足を止め、振り返ることもせずにその場に立ち止まれば、幼馴染みくんが困惑で身体を小さく震わせたのが視界の端に映る。
「せ、先輩?何、言って……」
「もう、どうなったって知るか!Twitterで、あの女の写真を今以上に流しまくってやるっ!もっともっと、噂を広めてやるっ!そしたら今度こそ、あの女もお終いだっ!今以上に、苦しめてやるっ!!」
「っ、」
「お前とあの女が悪いんだっ!2人して俺のことをバカにしやがって……っ。人殺しの子供のくせにっ。父親は、どうしようもないクズのくせに……っ」
「……、」
「声が出なくてしゃべれないなんて普通じゃない女が、俺みたいな真っ当な人間に好きになってもらえただけでも有難いと思え!“欠陥品”のくせに、調子に乗るのもいい加減にし─── 」
「……っ、おいっ!!」
「っ、」
気が付いたら、身体が勝手に動いていた。
─── “心ない言葉を平気で言える人間は確かにいる”
怒りで真っ黒に染まった思考の片隅で、ほんの数十分前、栞にそう言ったその言葉を思い出した。
俺は栞に出会って、言葉の尊さと言葉の持つ優しさを知った。
栞は、知っているだろうか。
言葉は口にした瞬間、言霊という名の目には見えない不思議な力を持つらしい。
口にした言葉には見えない力が宿って、その言葉を現実に起こり得る出来事にしてしまうってこと。
そんな非現実的なこと……今までの自分なら、少しも信じなかっただろう。
だけど、今になって思うんだ。
栞に出会ってから、その見えない力はいつだって俺に、たくさんの感情と原動力を与えてくれた。
いつだって、栞の優しい言葉が俺の背中を押してくれたんだ。
「お、おいっ、そ、相馬─── 相馬先輩っ」
「……うっ、ぐ、」
「せ、先輩っ!!止め─── 」
「─── おいっ!!そこで何やってるんだっ!!」
「ぐ、っ」
「そ、相馬!?相馬か!?お、おいっ、止めろ!!相馬、今すぐ降りなさい……っ!!」
「っ、」
そんな─── 俺を制する大人の声を聞いたのは、どれくらいが経った頃か。
気が付けば俺は馬乗りになり、許しを乞うそいつの顔を殴っていた。
拳には血が滲み、自分の手がいつの間にか切れていたことすら気付けずに。
騒ぎを聞きつけた大人たちに無理矢理腕を捕まれ、引き離され、切れる息で精一杯呼吸を繰り返しながら、痺れるような手の痛みを感じてもまだ─── 足りない、気がした。
「そ、相馬っ。お前なんで、こんな─── 」
「……足りない、」
「な、なんだ?」
「全然……足りない……っ」
「っ、」
拳が切れて、そこから赤が滲んで追いかけるように痛みが拡がっても。
俺にどんなに痛みが増えても、まだまだ何もかもが足りない気がした。
─── 栞が今日まで痛めてきた心の傷に比べたら。
こんな痛みじゃ到底足りない気がして、それを思えば悔しくて悲しくて……やりきれない気持ちだけが拡がって。
その全てに蓋をするように一度だけ瞬きをすれば、冷たくなった頬に涙の雫が一滴、静かに伝って零れ落ちた。
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『Sweet Alyssum(アリッサム)』
美しさを超えた価値
蓮司の口から紡がれる言葉の全てが信じられなくて、信じたくなくて、話を聞きながら、どうかこれが夢であってほしいと何度も願った。
こんな風に思うのは、お父さんのあの事故以来。
私の心はあの日のように現実を受け入れることを拒絶する。
けれど、いつもは男の子特有の凛々しさと逞しさを携えている蓮司の酷く狼狽えた様子が、今聞かされた話の全てが真実なのだと私に告げていた。
「俺はっ、そうなった事情を先生に説明しようとしたんだけど、あいつ……相馬先輩が、絶対に言うなって耳打ちしてきて……っ。先生に話したら事が大きくなって、また栞が傷付くことになるかもしれないから、って……」
