先生、近づいても、いいですか。








6時間目に、学年集会がありました。



体育館に行くと、生徒たちがざわざわと話ながら列を作っています。



私は自分のクラスの列に混じり、集会が始まるのを待ちました。




しばらくすると、生徒指導の先生がたが、各列の見回りを始めました。



私のクラスは、藤森先生が担当のようです。





「せーんせ!」





私の二人前に並んでいる中田さんが、すぐ横を通りすぎていこうとする藤森先生を呼び止めました。




先生は「なんだ」と言って振り向きます。




すると、中田さんは「呼んだだけー」と明るく笑いました。





「あほか。前向け、前!」





呆れたように言って、先生は中田さんの頭を両側からつかんで前を向かせました。





そんな二人のやりとりを、私はすこし切ないような気持ちで眺めていました。




中田さんは嬉しそうに笑っている声が聞こえます。



先生は中田さんが前に向き直ったのを確認すると、ふたたび歩き出しました。




先生が通り過ぎるのを、私は少し俯いて待っていました。





黒いスニーカーを履いた先生の足が、すぐ横に踏み出されました。




そのまま私の視界から消えてしまう、と思っていたのですが。






―――先生のスニーカーが、ふいに止まったのです。






なにかあったのかな、と思ったものの、私は目を上げることもできず、ただ俯いていました。





すると………






「すごくうまかったよ。ごちそうさま」






私にだけ聞こえる小さな声で、耳許に囁きかけられた言葉。




それを聞いた瞬間、どきんと心臓が跳ねました。





目を上げると、すぐ近くにあった先生の優しい瞳が、ふわりと私を包み込みました。




私の背の高さに合わせるように、先生は身体を前屈みにして、私に顔を寄せていました。






「……………」






私はどきどきしすぎて、どう答えていいか、頭が真っ白でした。




先生がくすりと笑って、「弁当箱、あとで返すな」と告げ、ゆっくりと立ち去っていきました。





シャツのすそが出ている男子に注意をする先生の声を背中で聞きながら、私はいつまでも激しい胸の動悸とたたかっていました。





『春川について5』







―――顔を知っている「誰か」の手作りの飯を食べたのは、何年ぶりだろう?




そんなことを思いながら食べた春川の弁当は、涙が出そうなほどおいしかった。





春川らしい、優しくて柔らかくて静かな、ほの甘い味つけ。




俺はいつもの倍くらいの時間をかけて、ゆっくりと味わうように食べた。






授業が入っていない4時間目の間に食べたので、職員室にはあまり教員がいなかった。




たまたま後ろを通りかかった高田先生が俺の弁当を見て、






「おっ、手作り弁当!? なんだなんだ、彼女かぁ?」






とにやにやしながら言ってきた。




俺は曖昧な笑みを浮かべて受け流す。





必死で否定するよりも、微妙な表情で流したほうが、へたに噂されたりしないだろうと思った。






その日以降、俺は毎日、春川の弁当を食べるようになった。




毎朝早起きして春川が作ってくれた弁当を受け取り、昼休憩に食べる。




ただ、校内で弁当の受け渡しをすると、さすがに誰かに見られてしまう危険がある。




いくらなんでもそれはまずい、と俺は思っていた。




色々なパターンを熟考したすえ、毎朝俺が春川の家の近くまで受け取りに行くのが一番安全だ、という結論にいたった。





俺は朝いつもより早く電車に乗り、春川の家の最寄り駅でいったん降りて、



待ち合わせ場所になったひと気のない神社まで行き、



春川が作った出来たての弁当をもらって、



そのまま駅に引き返す。





一緒に登校するわけにはもちろんいかないので、俺は春川を先に駅に行かせ、自分は一本あとの電車に乗った。






「先生、おはようございます」





春川がふわりと微笑んで俺を迎えた。





「ごめん、待たせたか」




「いえ、ぜんぜん……」






春川は小さく首を振り、いつものように弁当の包みを俺に差し出した。




まだ温かい弁当。



かすかに甘辛い香りが洩れていた。




今日もうまそうだ。






「―――あぁ、いま食べちゃいたいなぁ」






俺はほとんど無意識のうちに、そんなことを呟いていた。




春川が「えっ」と小さく叫んで目を上げた。






「もしかして、朝ご飯、食べてないんですか」





「いや、まぁ、いつもコーヒーだけだから……」






頬を触りながら答えると、春川が目を丸くした。






「だめですよ、先生……。


ちゃんと、朝ごはん、食べないと。


元気が出ませんよ」






控えめながらもはっきりとした口調で、じっと俺を見つめながら諭す春川。




生徒から生活指導をされるなんて、我ながら情けないことこの上ない。




俺は殊勝に「そうだよなぁ」と頷いた。






「でもなぁ、朝って、どうにも食う気が起こらなくてな。


時間に余裕もないし、買いに出るのも面倒だし、まぁ前の晩に買っとけばいいんだけど、それもなぁ………」






俺がもごもごと言い訳をしている間、春川は静かな瞳でじっと俺を見上げていた。





そして、唇をそっと開いて、






「………じゃあ、………


朝ごはん………うちで、食べて行きますか………?」






「………えっ!?」





俺はぎょっとして春川を見下ろした。




春川は小さな顔をほんのりと赤く染めて、「すみません」と小さく囁いた。






「あ、ちがうちがう、謝ることはないんだけど、ただちょっと、びっくりして………」





「………そう、ですよね。急に、へんなこと言って、すみません……」





「いや、だから………」






俺は参って顔に手を当てた。






春川はきっと、俺が朝飯をとらない生活をしているのを心配してくれたんだ。




あたたかい手作りの飯なら食べられそうな気がして、俺が何気なく言った言葉から、俺の気持ちを読み取って、




それで、昼の弁当だけでなく、朝飯の面倒まで見てあげようと思ってくれたのだ。






なんて………




なんて、あったかいんだろう。






やさしくて、やわらかくて、あったかい。





春川は、俺が長年触れられずにいたものを、いとも簡単に与えてくれる。






そんなことを考えて押し黙っていたら、春川が不安そうに目を上げて、消えそうな声を上げた。






「………あの、ご迷惑なら、断ってくれていいんです」






「えっ!? いやいや、迷惑なわけ………というか、むしろ、泣きそうなくらい嬉しいぞ!」






春川の弱々しい声を聞いて焦った俺は、ほとんど無意識のうちに、そんなことを言っていた。






春川がふっと微かに笑って、






「………泣きそう?」






と首を傾げた。