晴ヶ丘高校洗濯部!




そこで逡巡するように言葉を区切った桜さんは、右へ左へと視線を泳がせる。

どうしたんだろう、と続きを待っていると、何かを決めたように桜さんは小さく頷いて私を見た。


「ねえ、葵ちゃん」


ゆっくりと私の手に桜さんが触れる。白くて、ふっくらしていて、綺麗に爪が切りそろえられている手。

冷え性なのか、少しひんやりとしたその両手は、私の左手を包み込む。



「私と、友だちになってください」


前髪に隠れた私の瞳を覗き込むようにして、桜さんはそう言った。

高校に入ってから、私がなかなか言えなかったその言葉。誰かに言ってもらえるなんて、思ってもみなかったその言葉。

真っ白になった頭の中で、その言葉を噛み砕いていく。

すると、じわじわと心が温かくなって、鼻の奥がツンとして、喉元に何かが込み上げてきて。慌ててそれを隠すように息を吸う。



「わ、……私でよければ!」


いっぱいいっぱいになりながら頷くと、桜さんはゆるゆると口角を上げて、きゅっと私の手を握った。

左手に力を込めて握り返すと、私と桜さんの体温がどんどん混ざっていくような気がして、私はとても、とても嬉しかった。












「ありがとね、葵ちゃん」


すっかり夜になってしまった空の下、駅まで送ると言ってくれた紫苑先輩と二人、並んで歩く。

お礼を言うのは私のほうです、と首を振ると紫苑先輩は少し考えるように間をとってから、こんな話をし始めた。


「桜はね、幼なじみで。あ、私の家、あの子の一個上の階なんだけど、生まれた頃からずっと一緒に育ってきたの」

「え、紫苑先輩のおうちもあそこなんですか? じゃあわざわざ送っていただくの申し訳ないです」


よく晴れた東の夜空には、まん丸の月が上ってきていた。ガードレールに区切られた歩道は、等間隔に並んだ街灯で照らされている。車の通りもそれなりにあって、この時間に一人で歩いても怖くなさそうな道だと思った。

私がそう言って立ち止まると、隣を歩いていた紫苑先輩は慌てたように振り向いた。


「それは駄目よ、葵ちゃんは女の子なんだから」

「いや、でも……」

「駄目なのよ!」


突然言葉を強めた紫苑先輩に、思わず肩が強張る。一瞬の沈黙のあと、ハッとしたように紫苑先輩は私を見た。


「あ、ごめ……、ごめんなさい、葵ちゃん」


ごめんなさい、と。もう一度力なく呟いた紫苑先輩。いえ、と首を振りながら、いつもと違うその様子に私は疑問を抱いていた。






そもそも今日、紫苑先輩と一緒に桜さんの元へ行くことになったのは、私が紫苑先輩が女装している理由を知りたかったからだ。

性的マイノリティーというわけではない、と紫苑先輩が言っていたあの日から、自分でもそれ以外の理由を探してみた。でも、答えは見つからなかった。その答えが桜さんに会えば分かるのだろうと思っていたけれど、実際に会ってみてもよく分からなかった。

その話が出るどころか、三人で羊羹を食べて少女漫画を読んで最近のドラマについて話したくらいで、完全に女子会だったのだ。


首を突っ込むべきじゃなかったのかもしれない。理由なんて聞かないほうがよかったのかもしれない。

でも、気になってしまったのだ。


「あの、ちょっと聞いてもいいですか?」


革の鞄を肩にかけ直しながら、私は顔を上げた。紫苑先輩は小首を傾げて、続きを促してくれる。



「紫苑先輩がその格好をしているのは、どうしてですか?」


我ながらど直球な質問だったと思う。けれど、変にオブラートに包んでも、きっと紫苑先輩には気付かれてしまうのだろう。それに私は話すのが下手だ。上手くオブラートに包む技術を持ち合わせていたら、こんなにこじれることはなかったと思う。言葉は少なく、短く。うん、これでいいはず。

どきどきしながら紫苑先輩の答えを待った。吹き抜けていく風が冷たい。五月の下旬とはいえ、まだまだ寒暖の差が激しい。そっと肩を縮ませつつ、視線は紫苑先輩から離さなかった。

紫苑先輩は私の投げかけた質問に、一瞬驚いたように目を見開いた。風でなびく艶のある黒髪は、街灯の光を受けて輝いている。真意を探るようにじっと向けられた視線は、しばらくの沈黙のあと、不意に緩められた。








