さみしがりやのホリデイ


ふと、オデコがなにかあたたかいものにぶつかる。おじさんの胸だ。頭を抱き寄せられていた。


不思議。驚きよりもなんだか安堵のほうが勝っているよ。

かすかな煙草のにおい。ちょうどいい温度。伝わる鼓動の音。

どれもこの世のものとは思えないほどに心地よくて、乱れた呼吸が戻ってくる。

思わず広い背中に腕をまわした。よれよれのシャツをぎゅっと掴む。ああ、うそ、腕どころか、体はもう震えていない。


すごいな、なんでだろ、すごいよ、この男はいったいどんなトリックを使ったの?


「おまえは、美しい生き物だな」


おじさんは左手であたしの頭を抱いたまま、ひとり言みたいにこぼした。なにを言われているのかぜんぜんわからなかった。


「自分にひとつも嘘がなくて、いいな。すげえきれいだな。大人になるとみんな、嘘にまみれて汚れちまうからなあ」


褒められているんだろうか。それとも、おまえはガキだって遠回しに言われているんだろうか。

やっぱりよくわからなくて黙っていた。聞く必要もない気がした。


誰かにくっついたまま繰り返す呼吸は特別なんだって、はじめて知ったよ。いままで幾度となくしてきたそれよりもいちばん、生きているって実感できる。


「やっぱり泣き虫だ、おまえ」


おじさんが笑った。ぴったりくっついているお腹が少し揺れたからわかった。


「ナキムシ、チガウ」

「いいんだよ、泣き虫で」


大きな手のひらが背中をさすってくれている。上へ、下へと規則的に移動しては、時折優しくぽんぽんされる。

とてもゆっくりとした動作だった。

なんだかひどく安心して、目を閉じると、涙がひとすじ左の瞳からこぼれ落ちた。


「ガキなんだから、泣きたいときは泣けばいいんだ」


そうかな。あたしが泣いたら、おじさんは困らないかな。気を遣わせないかな。

それとも、またこうやって安心させてくれるんだろうか。


「でも、がんばったな。よく耐えた」


優しく低い声が耳元で大気を揺らす。ウンと、涙声で答えると、おじさんはまた少し笑った。

先に手を外したのはおじさんだった。反射的に握っていたシャツを手放すと、あたしたちのあいだにはあっという間に距離が生まれて、また目が合った。

おじさんの手がくしゃりとあたしの頭を撫でる。子どもをあやすみたいな手つきだ。最近はよく頭を撫でられている気がする。


「ねえ、『おじさん』って呼ぶの、やめようかな」


ぽんと、思いつきで口にした。


「おじさん、親戚じゃないし。他人だし。だから、やめようかな。名前で呼ぼうかな」

「急にどうしたんだよ」


わからない。でも、おじさんが三宅に『親戚でいい』って言ったのが、すごく嫌だったんだ。無性に許せなかった。

だって親戚じゃないもん。血つながってないもん。

この男は、違う。もっと別の場所にいる存在だ。わからないけど、わからないなりに、それだけはわかる。


「『和志』って呼ぶ」

「呼び捨てかよ」

「だって『祈』って呼ぶでしょ」

「ゆりさんがそう呼ぶからな」

「あ、それだとコッチは『佐山くん』だね」

「本気で言ってんのか?」


ウソに決まってるじゃん。やだよ。苗字にクン付けなんて、いちばん他人行儀で遠い感じするよ。


「和志さん」


ためしに口に出してみた。胸がむずむずした。ざわざわもした。

名前の主の男は、ちょっと面倒くさそうに「なんだよ」と言って、あっという間に目を逸らしてしまった。







  ◇◆ THURSDAY






日本列島が梅雨入りしたのは、あたしがおじさんを名前で呼ぶようになって1週間がたつころのことだった。今年は去年よりも5日ほど遅かったって朝のニュースで言っていた。

そのせいでこのところ毎日じめじめしているよ。梅雨は大嫌いだ、この時期はほんとにいろいろとやる気がなくなるんだ。

だから今夜は簡単に冷製パスタにしようかと考えていたのに、なぜか、あたしはキッチンに立つことすら許されなかった。


「――しゃぶしゃぶするから」


我が物顔でキッチンに立っているおじさんが言った。


「しゃぶしゃぶ? きょう?」

「そう。食材ももう買ってあるから」


そういえばきのう、夕方ごろに帰ってきてシャワーを浴びたかと思えば、おじさんはすぐにもう一度どこかへ出かけていたっけ。

あれは今夜のための買い出しに行っていたのかな。あたしはあたしで夕食の準備を忙しくしていたからぜんぜん気にも留めてなかったけど。煙草を買いに行ったものだとばかり思っていた。


どうやらしゃぶしゃぶをするってのはもう決定事項らしい。

いつか『今度しよう』と話していた『今度』が、まさかこんなに突然やってくるなんて思わなかったよ。


冷蔵庫から大きなパックを取りだすおじさんをぼけっと眺めた。ごつごつしている手が、あんまりにも大きなパックをふたつも持っているので、いったい何事かと思う。


「……そんなに、食べるの?」


思わず言うと、おじさんは動きを止めて、訝しげにあたしの顔をまじまじと見つめた。


「おまえって、自分の誕生日も覚えてねえの?」

「え?」


誕生日って?


