たとえ声にならなくても、君への想いを叫ぶ。

 


気が付けば、俺と彼女の距離は縮まっていて。


いつの間にか、きつく握り締めていたらしい俺の拳に、栞の温かい手が触れていた。


その温度に、力が抜ける。


顔を上げればそこには眉を下げ、表情に心配を浮かべた栞がいて俺は再び小さく息を呑んだ。



「(先輩……?)」


「……何も、ないよ」


「(え?)」


「何も、ないから……」



彼女の声が、聞こえたわけじゃない。


ただ、触れているそこから伝わる体温と彼女の表情が、俺に“何かあったのか”と、そう尋ねている気がしたからそう応えただけだ。


だけどそんな俺の言葉に黒曜石のような瞳を揺らした彼女の唇が、「……でも」と動いた。



「……とりあえず、外、出ようか」



そんな彼女を見ていたら、胸が酷く締め付けられて。


俺は小さな声で彼女にそう告げると、その温かい手を引いて図書館をあとにした。



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 『Marigold(マリーゴールド)』

 嫉妬・悲しみ


 
 





学校を抜け出した私が向かったのは図書館だった。


何か、大きな理由があるわけではない。けれど、一番に思い浮かんだのが図書館だったから。


そこでしばらくの間、お気に入りの席に座って本を読んでいた私は、今日はどうしようかと悩んでいた。


勢いに任せて飛び出してきてしまったけれど、学校の方は大丈夫そうだ。


アユちゃんからLINEで【先生には、体調悪そうだったから帰ったって伝えといたよ】という、ありがたい報告が届いたから。


ということは、あとは放課後の時間までどうやって過ごすか、なんだけど。


こんなに早い時間に帰ったらお母さんが心配するだろうし、まさか学校をサボったなんて言えないから、家には帰れない。



(……とりあえず、ここで1日、本を読んでいようかな)



そう思って、私は開いていたノートを閉じると席を立った。


そして、嫌なことを忘れて没頭できる本を探すべく、本棚の間を歩いていたのだけれど、



(……え?)



そこにいた思いもよらぬその人に驚いて、思わず足を止めた。


 
 


視線の先。

そこには真っ直ぐに本棚を見つめている、樹生先輩の姿。


だけどそれは、本を探している風ではなく、ただただ、そこに佇んでいるだけのように見えて。


その姿に違和感を覚えた私は、必然的に眉根を寄せた。


ゆっくりと視線を下に落とせば、先輩の拳は強く握られ小さく震えている。



(……先輩?)



色のない、瞳。


普段から大きな感情の変化を見せるわけではない先輩だけど、今はそんな普段とは違って、何かを自分の中で押し殺しているような。


何かを思い詰めているような……、そんな風に見えて、



「─── っ、」



と。

そんな思考を巡らせながら先輩の横顔を見つめていると、不意にこちらへ視線を向けた先輩と目が合った。


 
 


「…………栞?」



先輩の、艶のある声が私の名前を奏でる。


それに一瞬心臓が高鳴ったけれど、いつもより掠れたその声と私を見る先輩の表情に、次の瞬間には胸が不安で押しつぶされそうになった。


……だって、だって。

先輩の、こんな弱った表情(かお)を見るのは初めてで。


こんな風に、傷付いた表情を私に向けたことなんか、今まで一度もなかったから。



「(……先輩?何か、あったんですか?)」



固く、握り締められた拳。


気が付けば私は、温度を無くした先輩の手を取っていた。


そんな私の行動に驚いたのか、先輩の手から力が抜ける。


それに一瞬視線を落とした後、再び先輩を見上げれば「何もないよ」と力なく笑う樹生先輩。


そんな先輩を前に、どうすればいいのか。


どう見たって“何もない”はずがない先輩を前に、なんと声を掛けたらいいのか迷っていた私に───



「……とりあえず、外、出ようか」



先輩はそう言うと、触れ合っていた手を掴んで優しく引いた。


 
 


* * *




「そこ、座ろうか」



近くにあったスターバックスでアイスコーヒーとアイスティーを買った私達は、それを持って小さな公園に入り、青いベンチに腰を下ろした。


夏を目前にして、酷く湿気を含んだ空気は梅雨特有のもの。


手の平に伝わるアイスティーの冷たさが、やけに心地よく感じた。



「それで?栞は、なんでこんな時間に図書館にいたの?」



─── 図書館を出てからの先輩は、もういつも通りの先輩で。


あの一瞬、先輩が見せた表情は私の見間違いだったのかな、なんて思うほどに声もいつも通りだ。



「(あの……実は、同じクラスにいる幼馴染みと、喧嘩しちゃって。それで、その勢いのまま学校を飛び出してきたんです……)」



その理由が先輩のことで、なんて。そんなことはとても言えないけれど。


喧嘩の理由は書かず、それだけを打った画面を先輩に向ければ文字を一度だけ視線でなぞった先輩は、その綺麗な顔に優しい笑みを浮かべた。


 
 


