たとえ声にならなくても、君への想いを叫ぶ。

 


「……樹生、帰るぞ」



昇降口まで降り、靴を履けば今度はぶっきらぼうに投げ掛けられた言葉。


それに足元へと落としていた視線を上げれば、自分に良く似た瞳が制服姿の俺を真っ直ぐに捉えていた。



「……迷惑掛けて、ごめん」



突然担任に呼び出され、仕事を早めに切り上げることを余儀なくされた父はスーツ姿のままで、手には仕事用の大きな鞄も持ったままだった。


そんな父の前まで行くと申し訳なさで居た堪れなくなり、思わず視線を落としてしまう。


すると今度は父からも、呆れ返ったような溜め息を渡された。


だけど、その溜め息は、つい先程まで学校内で寄越されていたそれとは違って、俺の心に酷く重く伸し掛かる。


─── あいつを殴ったのは、衝動的なものだった。


あの時は我を忘れて、その後に自分がどうなるか、そのせいで周りにどれだけの迷惑を掛けることになるのかなんて、少しも考えていなかった。


だけど、事情を聞かれる為に職員室まで連れて行かれる最中、俺の頭の中は酷く冷静さを取り戻して。


この後、学校から最悪の場合停学くらいの処分を下されること。


それによって、大学の推薦は諦めることになるだろうな……と、そんなとこまでしっかりと考えることができていた自分は、案外暢気だなとすら思った。


 
 


そして、そう考えた時に、これっぽっちも自分が後悔していないことに気が付いて、申し訳ないけれど胸の奥がスッとした。


あの時、栞を守れずにいた方がきっと、後悔しただろう。


大学の推薦が取り消されることなんかよりも、栞が今以上に傷つくことの方が、ずっとずっと後悔したはずだと、ハッキリと認識出来たから。


だから、俺の心には塵ほどにも後悔なんてなくて。


説明の時にも具体的な内容には触れず、自分が悪いのだということだけを主張する俺に、先生達は半ば呆れ返っていた。


結局その後、一部始終を見ていたサッカー部の後輩たちが俺は悪くないのだと何故か必死に説明してくれたらしく、俺が殴った相手も停学になって痛み分けとなったようだけど。


保健室に運ばれたあいつは、お世話になっていたサッカー部の顧問にもコッテリと絞られたようで、様子を見に行ったアキ曰く、もう二度と俺と栞に関わるつもりもないだろうということ。


その言葉に酷く安堵した俺はまだまだ子供で、本当にこの後自分がどれだけの人間に迷惑を掛け、それ以上に相手を落胆させることになるかなんて─── その時は、少しも考えてもいなかったんだ。


 
 


「……、」



視線を落としたままの俺を真っ直ぐに見つめる、父の強い視線を旋毛(つむじ)辺りに感じて心臓が軋んだ。


栞のお陰で父と和解したあと……父は父なりに、俺に歩み寄ろうとしていたことを知ってる。


部屋に置かれた観葉植物だってそうだし、定期的に調子はどうだと連絡してくるようになった。


そんな父との関係に照れくささを感じていた自分も、縮み始めたその距離を心地よく思っていることを、明確に自覚するほどに。


だけど、今回の一件で、また父との距離は遠ざかってしまったかもしれない。


父は父なりに、自分の母校を推薦で受験しようとしている俺を誇らしく思ってくれていたんだ。


それなのに、俺はそんな父の期待を裏切ってしまった。


自分がやってしまったことに、後悔はない。


だけど、父を落胆させてしまったことは───



「……何か、訳があったんだろう?」



後悔してもし足りないくらい、後悔してる。


 
 