「(そんな……)」
「ほ、本当は……その時、栞にも言うなって言われたんだけど、でも、黙ってるわけにはいかねぇよ……っ。俺……まさか、こんな事になるなんて……」
「それで……っ、樹生先輩はどうなったのよ!?」
「犯人だった先輩と一緒に先生に連れてかれて、でも俺は他校生ってことで帰された……。だから、その後どうなったかは全くわかんねぇ……っ」
そこまで言うと、「俺が会いに行かなきゃ……。全部俺のせいで、本当にごめん……っ」と、頭を抱えた蓮司を、それ以上責める気になんてなれなかった。
だって……蓮司が悪いんじゃない。
悪いのは、その犯人の先輩と─── こんなことに樹生先輩を巻き込んでしまった、私だ。
全部私のせいで、こうなった。
私に関わってしまったばっかりに先輩は───
「っ、栞!?」
「っ、」
「ん?おお、平塚。もう、体調はいいのか?ホームルーム始めるから席につけよぉ」
けれど、先輩の元へと駆け出そうとした足は、タイミング悪く教室に入ってきた先生によって止められてしまった。
私を不思議そうに見下ろす先生に、慌てて事情を説明しようと頭の中で考えたけれど、なんと説明したらいいのかわからなくて。
結局私はそのまま自分の席に戻る他なくて、ホームルームが終わるまで、震える手を制服のスカートの上でひたすらに握り締めるしかなかった。
【先輩、蓮司から話を聞きました。学校が終わった後、会えませんか?】
【先輩、話し合いは終わりましたか?説明はしましたか?】
【先輩、今もまだ学校にいますか?先輩の授業が終わる時間に合わせて私も学校を出るので連絡をください】
【先輩、先生に全ての事情を話して、どうか私を庇わないでください】
【樹生先輩、大丈夫ですか?】
ホームルームの合間と授業の合間に、先生の目を盗んで何度も先輩へ、メッセージを送った。
鬱陶しい、迷惑だと思われてもいい。とにかく、先生のことが心配で仕方がなかった。
朝のホームルームが終わった後、本当は先輩の学校へと向かおうと思ったけれど、冷静なアユちゃんに諭されて踏み留まった私。
「闇雲に会いに行っても、あっちは男子校な上に向こうも授業中だろうし、学校には簡単に入れない。まずは樹生先輩に連絡を取ってみたら」、と。
確かにアユちゃんの言う通りだと思ったし、今のこの状態で先輩に会いに行っても、更に先輩に迷惑を掛けることになるかもしれないから。
だから私は、先輩に何度もメッセージを送った。
同じような内容の、返信を求めるメッセージを何度も何度も。
─── だけど、その全てに先輩からの返信がくることはなかった。
それどころか、【既読】のマークすら付かないことに、私の中で焦りばかりが大きくなっていく。
「─── 起立、礼。ありがとうございましたぁ」
「っ、」
「あ……、栞っ!!」
そうして、今までの学校生活で一番長く感じた一日を、学級委員長の挨拶と供に終えた私は、待ってましたとばかりに鞄を掴んで教室を飛び出した。
教室を出る瞬間、アユちゃんの焦ったような声が聞こえたけれど、それに答える時間すら惜しくて。
そのまま駆け足で学校を出た私は、駅向こうにある樹生先輩が通う男子校へと急いだ。
「……っ、」
校門の前まで来ると、乱れる呼吸を必死に整えながら校舎へと目を向けた。
初めて来るそこは、当たり前だけど見渡す限り男の人ばかりで。
漂う空気もなんとなくだけれど、私の通う共学の学校とは違って、男子特有の粗雑なものを感じる。
樹生先輩のクラスは、【3−A】。
だけど、クラスはわかっても、それがどこにあるのかはさすがにわからない。
「(き、聞かなきゃ……っ)」
校門の前で立ち往生する私を、通り過ぎる学生達が物珍しそうに見ていく視線を感じながら、私は携帯をタップして勇み足に文章を綴った。