先生、近づいても、いいですか。

ーーーそんな母さんが、




死んだという。







「………俺、何してんだろう。


本当はもう、親父のことなんて、とっくに自分の中で解決してたのに。


意地張って、ずるずる連絡もとらずにいて、………結局、」







ぐ、と喉の奥から呻きが洩れた。





必死で飲み込もうとしたけど、「う、」と声が出てしまう。





そして、じわりと視界が滲んだ。




慌てて目許を拭ったけど、一度あふれだしたものは、もう止められなかった。







「………っ!


俺、どうして、あんなこと………っ



意地ばっか張って、結局、親の死に目にも会えなかったなんて………


ほんと、最低だ………っ」






涙が滝のように流れはじめた。




頬がびしょ濡れになっているのが自分で分かる。





嗚咽も抑えられなかった。






一度、ぎゅっと目を閉じて、袖で涙を拭ったけど、ほとんど意味をなさなかった。





後悔と悲哀の涙が次から次に溢れて、零れ落ちていく。






「…………っ、くっ、うぅっ……」






噛み締めた唇の隙間から声が洩れる。





俺は両手で顔を覆った。





その指と指の隙間ーーー







「ーーーせんせい」






小さな囁きが、俺の耳に入り込んでくる。




その囁きと同時に、俺の目の前に、おずおずと差し出された掌。






細くて、華奢で、俺の手の中にすっぽり入ってしまいそうな小さな手。






「………はる、かわ」






無意識にもれた俺の声は、まるで迷子になった子どものように響いた。





顔を覆っていた手を外して、俺は隣に目を向けた。




澄んだ瞳が俺を映している。






「はるかわ………」






また、呟きが洩れた。






「………せんせい、」






かすかに囁くような春川の声が、夜風に乗って俺の耳に届いた。






「先生、先生………。


先生、私が………」






春川が何か言いかける。




俺はゆるゆると手を伸ばし、春川の小さな手に触れようとーーー






『藤森先生観察日記8』








ーーー抱きしめたい、






と、



唐突に、急激に、私は思いました。






先生を、抱きしめたい。





悲しみの涙に頬を濡らし、


肩を震わせ、


声を震わせている先生を、




抱きしめて、包み込んであげたい。






その思いは、私の中で、驚くほどの勢いをもって、抗いがたいほどに強く、膨らんでいきました。





気がつくと私は、先生との距離を詰め、先生のほうに手を伸ばしていました。






顔を覆い隠して嗚咽を洩らす先生の両側に、私は腕を広げました。






………でも。





先生は、先生。




私は、生徒。






先生のことを、生徒の私が抱きしめるなど、きっと許されないことです。






開いた掌をぎゅっと握りしめ、私は手を引っ込めました。






「………せんせい」






唇をかすかに開いて、小さな声で呼ぶと、先生はおもむろに顔を上げました。




泣き腫らして潤んだ目が、私を見つめています。






「はる、かわ………」






先生の掠れた声が切なくて、私も泣きそうになってしまいます。




先生はきっと、私などの想像を遥かに超えた苦悩を味わっているのでしょう。





疎遠になっていたお母様の突然の死を、半年も経ってから知って。




お母様の静かな優しさを思い出して。




自分のこれまでの行いを深く悔いて。






ぼろぼろに傷ついてしまった先生の心。






癒してあげたいーーー








「先生、そんなに、泣かないでください」







先生の嗚咽があまりに苦しそうなので、私はそんなふうに言ってしまいました。





先生が泣くのは当然のことでしょうが、それでも、あまりに悲しそうで、悔しそうで………。






どうやったら、先生の傷ついた心を癒してあげられるのでしょう。





考えたけど、分かりませんでした。





次々と溢れ出してくる先生の涙と、かたかたと震えている手を見つめていることしか、私にはできません。





顔を覆って項垂れ、静かに泣きつづける先生をおいて、私は近くの自動販売機に駆け寄りました。





ホットコーヒーとホットココアを買って、私は先生のところに戻りました。





先生は、先程よりは少し落ち着いたように見えます。






「………先生。


コーヒーとココア、どっちがいいですか」






小さく囁きかけると、先生は顔を上げました。




涙に濡れた先生の瞳が、街灯の明かりを受けてきらりと揺らめきました。






「………春川は、どっちがいい?」






先生は目を細めて言いました。




こんなときまで、先生は私の気持ちを訊いてくれる。




先生の優しさが心に染みました。






先生はどちらを飲みたいのでしょう。




先生はよくコーヒーを飲んでいますが、本当に寒いときや、なにか嫌なことがあったときは、ホットココアが飲みたくなる、と以前言っていたのを思い出しました。






「………私は、コーヒーにします」






小さく答えると、先生は驚いたように少し目を瞠り、「いいのか?」と確認するように訊ねてきました。






「はい。先生、ココアを飲んでください」






先生は少しの間私の顔をじっと見ていましたが、ありがとう、と呟いてココアの缶を開けました。






静かに、時が流れていきます。




しぃんとした夜の公園には、暗い街灯が一つあるきりで、付近にもひとの気配はありません。





ただ、遠くのほうが、幹線道路を走ってゆく車のエンジン音が聞こえていました。






「………春川」






ゆっくりと口を開いた先生の声は、まだ少し掠れていましたが、先ほどまでよりはずいぶん元気になっていました。






「………ごめんな、情けないところ見せちゃったな」






先生の言葉に、私はふるふると首を横に振りました。






「そんなことありませんーーー嬉しかったです」






素直に思ったままを口に出すと、先生が意表を突かれたように目を丸くしました。






「先生が、きっと誰にも見せない顔を、私にだけ見せてくれたから」






「そ……そうか………」





先生は指先で頬をぽり、と掻いて、ココアを一口飲みました。




向こうにある滑り台のあたりにぼんやり視線を当てている横顔は、やはりまだ気が抜けているように見えます。




先生は、後悔しているのでしょうか。






「………実家を出て来たこと。


後悔、していますか?」






小さく訊ねると、先生はゆっくりとこちらに顔を向けました。







「そうだな………少し、な。


田舎に埋もれたくない、なんて、下らない、誰にでもある思春期の思いだよ。


今思えば、別に実家をでることはなかった。


教師はどこにいたってなれるし………。


でも、意地を張ってそれをずるずる引きずって、母さんの死に目に会えなかったのは、………本当、俺って馬鹿だな」