「っ、」


「お前は……昔から俺に似て、自分の感情のコントロールが上手いようで実は下手だが……、だからといって、何の理由もなく人を殴るような人間でもない」


「……父、さん」


「まぁそれでも、例えどんな理由があっても人を殴るのはダメだがな。そこは、素直に反省しなさい」



父からの、予想もしなかった言葉に、こめかみを殴られたような気分だった。


「さぁ、帰るぞ」と、再びぶっきらぼうに言って歩き出した父の背中を見て、胸の中に熱い何かが込み上げる。


─── わかってもらえるなんて、少しも思っていなかった。


わかってほしいだなんて、少しも思っていないと自分に言い聞かせていた。


だけど本当は─── 父に、自分をわかってもらいたかったんだと思い知る。


周りになんと思われて、周りをどれだけ落胆させようと、関係無かった。


それでも俺は、今目の前にいる、父にだけは誤解されたくないと思ってたんだ。


 
 


「……今日は、そっちの家に行ってもいいかな?」


「うん?」


「そっちの……父さんと、母さんと住んでた家に。今日だけは……帰っても、いいかな?」



父の背中に向け、消え入るような声でそう尋ねれば、驚いたように目を見開いた父。


そんな父の様子の変化に、勢いに任せて自分達の距離を間違えたと、再び後悔に息を飲んだ。


けれど、思わず逃げるように俯いてしまった俺を慰めるように─── 頭の上に何年ぶりかもわからない父の大きな手が乗せられて、今度は弾けるように顔を上げれば優しさを宿した父の瞳が俺を見つめていて。



「……いつまでいてもいいから、帰って来なさい。あそこは、お前の家でもあるんだから」


「っ、」


「お前が住んでる今のマンションは、一旦引き払おう。少なくとも、お前が高校を卒業して受験が終わるまではウチにいなさい。その後のことは、また改めて話し合えばいい」


「でも……、」


「いいんだ、お前は何も気にしなくて。お前が病院に顔を出してから、相手の女性とも何度も話し合って……今は、あの家には誰もいないから。お前がしっかりと大学を卒業するまでは、お前がいつでも帰って来れる環境にしておこうと話がついたとこだった」


「っ、」


「……樹生。今まで、独りにして悪かった。今更だが、こんな時くらいは親らしいことをさせてくれ」



そう言うと、また何年ぶりかもわからない笑顔を見せた父に、今度は鼻の奥がツンと痛んで、それを誤魔化すように慌てて拳を握り締めた。


そんな俺を知ってか知らずか、再び背を向けて歩き出した父と2人で、帰り道に一人暮らしをしていたマンションに寄って、必要な荷物だけを運び出した。


その間も休む間もなく鳴り続けていた、携帯には気が付いていたけれど。


いつだって、知らず知らずの内に傷付けることばかりを選んでしまっていた俺は───


また自分のせいで傷付いてしまったであろう栞の声に、言葉を返す勇気が今は持てなかった。



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 『Sasanqua(サザンカ)』

 ひたむきな愛


 
 



「それで?あれから樹生先輩とは会えてないの?」



制服ももうスッカリと冬服に変わり、そろそろコート無しでは寒さに勝てなくなってきた頃。


その美しい顔には不釣り合いなほど、眉間に深いシワを刻んだアユちゃんは言いながら溜め息を吐いた。



「(……うん。先輩とは、会ってないよ)」



それに曖昧な笑みを零せば、切なげに眉尻を下げるアユちゃん。


─── あれから結局、何度樹生先輩に連絡をしても、先輩から返事が返ってくることはなくて。


だけど、それでも諦めることなんかできなかった私は、再び樹生先輩の通う高校に行き、アキさんに会って話をした。


そして、その時にアキさんから、樹生先輩の状況と一通りの事情を聞かされた。


なんでも先輩は、あのことをキッカケに、一人暮らしをしていたマンションの部屋を引き払い、今はお父さんと一緒に生活しているということ。


アキさんから話を聞いたその日に、改めて先輩が住んでいたマンションの部屋の扉の前まで行くと、先輩に最後に会った日にはまだあった、【SOUMA】と書かれた札が、無くなっていた。


それに、言葉にできない程の寂しさを感じた私は、本当に身勝手な奴だ。


そして、そんな私の心情を見透かしたように、先輩にどうしても会わせてもらえないかとお願いする私へ、ユキさんは切なげに眉を寄せながらこう言った。



「……樹生が栞ちゃんには会いたくないって言ってるんだ」、と。


 
 

