…………そんなの、言われなくたって分かってるよ。
プロになるのがどんなに大変か。
それは、普段からサッカーに触れ合っている俺のほうが、父さんや母さんよりもよっぽど理解している。
それでも、俺はサッカーで食べて行きたいんだ。
途方もない夢かも知れないけど………。
夢を見て何が悪い?
俺は百合の言葉を思い出した。
『夢が見れるのって、将来の夢があるのって、すごく幸せなことだよね』
『もしも日本が今みたいじゃなくて………例えば、戦争してる国だったら………。
子供たちは夢どころじゃない。
生き抜くのに必死で、将来の夢なんて考える暇さえないもん。
………だから、当たり前みたいに、夢があるとかないとか言えるのって、本当に幸せなことだと思う』
ーーーそうだ。
夢を見られるのは、俺たちの特権。
とても幸運で、恵まれたこと。
とても尊いことだ。
世界には、今も、夢さえ見られない子供たちがいる。
だからこそ、俺たちは夢を見て、その夢を叶えるために、諦めずに努力しつづける義務がある。
「………俺は、サッカーがしたい。
今は、一時間でも一分でも長く、サッカーの練習をしていたい。
だからーーー塾に行くのは………嫌だ」
俺はまっすぐに顔を上げて、父さんと母さんをゆっくりと交互に見つめた。
「父さん、母さん、お願いです。
俺にサッカーをする時間を下さい。
俺、簡単に夢を諦めたりしたくないんだ。
もっともっと練習して、もっともっと上手くなるから………。
お願いします」
俺はテーブルに両手をついて、頭を下げた。
親にこんなことをするのなんて、初めてだった。
リビングに沈黙が流れる。
かち、かち、と壁掛け時計の針が進む音だけが聞こえていた。
母さんは眉根を寄せて唇を噛み、じっと俺を見ている。
父さんがはぁ、と息を吐き出した。
「………なあ、涼。
父さんたちは、なにも、夢を見るなと言っているわけじゃない。
お前が頑張っているのは知っている……。
でもな、父さんはお前のことが、お前の将来が心配なんだよ。
サッカーにばかり夢中になっていたら、いざサッカーを失ったとき、お前がどうなってしまうか。
身一つで、この世の中で生きていけるわけがないだろう?
だから、逃げ道として、ちゃんと普通の社会人になる道を用意しておけ、と言っているんだ」
父さんは言い聞かせるようにそう言ったけど、俺は納得なんて出来なかった。
「なんだよ、逃げ道って………。
なんで、挑戦する前から、逃げ道なんて考えないといけないんだよ?
逃げることなんかを前提にして考えてたら………絶対、だめになる。
気持ちが弱くなる。
だから、逃げ道は塞いで、自分の全部を賭けて努力しないといけないんだろ?」
これは、俺の憧れのスポーツ選手が言っていた言葉だ。
最初から逃げることを考えていたら、努力する気持ちが鈍ってしまう。
人間は弱い生き物だから、追い詰められると、苦しさに耐えきれなくて、どうしても逃げることを考えたくなる時が来る。
だから、逃げ道は塞いでおかないといけない。
自分にはこの道しかないのだと、前だけを見つめて、脇見をせずに、全身全霊をかけて、それに挑まないといけない。
俺はその言葉にすごく胸を打たれたのだ。
それからはずっと、自分を甘やかさずに、逃げることなど考えずに、サッカーだけに全てを賭けてきたつもりだ。
俺は必死で自分の考えを、気持ちを伝えたつもりだった。
でも、父さんと母さんの顔色はちっとも変わらない。
「好きなことだけやっていれば、それは楽しいかも知れないけどな。
そんな甘いことばっかり言っていても、現実は厳しいんだ。
やりたいことだけやっていても、生きてはいけないんだよ。
お前だって、もう中学生なんだから、それくらい分かるだろう?」
「そうよ、涼。
お父さんもお母さんもね、あなたのことが憎いから言ってるわけじゃないの。
あなたのためを思って言ってるのよ?」
ーーー『あなたのためを思って』。
ずるい言葉だ。
そんなふうに言われると………子どもは、何も言い返せない。
「…………分かったよ。
行けばいいんだろ?
でも、サッカーは絶対にやめないから」
諦めてそう言うと、母さんが嬉しそうに笑った。
「じゃあ、明日、さっそく塾に申し込んでおくわね」
俺は何も言わずに自分の部屋に戻った。
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あの空の彼方
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君が切なげに見つめる空
君はあの空の彼方に
一体なにを見ているんだろう
君のきれいな瞳に映るのは
一体どんな景色なのだろう
*
「おはよ」
駅で待っていた俺を見た瞬間、百合は驚いたように目を丸くした。
「どうしたの、涼………。
ひどい顔してる」
「いや、うん………。
昨日の夜、ちょっと、寝れなくて」
ここで、さらりと「今日のことが楽しみでさ」なんて言えたら格好もつくのに、俺はもごもごとそう言うことしかできなかった。
「寝れなかったって、どうして?」
「うん、ちょっと、親とケンカっていうか、ケンカにもならなかったけど………」
「え?」
「いろいろ言われちゃって、なんかへこんだっていうか、いろいろ考えてたら寝れなくて」
百合はじっと俺を見上げている。
俺はなんとか笑みを浮かべて、
「………とりあえず、中、入ろうか」
と言った。
百合は「あ、うん、そうだね」と答えて、鞄から財布を取り出した。
朝早い時間なので、電車は空いていた。
これから三時間、電車に揺られていく。
俺たちは無言のまま肩を並べて座り、向かいの窓に映る景色を眺めていた。
「…………嫌だったら、べつに、いいんだけど」
ふいに百合が口を開いた。
「よかったら、何があったか話して?
ええと、それで楽になるなら、だけど………話したくないなら、何も言わなくていいんだけど」
不器用ながら気をつかってくれているのだと分かり、俺はくすぐったい気持ちになる。
「いや、うん………聞いてくれるなら、すごく嬉しい」
俺はそう言って、ゆうべあったことを順番に話していった。
百合は何も言わずに、ただ窓の外を走り去る景色を見つめながら聞いていた。
「…………そっか。
そんなことがあったんだ………」
百合は少し目を細めて、やっぱり窓の外を見ている。
さっきの大きな駅でほとんどの人が降りてしまって、車両はがらがらだ。
一番奥の席に、大学生くらいの男の人が乗っているだけで、その人はイヤホンをつけて音楽を聴きながら寝入ってしまったようだった。
静かな車内に、がたん、ごとん、と電車の音だけが響いている。
「 ………それで、涼はなんて答えたの?」
「え……?」
「塾に行くように言われて、涼はなんて返したの?」
「………色々反論したんだけどさ、父さんも母さんも全然わかってくれなくて。
だから、最後は、もういいやってなって、分かった行くよ、って」
百合がふっと視線を俺に向けた。
その顔には、なんとも言えない複雑な色が浮かんでいる。