ーーーそんな母さんが、
死んだという。
「………俺、何してんだろう。
本当はもう、親父のことなんて、とっくに自分の中で解決してたのに。
意地張って、ずるずる連絡もとらずにいて、………結局、」
ぐ、と喉の奥から呻きが洩れた。
必死で飲み込もうとしたけど、「う、」と声が出てしまう。
そして、じわりと視界が滲んだ。
慌てて目許を拭ったけど、一度あふれだしたものは、もう止められなかった。
「………っ!
俺、どうして、あんなこと………っ
意地ばっか張って、結局、親の死に目にも会えなかったなんて………
ほんと、最低だ………っ」
涙が滝のように流れはじめた。
頬がびしょ濡れになっているのが自分で分かる。
嗚咽も抑えられなかった。
一度、ぎゅっと目を閉じて、袖で涙を拭ったけど、ほとんど意味をなさなかった。
後悔と悲哀の涙が次から次に溢れて、零れ落ちていく。
「…………っ、くっ、うぅっ……」
噛み締めた唇の隙間から声が洩れる。
俺は両手で顔を覆った。
その指と指の隙間ーーー
「ーーーせんせい」
小さな囁きが、俺の耳に入り込んでくる。
その囁きと同時に、俺の目の前に、おずおずと差し出された掌。
細くて、華奢で、俺の手の中にすっぽり入ってしまいそうな小さな手。
「………はる、かわ」
無意識にもれた俺の声は、まるで迷子になった子どものように響いた。
顔を覆っていた手を外して、俺は隣に目を向けた。
澄んだ瞳が俺を映している。
「はるかわ………」
また、呟きが洩れた。
「………せんせい、」
かすかに囁くような春川の声が、夜風に乗って俺の耳に届いた。
「先生、先生………。
先生、私が………」
春川が何か言いかける。
俺はゆるゆると手を伸ばし、春川の小さな手に触れようとーーー
『藤森先生観察日記8』
◇
ーーー抱きしめたい、
と、
唐突に、急激に、私は思いました。
先生を、抱きしめたい。
悲しみの涙に頬を濡らし、
肩を震わせ、
声を震わせている先生を、
抱きしめて、包み込んであげたい。
その思いは、私の中で、驚くほどの勢いをもって、抗いがたいほどに強く、膨らんでいきました。
気がつくと私は、先生との距離を詰め、先生のほうに手を伸ばしていました。
顔を覆い隠して嗚咽を洩らす先生の両側に、私は腕を広げました。
………でも。
先生は、先生。
私は、生徒。
先生のことを、生徒の私が抱きしめるなど、きっと許されないことです。
開いた掌をぎゅっと握りしめ、私は手を引っ込めました。
「………せんせい」
唇をかすかに開いて、小さな声で呼ぶと、先生はおもむろに顔を上げました。
泣き腫らして潤んだ目が、私を見つめています。
「はる、かわ………」
先生の掠れた声が切なくて、私も泣きそうになってしまいます。
先生はきっと、私などの想像を遥かに超えた苦悩を味わっているのでしょう。
疎遠になっていたお母様の突然の死を、半年も経ってから知って。
お母様の静かな優しさを思い出して。
自分のこれまでの行いを深く悔いて。
ぼろぼろに傷ついてしまった先生の心。
癒してあげたいーーー
「先生、そんなに、泣かないでください」
先生の嗚咽があまりに苦しそうなので、私はそんなふうに言ってしまいました。
先生が泣くのは当然のことでしょうが、それでも、あまりに悲しそうで、悔しそうで………。
どうやったら、先生の傷ついた心を癒してあげられるのでしょう。
考えたけど、分かりませんでした。
次々と溢れ出してくる先生の涙と、かたかたと震えている手を見つめていることしか、私にはできません。
顔を覆って項垂れ、静かに泣きつづける先生をおいて、私は近くの自動販売機に駆け寄りました。
ホットコーヒーとホットココアを買って、私は先生のところに戻りました。
先生は、先程よりは少し落ち着いたように見えます。
「………先生。
コーヒーとココア、どっちがいいですか」
小さく囁きかけると、先生は顔を上げました。
涙に濡れた先生の瞳が、街灯の明かりを受けてきらりと揺らめきました。
「………春川は、どっちがいい?」
先生は目を細めて言いました。
こんなときまで、先生は私の気持ちを訊いてくれる。
先生の優しさが心に染みました。
先生はどちらを飲みたいのでしょう。
先生はよくコーヒーを飲んでいますが、本当に寒いときや、なにか嫌なことがあったときは、ホットココアが飲みたくなる、と以前言っていたのを思い出しました。
「………私は、コーヒーにします」
小さく答えると、先生は驚いたように少し目を瞠り、「いいのか?」と確認するように訊ねてきました。
「はい。先生、ココアを飲んでください」
先生は少しの間私の顔をじっと見ていましたが、ありがとう、と呟いてココアの缶を開けました。
静かに、時が流れていきます。
しぃんとした夜の公園には、暗い街灯が一つあるきりで、付近にもひとの気配はありません。
ただ、遠くのほうが、幹線道路を走ってゆく車のエンジン音が聞こえていました。
「………春川」
ゆっくりと口を開いた先生の声は、まだ少し掠れていましたが、先ほどまでよりはずいぶん元気になっていました。
「………ごめんな、情けないところ見せちゃったな」
先生の言葉に、私はふるふると首を横に振りました。
「そんなことありませんーーー嬉しかったです」
素直に思ったままを口に出すと、先生が意表を突かれたように目を丸くしました。
「先生が、きっと誰にも見せない顔を、私にだけ見せてくれたから」
「そ……そうか………」
先生は指先で頬をぽり、と掻いて、ココアを一口飲みました。
向こうにある滑り台のあたりにぼんやり視線を当てている横顔は、やはりまだ気が抜けているように見えます。
先生は、後悔しているのでしょうか。
「………実家を出て来たこと。
後悔、していますか?」
小さく訊ねると、先生はゆっくりとこちらに顔を向けました。
「そうだな………少し、な。
田舎に埋もれたくない、なんて、下らない、誰にでもある思春期の思いだよ。
今思えば、別に実家をでることはなかった。
教師はどこにいたってなれるし………。
でも、意地を張ってそれをずるずる引きずって、母さんの死に目に会えなかったのは、………本当、俺って馬鹿だな」