先生、近づいても、いいですか。

部活動対抗リレーの決勝では、毎年「先生チーム」が参加するので、生徒たちは大騒ぎです。





体育科の先生や、若手の先生たちが、いつもと違う必死な表情で走るのを見て、先生も生徒も大笑いしながら応援していました。





藤森先生も、もちろん参加します。



学生時代バスケットボールをしていたという先生は、足がとても速いのです。






「きゃーっ、藤森先生かっこいーっ!!」





「めっちゃ早え!!」





「やばーい!!」






グラウンドの至るところから、悲鳴のような歓声が響いてきます。





私も声は出せないながら、心の中で一生懸命、声援を送りました。





藤森先生は結局、柔道部と野球部とバレー部を一気に抜いて一位に踊り出ました。



生徒も先生がたも大喝采でした。





また、私たちの担任の倉田先生も、「老体にムチ打って頑張る」とおっしゃっていた言葉通り、汗を流しながら走っていました。






閉会式が終わったあと、みんなは一斉に玄関へ向かっていきます。





生徒の波の中で仁王立ちしている藤森先生は、女子のグループに囲まれました。






「せーんせーっ、速かったー!!」





「おう、そりゃどーも」





「めっちゃカッコよかったー!!」





「はいはい」





「あっ、先生照れてるーっ」





「照れるか馬鹿」





「先生かーわいいー!!」





「うるせー馬鹿、早く教室帰れ」






先生が怒ったように言いましたが、誰も本気にはせず、にこにこ笑いながら先生の周りを離れようとしません。






「帰れだってー、先生ツンデレ-!!」





「誰がツンデレだ!」






先生はつんとした表情で、






「あなた達うざいですー。

俺の視界に入らないでくださいー」






と言って、女の子たちを追い払うように「しっしっ」と手を振ります。




女の子たちはきゃははと笑いながら、先生のもとを離れ、教室棟のほうへと駆けていきました。





生徒の波が収まったとたん、先生の顔が、糸が切れたようにふっと緩みました。




「先生の仮面」が剥がれて、素顔が覗く瞬間です。





思わず立ち止まり、じいっと見ていると。






「…………あ」






ふと視線を巡らせた先生と、目が合ってしまいました。




先生の目が、少し驚いたように見開かれます。





私は慌てて頭を下げ、ぱたぱたと玄関に向かいました。






『春川について2』







8組での授業を終え、俺は職員室へ戻ろうと廊下を歩いていた。




何かと声をかけてくる生徒たちを適当にあしらい、なんとか教室ゾーンを抜けたところで。






「――――あ」






「………こんにちは……」







また、こいつだ。




春川彩香。





なんだって最近、こんなによく会うんだろう?






いや………。



俺は今まで、こいつが近くにいても、きちんと認識していなかっただけなのかもしれない。





あの視線の持ち主だと気づいて、意識するようになったから、こいつの姿が視界に入ると「春川だ」と認識するようになったのだ。




俺は笑顔をつくり、「おう」と手を挙げて、職員室に向かって角を曲がった。




しかし、意外にも春川は、俺と同じように渡り廊下に入ってきた。







「………春川も、職員室行くのか?」





「はい」






相変わらず、声が小さい。




少し屈んで顔を近づけないと、聞き取りにくいほどだ。





どうやったら、こんなに大人しい子どもが育つんだろう?





こいつが声を上げて笑ったりとか、怒って声を荒げたりとか、友達と追いかけっこをしたりとか、そういう子どもらしい振る舞いをするところを、まったく想像できない。





こいつは家でも、こんなふうに静かな視線を周囲に向けているのだろうか?






不可抗力で、俺は春川と並んで歩くことになった。





ひどく細くて小柄な春川は、もちろん歩幅も狭く、俺は歩調を合わせるのが大変だった。






春川はやっぱり、一言も発することなく、少し俯き加減で歩いている。




何を考えているんだか、まったく分からない。






ちらりと視線を落とすと、つやつやの黒髪に包まれた小さな頭が目を引いた。






―――どこもかしこも小さくて、なんだか、小学生みたいだ。






それにしても、生徒と無言で二人きりでいるほど、居心地の悪いものはない。






明るくて元気な生徒なら、別に問題ない。





ちょっときつい言葉を投げたり、小言を言ったりと、ぞんざいに扱うことができる生徒なら。




適当にダメ出しをしていれば時間が過ぎるから、話題探しや気まずい思いをすることなんてないのだ。






でも、春川みたいな生徒―――大人しくて真面目で、叱ることもできないような生徒とは、非常に話しづらい。



俺は器用なたちではないから、生徒と気軽に世間話や雑談などできないのだ。




横柄な態度で軽くあしらう以外に、生徒と上手くコミュニケーションをとる方法が分からない。





世間話というのは、自分の「素」で話さないといけない感じがする。




教員ではない自分の素顔、考え方や価値観を、生徒に対して晒すことになる。






それは、俺にとってはひどく、ハードルの高いことだった。




生徒と普通に会話を楽しんでいるように見える先生も多いが、俺には真似できそうにない。






―――と、こうしている間も、俺と春川の間に流れる何とも言えない沈黙が、俺は気まずくて仕方がなかった。



春川はもともと無口だし、ここは教師として、俺が会話を先導すべきだと思うが………。





一体、どんな話を振ればいいんだ?






俺は必死に考えて、この間の体育祭の朝のことを思い出し、なんとか話題を絞り出すことに成功する。







「………春川って、本が好きなのか?」







俺が唐突に口を開いたことに驚いたのか、春川はぱっと顔を上げ、大きく目を見開いて俺を見上げた。







「………あ。はい……」






それきり、春川は黙り込む。




ただ、俺の真意を探ろうとしているように、黒目がちな瞳が俺を映しているだけ。






――――本当に、何を考えているんだか、全く予想もつかない。





俺は動揺を悟られないよう、こほんと咳払いをして質問を続ける。







「………えーと、どんな本、読むんだ?

あ、あー、良かったら、教えてくれないかな」







なんか、ただの世間話のつもりだったのに、ご大層なことを訊ねるようになってしまった。




どうも、こいつと喋るのは苦手というか、調子が狂うな………。







「今、読んでるのは、川上弘美さんの本です」






「へぇ、知らないな……」






「………そう、ですか」