「喧嘩するなんて、栞でも怒ることあるんだね?」



綺麗に目を細め、そんなことを言う先輩。


そんな先輩の言葉や表情の変化に一々反応してしまう私の心臓は、先輩に出会ってから絶対にどこかおかしくなってしまったんだ。



「(……人間ですから。怒ること、たくさんありますよ)」


「ふはっ、そうなんだ。だとしたら、俺も栞のこと怒らせないように気を付けなきゃ」


「(先輩に怒ることなんかないですよ……。先輩、私が怒る前に先回りして全部解決しちゃいそうですしっ)」


「えー……何、その高評価。俺、そんな特殊能力ないんだけどなー。……でも、まぁ、大丈夫だよ」


「(……え、)」


「だって、その幼馴染みの子は、栞が遠慮なくぶつかっていける相手ってことでしょ?」


「……、」


「そういう相手って、中々いない。だけどそれは、相手が自分の感情を受け止めてくれるからこそで、逆に考えれば自分が相手のことを、それだけ信頼してるって証拠だから」



 
 


“自分が相手のことを、それだけ信頼してるって証拠”



先輩のその言葉に、私は蓮司との今までを思い浮かべた。


─── 小さい頃から、いつも一緒にいた幼馴染の蓮司。


蓮司は昔から曲がったことが大嫌いで、荒っぽいところはあるけどいつだって優しくて。


楽しいことがあれば2人で喜んで、私が間違っていたら怒ってくれて……それでも、どんな時も、私の味方でいてくれた。


だから。

そんな蓮司だからこそ、私は許せなかったんだ。


真実だという確証もなく、噂だけを信じて、先輩のことを悪く言う蓮司のこと。


蓮司は、そんなこと絶対にしないって、そう信じていたから。


何より、“ あの日 ”のことを知っている蓮司だからこそ私は、ついあんな風に、むきになって───



「だからさ、その子も栞が言いたかったこと、ちゃんとわかってくれてるよ」


「(……せん、ぱい)」


「そんな顔しなくても、大丈夫。すぐ、仲直りできるから」



ポン、と。その言葉と同時、優しく髪に乗せられた手。


その手の温かさに、一瞬脳裏を過ぎった“あの日”を振り払うかのように、私は深く頷いた。


 
 


「あ。アイスコーヒーの氷、大分溶けてる。こういうの見ると、もう夏が近いって現実を思い知らされるよね」


「(……先輩は、夏、嫌いなんですか?)」


「好きなように見える?夏って暑いだけじゃん。あ、夏休みは大歓迎だけど」



それから、それ以上その話題に触れることもなく、先輩とは日常に起きた些細なことをお互いに話した。


先輩の、お友達のこと。アルバイトのことや、授業やテスト、受験勉強のこと。


気が付けば、時計の針は6時限目の終わる時刻を指していて、公園の近くにある小学校からは下校時刻を知らせるチャイムの音が流れた。



「……もう、こんな時間か。2人でいると、時間経つのが早いね?」


「(……はい、本当に)」



……本当なら。

私が先輩を励まさなきゃいけないはずだったのに、結局私が励まされて、先輩の話は聞けなかった。


図書館で強く拳を握り、本棚の前で佇む先輩は、間違いなくいつもの先輩ではなかったのに。


それなのに、今の先輩があまりにも普通で。


あまりにも、いつも通りの先輩過ぎるから……



“……何も、ないよ”



あの一瞬だけ見せた思い詰めたような様子は、全部、私が見た夢だったんじゃないかとさえ思えてしまう。


 
 


「あ……雨だ、」



と。

私達がベンチから腰を上げ、先輩がそう言葉を零したと同時、空から落ちてきた雫が私の頬に触れた。


─── 雨。

見上げると空は一面雨雲に覆われていて、落ちてきた水滴は休む間もなく地面にシミを残していく。


……って、いうか。

これってもしかして……、ううん。もしかしなくても───



「─── って、うわ、急に降ってきた!」


「(う、嘘ー…っ!!)」



想定外のその雨は瞬く間に本降りに変わり、傘を持っていない私と先輩を濡らした。


それでもすぐに、私たちは木の下へと避難したのだけれど。