だから、あの時)
─── 思い出すのは、今朝のあの子の不自然な態度。
最後に渡された言葉、ともなるあの子の行動の意味を、俺は今更ながらに理解した。
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『Iris(アイリス)』
メッセージ・希望
「マジで!そいつ、超殴りてぇ……!!」
「ホントに、最低だね……。栞、大丈夫?」
まだ騒がしい朝の教室で、そう声を掛けてくれたのは幼馴染みの"蓮司(れんじ)"と、親友である"アユちゃん"。
なんとか無事に間に合った図書委員の仕事を終え教室に入ると、私は仲良く話していた二人に、いつも通り声を掛けた。
だけど、なんとなく様子の違っていたらしい私に目敏く気付いたのは、蓮司だ。
何かあったのかとしつこく聞かれて、結局朝の出来事を伝えることとなった。
「マジで、今からでも殴りに行きたいくらいだし!!」
「でもさ、その人が助けてくれてホントに良かったねー。王子様じゃん、まさに」
指をパキパキと鳴らす戦闘態勢な蓮司とは裏腹に、うっとりと目を細めたアユちゃんは、今日も綺麗に巻かれた髪を指でクルクルと弄んでいる。
スタイル抜群で、所謂(いわゆる)お姉様系な見た目をしたアユちゃんは姉御肌で優しくて。
どこからどう見ても美人の分類でしかない彼女は、私の自慢の親友だ。
「王子様って、どんだけ夢見がちだよ、バカ!携帯小説と漫画の読み過ぎだろ!!」
そんなアユちゃんへ悪態を吐いている蓮司は、鳴らしていた指を解いて机を叩きながら、今日も左耳に2つのピアスを光らせている。
幼馴染みで、小さい頃から一緒にいるせいかイマイチ理解に苦しむけれど、蓮司は蓮司で女の子達からとても人気がある……らしい。
アシンメトリーショートの髪はオシャレにセットされ、笑うと八重歯の見える蓮司は背も高く、サッカー部でキャプテンを務めるくらいに人望も厚い上、運動神経もいい。
(……考えてみたら、モテる要素をたくさん持ち合わせているよね、蓮司は)
本人もそれを自覚済みで、よく“俺カッコいい論”を冗談で振りかざす。
そして、アユちゃんに鋭いツッコミを入れられたあと、私に2人が同意を求める─── というのは、私達のお決まりの笑いのパターンだ。
「あらあら、蓮司くんてば王子様に、ヤキモチですか~?大切で可愛い、"ただの幼馴染み"の栞が、他の男に助けられたから、って」
「(……ヤキモチ?)」
「バ……ッ、バカか!!んな訳、あるか……!!」
「へぇ~、ふ~~ん?」
目を細め、からかう様な仕草をアユちゃんが見せると、蓮司は顔を赤く染めて声を張り上げた。
「だ……大体にしてなぁ……!カッコいいやつってのはモテるから、チャラい奴が多いんだよ!俺みたいに外見イケメンで中身もイケメンってーのは少ないの、わかる!?」
「はいはい。朝から蓮司、マジでウザイわー」
「ウザイのはどっちだよ!先に話ふってきたのは、アユだろーがっ!!」
「もうっ。一々叫ばないでよー。うるさすぎて、鼓膜破れる、ねぇ、栞?」
「(あはは、うん、)」
「はぁっ!?栞、テメェ何頷いてんだ!!今のは絶対アユだろ、悪いの!!」
「はいはい、そうですねー。栞、うるさいのはほっといて、宿題の答え合わせしよ?この間、栞に教わった方法で、予習してきたんだー」
「(うんっ!)」
「おいっ!シカトすんなよっ!」
賑やかな二人を見ていたら、朝の落ち込んだ気分はほんの少し、軽くなった。
* * *
「……栞、平気か?俺、部活休んで一緒に帰ってやろうか?」
─── そうして、迎えた放課後。
一人で帰り支度をしていた私の元へ、蓮司が心配を浮かべた表情でやってきた。