「……好きな子と話すためよ」



ぽつり、と。

赤いリップが似合う唇から言葉が落ちる。


「……へ?」


その予想外の答えに、素っ頓狂な声が出た。そんな私を見て、紫苑先輩は困ったように笑う。


「そうねえ、どこから話せばいいかしら」

「え、えっと、ちょっと待ってください。紫苑先輩の好きな子、って」

「さっき会ったでしょ?」

「桜さん!?」


大きい声出るわね、と笑いながら紫苑先輩は肯定を示す。思いがけない恋バナにテンションが上がってしまった私は、口元を押さえて、さっきまでいたマンションの方向を見た。


「今日葵ちゃんに来てもらったのはね、葵ちゃんが女の子だからなの」


歩きながら話しましょうか、と促されて駅のほうへと足を進める。私に合わせてゆっくり歩いてくれる紫苑先輩は、そのハスキーな声で言葉を紡ぐ。






「日向にも真央くんにも、桜と会わせたことはないわ。……どういう意味だか分かる?」

「えっと……男性恐怖症、とか」

「ぴんぽーん、その通り」


紫苑先輩はわざとらしく明るい口調でそう言った。

私は自分で答えておきながら、それが正解だったことに困惑した。桜さんが男性恐怖症ということは、生まれた頃からずっと一緒に育ってきた紫苑先輩はどうしていたのだろう。

そんな疑問を読み取ったかのように、紫苑先輩は言葉を続ける。


「昔はそんなことなかったのよ。私も普通にモテモテのイケメンだったわ」

「あ、そうなんですか」

「……葵ちゃん、ここは突っ込むところよ」


そう言われても、これだけ美人な紫苑先輩がイケメンじゃないわけがない。きっと男の人の姿だったとしても、モテモテなことには変わりないだろう。

それにしても、と思う。昔はそんなことなかった、ということは、桜さんが男性恐怖症になったのには何かきっかけがあるはずだ。


「あ」


そこまで考えて、不意に思い出したことがあった。突然声を上げた私を、紫苑先輩は不思議そうに見る。


「桜さん、記憶が曖昧なところがある、って……」


黒曜石みたいな瞳が揺れた。

紫苑先輩の綺麗な横顔が歪んだのを、私は見てしまった。

きっとそれが答えだった。






「私たちが高校に入って一ヶ月くらいしたときにね、この辺で強姦未遂事件があったのよ」


ヒュッと喉が鳴った。

そんな私を見て、紫苑先輩は苦笑する。


「慌てて病院まで会いに行ったわ。でもね、あの子は私のことを覚えていなかった。精神的な苦痛を受けたことで記憶の一部を失ったんだって。ボロボロになったあの子に拒絶されて、私は心底死にたくなったわ」

「……紫苑先輩」

「それでも私、馬鹿なのよね。どうにかして話したいと、……隣にいたいと思ってしまったのよ」


ねえ葵ちゃん、と紫苑先輩がうわごとのように言う。私はもう、先輩の顔を見ることができなかった。


「私が男だって知ったら、あの子はどうなると思う?」

「……っ」


「抱きたいって思うわ。最低でしょ。でも仕方ないじゃない、私はあの子のことが好きなんだもの」



聞かなければよかったと、今さら後悔しても遅い。

今にも泣きそうな顔で笑う紫苑先輩に、どんな言葉をかければいいのか、なんて私に分かるはずもなかった。



「だから私は、この汚い気持ちを悟られないように、完璧な女の子を演じるのよ」


笑えるでしょ、と呟いた紫苑先輩から、甘いフローラルの匂いがする。

鎖骨下あたりまで伸ばされた艶のある黒髪。白く透き通るような肌。赤いリップの映える唇。


――それはどこからどう見ても、完璧な女の子だった。










5月26日 晴れ



洗濯日和が続いていますね。

いっぱい干しても、からっと乾くので嬉しいです。

あ、今日の放課後もお休みします。

日向先輩、真央くん、よろしくお願いします。














「怪しい」


カラカラカラカラ、脱水中の洗濯機から音が鳴る。

残り二分と示された画面を見つめながら、何がですか、と日向先輩に聞き返せば、じっとりとした視線を送られた。


「葵、お前さ……」


朝七時半。五号館二階奥の空き教室のベランダ。


「彼氏できた?」

「は?」


思わず素で返してしまった。先輩相手に失礼だったか、と言ったあとで思ったけれど、それよりも今はやけに神妙な顔をしている日向先輩の真意を確かめるほうが先だ。

だんだんゆっくり、静かになっていく洗濯機の音を聞きながら、私は日向先輩へと視線を向けた。


「なんか最近嬉しそうだし、明るくなったよな!」

「え」

「入部してきたときの根暗な感じがなくなってき……痛い痛い何すんだ紫苑先輩!」

「あのねえ、使う言葉を選びなさい」


ね、根暗……。いやまあ確かにそれは間違いではないのだけれど、何だかこう、グサッと鋭利なものが心に突き刺さったような気が……。






人知れずダメージを受けながら、ピーピーピー、と洗濯機が止まる音を聞く。

紫苑先輩に耳を引っ張られている日向先輩は、それでもなお、私を疑うような視線を緩めない。


「でも彼氏じゃないとしたら、……あ! ちょ待って、まじ俺分かったかも! 村瀬? 村瀬に口説かれてる?」

「はあ?」


何でそこで村瀬さんが出てくるんですか、と呆れながら洗濯機の蓋を開ける。

中身を取り出そうと手を伸ばせば、その手はパシッと掴まれた。


「え」


顔を上げると、さっきまでドアの前で石を並べていたはずの真央くんが困惑したような表情を浮かべながら、私のことを見ていた。

雲ひとつない青空の下、朝から恋バナをする四人の高校生。この字面だけ見るとちょっと楽しそうな感じがするけれど、私には彼氏なんていないし、村瀬さんに口説かれているという事実もない。あと、洗濯機を囲みながらしている時点で色気がないような気がする。

何となく残念なこの状況に何も言えないでいると、紫苑先輩が目を輝かせた。


「そうなの? 葵ちゃん、村瀬に口説かれてるの?」

「いやいや、違いますよ、無言を肯定と捉えるのやめてください……」