ハッキリとそう言われてしまえば、逃げることなどできないくらいに心は軋み、降りかかる悲しみに抗うこともできなくて。


だけど、だとしてもそれは私の感情の問題で、それ以上しつこくお願いすることは、アキさんにも樹生先輩にも迷惑でしかないのだと悟った。


本当は、樹生先輩に会いたくてたまらない。


先輩のことが心配でたまらないし、先輩の顔を見るまでは胸に蔓延る(はびこる)不安は拭えそうにないから。


そしてもし会えたら、今更謝っても意味がないけれど何度でも謝りたかった。


私のせいで、私を庇ったせいで折角の推薦をダメにしてしまってごめんなさい。


たくさん迷惑を掛けてしまって本当にごめんなさいと、直接謝りたかったのに。



「俺からは詳しくは話せないけど……でも、受験のことも含めて樹生は前向きに動いてるから。だから、今は……少しだけ待ってやってもらえるかな?」



だけど、その全ては私のエゴでしかなく、アキさんの言葉を聞いて、先輩はもう、私とは関わりたくないのだと気が付いた。


優しい先輩とアキさんは、それをハッキリと私に言うのは憚られた(はばかられた)のだろう。


だとしたら、私に出来ることはたった一つだ。


諦めることが、今の私にできる最良のことなのだと、私は今更になって気付かされたんだ。


 
 


「……栞は、本当にそれでいいの?って言っても、向こうが会ってくれないなら仕方ないんだけど……でも、それにしても……」


「(いいの。全部、私が悪いんだもん。それにね、これ以上先輩に関わって、また先輩に迷惑を掛けることになったら、今度こそ私も立ち直れない)」



言いながら小さく笑みを零せば、アユちゃんは切なげに顔を歪めた。


……本当は、今でも先輩に会いたいよ。


毎日毎日、駅のホームで先輩の姿を探してる。


「おはよう」って、前みたいに優しく声を掛けてくれるんじゃないか、なんて夢みたいなことを思ってる。


もしかしたら先輩から連絡が来るかもと、寝ている間も携帯を握りしめている。


─── だけど、そんな希望を抱くのもいい加減やめなきゃいけないんだ。


だって、そんな希望を抱くことさえ、先輩には迷惑なことかもしれないから。


アキさんの話では、樹生先輩は今は受験に前向きに動いているという話だった。


だとしたら……私は、遠くから先輩のことを応援しよう。


先輩の夢が潰える事のないようにと、心の中で静かに応援し続けることが、今の私の精一杯なんだから。


 
 


* * *




「─── 樹生、本当に、これでいいの?」



窓際の席に腰を降ろしたまま、とっくに駅の方へと消えた栞の背中の残像を眺めていた俺に、アキの切なげな声が掛けられた。



「いいんだ、これで。俺に関わらなければ、栞もきっともう傷つくこともないだろうし」



そんなアキに視線だけを向けてそう言えば、今度は眉根を寄せて俺へと強い目を向ける。



「……それ、本気で言ってんの?この間の一件は、別に樹生のせいじゃないじゃん。あいつが勝手に嫉妬して……勝手に、栞ちゃんの噂を流しただけだろ?」


「うん、そうだね。だけど、俺に関わらなければ栞は噂を蒸し返されて、あんなに傷つくこともなかった。それは事実だろ?」


「だけど……栞ちゃんはきっと、そんなこと気にしてないよ。今だって、樹生のこと本当に心配して、一言でも謝りたいって……」


「……ほら、それも」


「え?」


「俺が停学になって大学の推薦が取り消しになったことも、栞は全部自分のせいだと思ってる。
あれは、俺が衝動的に起こした問題で、栞のせいじゃないのに……栞は、自分を責め続けてる。
今、会ったら、アキの言うみたいに栞はきっと俺に謝り続けるよ。
そんな栞に、大丈夫だから、気にするなって言ったところで、優しい栞は責任を感じたまま。……結局、今会って俺が何を言ったところで、少しも栞の救いにはならないから」