「そんな格好で出ていくなんて馬鹿か、あなたは」


葦原くんは私を離さず、背後から髪に顔を埋める。
吐息と、響く声に全身が痛くてちぎれそうだ。


「離してください。本当に、お願い。……もう、今日は帰らせて。許して」


「駄目だ、許さない。あなたは帰って、俺と寝るんです」


腕から抜け出そうともがくけれど果たせない。

なんて、嫌な男だろう。
これ以上、貶めるのはやめてほしい。


「イヤ……イヤ……、あし……はらく……の顔、見ていたくない」


情けなくも私は泣き崩れてしまった。
私を馬鹿にし、傷つけ、抱きしめる男の腕から滑り落ち、みっともなく座り込んでしまう。

消えてしまいたい。

ドヤ顔で夕食を作って、本心を暴かれて拒絶されて。
それでもなお、解放してもらえない我が身が哀れだった。

帰宅する人たちが私と葦原くんのことをじろじろと見ている。だけど、私は泣き止めなかった。うずくまり、肩を震わせ、のばされた葦原くんの手を拒否する。

今日は許してほしい。
こんな辱めを受けてなお、彼に身体を求められるのはつらい。

しばらく、葦原くんは立ち竦み、私のことを見下ろしていた。
彼にとっては、コントロールに失敗している状況だ。
きっと、よりいっそう苛立っているに違いない。

そうだ、彼が怒りでここを去るのを待とう。
しかし、葦原くんは去るどころか、私の隣にかがみ込み、私の背をさすり始めた。冷えないようにと温めているのだ。


「長いこと……誰かの手料理なんか食べたことないんです」


やがて葦原くんがポツンと言った。


「付き合う女にも作らせたことがないんです。なんか……怖いっていうか。相手の大事な部分を奪っているみたいで」


葦原くんは言葉を選んでいる。それは、私を丸め込みたいのではない。
自分の気持ちをきちんと説明しようとしているのだ。

私は顔をあげて、驚いた。
私を見つめる彼のイエローグリーンの瞳が思いのほか真摯な光を宿していたからだ。

彼は、今本音で話そうとしている。嘘で固めたって私には通じないから、本心を伝えようとしているんだ。


「食事は……生活に根差しているでしょう。それを、作る間柄っていうのは、けしてライトな関係じゃないし……沙都子さんがどうとかじゃなくて、どっちかというと俺の問題で……」


「ごめんなさい。もう、二度と作らないから」


「そうじゃなくて!」


葦原くんが強く言ってから、恥じるように顔をそむけた。
「……今日はちょっと、変な感覚で。……帰って、沙都子さんが作ってくれた夕食を……食べたいんです。一緒に」


「葦原くん……」


「とにかく!命令ですから、すぐに俺の部屋に戻ってください」


わざと強い口調で言って、葦原くんは私を抱きかかえるように立たせた。
涙でぐしゃぐしゃな私の顔を親指でごしごしこする。


「葦原くん……痛い……」


「目も鼻も取れやしませんから大丈夫ですよ」


「でも……こすれて痛い」


「あなた程度の女って……あの言葉だけ撤回します。沙都子さんは全部綺麗だ。俺なんかに関わらなきゃ、きっともっと幸せになれるのに」


自嘲的に言って、葦原くんは私の顔から手を離した。
私はこすられてヒリヒリする頬を撫で、何も言わなかった。

彼の拒絶の言葉の力はものすごく、私はまだ竦んでいた。
しかし、その後の告白で心は大きく動いていた。

葦原くんは私の腰を抱き寄せ、寄り添って歩く。
何度も私の髪に口づける。そんな愛おしそうな素振りに、彼が悔やんでいることが伝わってくる。
私を傷つけたことを、彼は初めて後悔しているようだった。

葦原くんの腕はあたたかく、私の縮み上がった身体はやがてゆるやかにほどけていった。







『沙都子、そろそろ母さんに顔を見せてやってほしい。
母さんはおまえに本当に会いたがっているんだ。

次の土日のどちらかはどうだろう。俺も父さんも家にいる予定だ。
沙都子が来るのを待っているよ』



兄の修平からこんなメールがきた。


最近、連絡が頻繁だ。
私はメールを返そうとして、一度携帯をしまった。

断りの連絡は早くすべきと思いながら気鬱だった。

本当は平日に休みをとって、母に顔を見せに行こうかと思っていた。
正月に帰れない詫び入れだけど、兄がいない日の方が都合がいい。
しかし、年末で繁忙期のため、なかなか平日に有休をとりづらく、今日まで来てしまった。


学芸大学駅についた時刻は20時。今日は順調に仕事を終え、普段より早めに帰ることができた。
葦原くんの部屋には昨晩泊まりだった。さすがに二晩連続というのは滅多にない。