「アユはバイトで帰っちまったし、お前一人でまた、なんかあったらさ……。それに、ほら!お前になんかあったら、おばさんが……心配するし」
「だから、な?」と、照れくさそうに視線を逸らした蓮司を見て思う。
(……蓮司は、優しいなぁ)
普段は口が悪くてうるさいけれど、二人きりの時は滅多なことでは大きな声も出さない。
私が少しでも落ち込んでいると今のように必ず気遣ってくれて、たくさん笑わせてくれる。
幼馴染み、というより兄妹といったほうが、私達の関係はしっくりくるのかもしれない。
そんな蓮司を前に私はポケットから携帯を取り出すと、素早く文字を打ち込んで蓮司の方へと画面を向けた。
「(蓮司は、部活でしょ?大会も近いし、キャプテンが休んじゃダメです)」
もうスッカリ慣れた様子でその画面を見つめた蓮司は、半分不貞腐れた表情を浮かべて、再び私へ視線を向ける。
「……わかった。だけど、何かあったら絶対俺に言えよ?」
「(うん、わかった)」
「それと、暗いとことか絶対に一人で歩くなよ?」
「(気をつけます)」
「……絶対だぞ。破ったら、デコピンだかんな」
「(……心配してくれてありがとう、蓮司)」
最後の言葉は文字として打ち込むことはせず、口パクで蓮司に伝えた。
そうすれば、優しい笑顔を見せた蓮司の温かい手が、一度だけ私の髪に触れて離れた。
* * *
(……と、いっても実は1つ、困ったことがあるんだよね)
駅までの道を一人で歩きながら、私は空になった制服の胸ポケットに触れていた。
─── 生徒手帳。
ここには、いつもなら生徒手帳が入っているはずなのに、今はない。
今朝、家を出る時には、きちんとあることを確認したはずなのに、学校に着いたらなくなっていた。
と、いうことは。普通に考えれば今朝のあの出来事のどこかで生徒手帳を落とした……ということに、違いなくて。
(困ったなぁ……)
駅に着いたら、落とし物として届いていないか駅員さんに聞いてみよう。
そう思って、私は歩きながら予め駅員さんに見せるための文章を、携帯に打ち込んでいた。
と、
「……平塚 栞(ひらつか しおり)さん」
「……っ!!」
「歩きながら携帯触ってると、また転ぶよ?」
突然名前を呼ばれて、弾けるように顔を上げた先。
するとそこには、今朝の彼─── 痴漢と転倒から助けてくれた酷く綺麗な顔をした彼が立っていて、私は思わず息を詰まらせた。
(な、なんで……)
「意外に、会えるもんだね。もっと、何時間も待ってなきゃいけないのかなーって、思ってたけど」
そう言うと、壁に預けていた身体を持ち上げ、優しい笑みを浮かべながら私の方へと歩み寄ってくる。
「運が良かったのかな。……すぐ、会えた」
(な、何……?これって、どういう……?というか、なんでこの人が私の名前……)
だけど、そんな彼とは裏腹に、私の頭の中は大混乱だった。
だって、どうして彼が今、目の前にいるのか。そして、どうして私の名前を知っているのか。
挙句の果てには、今の言い方だとまるで私を待っていたみたいで、どうして、そんな……
「……と。まず、先に。一つ、謝らせて」
「(……え、)」
「今朝拾ったこれ、つい出来心で中を見ちゃったんだ」
「……!!」
「ごめんね?」
だけど、そんな私の疑問はすぐに解消された。
そう言われて落とした視線の先。そこには、彼の綺麗な手に乗った私の生徒手帳があった。
「朝、キミが落としたのを拾って。それで……返すために、待ってたんだ」
(この人が……。そっか。それで、私の名前……)
心の中で納得の言葉を零し、彼から生徒手帳を受け取った。
不意に触れた手の温度は冷たくて、思わず彼と生徒手帳を交互に見ると、彼は何故だか困ったように眉を下げた。