改札を出ると着信が入っていることに気づく。

兄の名がディスプレイに表示され、ぞっとした。

しかし、気付いてしまったものは仕方ない。週末の断りもかねて出ることにする。
『沙都子、今どこだ?』


「えっと、帰り道」


『今日、仕事で学芸大学駅の近くに来てるんだ。これからおまえの部屋に寄っていいか?』


「え……、それはちょっと。掃除してないし。あと、まだ家についてないの」


必死に断りの言葉を探していると、肩をポンと叩かれた。
振り向いて戦慄した。

そこに兄が立っていたからだ。


「ちょうどよかったよ。ここで会えて。母さんのことで話がしたいと思ってたんだ」


私には全然ちょうどよくない偶然だった。

いや、偶然であるかも怪しい。

私は引きつった笑顔で、答える。


「兄さん、ごめんなさい。これから会社に戻るの。家には着替えに戻っただけだから」


「ほんの少しだからいいだろう?おまえの部屋までの往復で話そう」


「でも、シャワーとか着替えがあるから。時間かかるし」


なんとしても、密室でふたりきりにはなりたくなかった。

兄は苦笑いをして見せる。それが好印象だとわかってやっているのだ。


「おいおい、家族に対して冷たいな。おまえは昔から、少し気難しいところがあったもんな。わかった。嫌なら、部屋には入らないよ。外で待ってる」
「待たせるかもしれないけど」


「そのくらいはいいさ。ほら、行こう」


兄はなぜか先に立って歩き出す。
私の部屋の住所は母しか知らない。大方、すでに母から聞き出し、下見してあるのだろう。

そんな兄の周到さを気味悪く思う。

歩きながら話すことは母の具合が悪いなんてことで、なんとか私を実家に戻そうという気持ちを感じた。
でも、私は母とも父とも電話している。
母の体調不良がちょっとした胃炎で、もうとっくに良くなっていることも知っている。

兄の言葉は大袈裟の度合いを超えている。方便でもない。
単純に『大嘘』の類だ。

歩きながら、私は極力兄に近づかないように、距離をとった。
兄は隙あらば、私の腰を抱こうと近づいてくる。

兄の愛情は異常だ。

兄はけして女性に好かれない容姿はしていない。
葦原くんと同じくらい背が高く、肩幅もがっしりとして顔立ちも端正だ。美丈夫という言葉がしっくりとくる。
何度か縁談が持ち上がったのも知っている。
しかし、兄は誰とも結婚しなかった。

女性との付き合いがゼロというわけではなさそうだ。しかし、私にだけ異常な執着を示してくる。

今でも思い出す。私が実家を出るきっかけになった出来事を。
私が悪夢にうなされる出来事を。
「沙都子」


不意に兄が静かな声で言った。


「おまえ、恋人ができたのか?」


え?
聞き返す声は軽く、冷えた夜空に消えた。
兄は私を見下ろし、何も映さない暗い瞳を向けている。


「俺を部屋に上げたがらないっていうのは、男が出入りする部屋だからだろう?それに、正月の旅行も、相手は男なんだろう?」


答えを逡巡することなく、私は頷いた。


「そう。付き合ってる人がいるの」


はっきりと言い切った。
頭に浮かんでいるのは表向きの恋人・葦原くんだ。


「おかしくないでしょ。私ももう30だし」


「結婚を考えてるのか?」


兄の問いは詰問口調だ。切羽詰まった様子の兄に、あえて笑顔で答える。


「彼の方が若いから。まだ、そんな具体的には話してないの」


ちょうど、私の住む縦長のマンションにたどり着く。

私は話を中断して、自室のカギを開ける。この瞬間は少し、緊張した。
一歩、中に入り、素早く振り向くと「ごめんなさい、待ってて」と兄を締め出した。
兄とドア一枚を隔てただけでだいぶほっとする

「沙都子ォ」


玄関のドアを挟んで兄の声が聞こえる。
今、緩んだばかりの心が、きゅっと固まった。


「兄さんは賛成できないなぁ、年下の男なんて」


こつん。

そんな音が聞こえる。

こつん、こつん、こつん。


兄が爪でドアを叩いているのだ。

こつん、こつん、こつん。

まるで私を包囲していると言いたげな、その音。


「少し、待ってて」


そのまま、帰って。

私は心底願いながら、シャワーを浴び着替えた。
爪の音は止んでいたけれど、兄がそこで待っているだろうことは気配で察せられた。

家を出る前にLINEを送る。

葦原くんにだ。

『申し訳ないのだけど、今夜泊めてくれませんか?』

すぐに『了解しました』という返事がきて、安堵した。

部屋を出ると、すかさず兄が言った。


「二子玉川まで送るよ」


「遠慮するわ。電車の中でお客さんにメール返しちゃいたいし」


兄はそれ以上食い下がらず、私たちは学芸大学駅で別れた。


「沙都子が戻ってくるのを、俺は待ってるからな」


兄がホームでつぶやいた言葉だけがいつまでも耳に引っかかっていた。









二子玉川駅にたどり着くと、改札に葦原くんが来ていた。
スーツではない。コートにスリムタイプのチノパンだ。
帰宅していたのにわざわざ迎えに来てくれたのだと気づき、安堵でへたり込みそうになった。


「今日は帰ったと思ってましたが、どうしたんですか?真っ青ですよ」


思いのほか、気を張っていたようで、葦原くんの顔を見た瞬間から手が震えだした。
私は差し出された彼の手をとって、深く息をついた。


「ありがとう。助かる」


「そうじゃなくて、どうしたんですか?って聞いてるんです」


葦原くんの部屋に向かう道すがら、私は兄と遭遇したことをぽつりぽつりと話した。
最近連絡が多いこと、今日は急に家の近くに現れたこと。

話を聞きながら、葦原くんは渋い顔をしていた。


「前も思ったんですが、沙都子さんのお兄さんはあきらかにあなたを性愛の対象としていますよね」


その言葉にぎくりとし、すぐに彼に隠してもしょうがないと考える。
葦原くんほど察しがよければ、私の説明と以前見た光景で、充分兄の異常さに気づくだろう。