「うそ、きょうってもしかして6月16日……?」


あわてて卓上カレンダーに目を移す。きょうって木曜だっけね? ダメだ。日にちと曜日の感覚がもうほとんどないよ。ついでに言うと時間の感覚も鈍くなってきてる。

まさか知らないうちにころっと歳を重ねていたなんて、それが華のセブンティーンになった日だなんて、こんなに切ないことはない。

それにしたってなにより悲しいのは、誰からもお祝いのメッセージが届いていないことだ。

友達はもともとそんなに多くないからまあいいとして、サユからも、おかーさんからも音沙汰なしなのは、けっこうこたえるよ。まさか忘れられてんのかな。まあ、あたし自身もすっかり忘れていたわけだけどさ。


「食いに来るからな」


あたしがあまりにもさみしいため息をついたのを見てか、おじさんはあきれたように言った。


「そんな落ち込まなくても、友達――サユミとかいったっけ? あの子も、ゆりさんも、もうちょっとしたら来るよ。そもそもあのふたりが言ってきたんだ、祈の誕生日を盛大に祝いたいから協力しろって」

「そう、なの?」

「じゃなきゃ俺がおまえの誕生日を知るはずねえだろ」


たしかに、それはそうだけど。

でも、なんとなく、この男ならあたしの誕生日くらい知っていてもおかしくないような気がしたんだ。

だって時々そういう感じする。見透かされている感じ。正体をすっかり暴かれているような、ヘンな感じ。


「ていうか、べつに落ち込んでないし」

「ふうん。なら、いいけど」


この男はいろいろとあたしのことを知ってるんじゃないかって、なんかたまに思っちゃうよ。あたし自身にすらわからないことも、そりゃもうたくさん、こわいくらい。

でもそれを嫌だと思えない。ぜんぜん思えない。

たぶん、ほんとは知ってほしいし、知りたい。

もっといろんなこと、お互いのこと、いままでより急速に、急激に――そんなことまで思ってしまっている。


なんでだろ。このひとは自分のことあんまり語ろうとしてくれないから、よけいにかな?


「ねえ。和志さんはいつ33歳になるの?」


思いきって訊ねてみると、おじさんはカウンターの内側から目だけをちょっとこっちに向けて、すぐに視線を手元に落とした。


「10月10日だけど、おまえ、いまのは悪意しかねえな」

「そんなことないよ」


ただ、いまさら誕生日なんかを聞くのはちょっと気恥ずかしくて、おかしな言い方になっちゃっただけだ。


「あたしも和志さんの誕生日お祝いする。だからそのときはまた、いっしょにしゃぶしゃぶしようね」


おじさんの33回目の誕生日を迎えるころ、この男のもっと奥深くまでを、あたしは知れているんだろうか。
よくわからない表情の、言葉の裏側を、覗けているんだろうか。

たとえばこの不精ひげが生えてくるずっと前の少年時代のことなんかも知れちゃったりしてるのかな?

そもそもこの男に少年時代なんてものがあったのかもあやしい。まずはそこから聞いてみないとな。

キッチンに立つおじさんはものめずらしいのでもっと眺めていたかったのだけど、カウンターからはすぐに追いやられてしまった。気が散るからどっか行ってろって。

仕方ないからソファのほうでしばらくよもぎと遊んでいた。そしたらいつの間にか、テーブルの上にたくさんの料理が並んでいたのだった。

サーモンのカルパッチョに、生春巻き、オニオンリング。全部しゃぶしゃぶの付け合わせらしい。

いい具合に野菜がとれるメニューだ。それに、なんか絶妙にお洒落だし、見栄えも盛りつけも文句なしにきれいで、おいしそうで、驚いたとかそういう次元じゃないよ。感動すら覚える。

なにが『おまえはきれいなメシをつくるよな』だよ。なにもかもが完敗じゃん。


「なんだよ、料理できるんじゃんか」


小さな声ではあったけど、精いっぱいの文句を言ってやったのに、おじさんはなんでもない顔で食器を並べ続けている。


「そりゃあ32年も独り身やってんだし、料理くらいできて当然だろ」


できすぎなんだよ。なんか裏切られたような感じだよ。だって、てっきり料理はめっぽうダメな男かと思ってた。


「結婚、しないの? したことないの? いままでに一度も?」


でも、料理のことなんかよりもずっと、おじさんの口からヒトリミという言葉が飛び出たことのほうが残った。なんだかとても気になる単語だ。ヒトリミ――独身ってことだよね?


「しねえし、したこともねえよ」


おじさんは少し面倒くさそうに答える。


「どうして? いままでに恋人くらいいたでしょう? 結婚したいって思った相手とかいないの?」

「なんだよ、おまえ。いきなりよくしゃべる」

「あ、はぐらかしたね、いま」


32歳の男がする恋愛って、どんなだろう。少女漫画みたいなそれとはきっと違うね。

おじさんはどんな女性を好きになってきたんだろう。
どんなふうに人を愛するんだろう。
いままでにいくつの恋を経験してきたんだろう。

いろんな疑問が浮かぶ。全部を聞いてみたいと思うのに、答えは絶対に知りたくないような気もして、気持ち悪い。

ふいにインターホンが鳴った。ピンポンという間の抜けた音がふたりのあいだに落ちたと同時に、寝そべっていたよもぎがすくっと立ち上がる。


「ああ、来たな。おまえ出ろよ」


なんとなくそう言われるような気がしたし、やだって思ったよ。だって直感でわかるもん。ドアの向こうには、サユといっしょに、おかーさんもいるって。


「そっちが出てよ。家主なんだから」


べつにおかーさんの顔が見たくないとかそういうんじゃない。ただ、どんな顔をすればいいのかがわからない。

あんな電話が最後だったからね。おじさんがあたしを迎えに来た日、受話器越しにガキくさい文句をぶっ放したのが。自分でも嫌になるほどガキくさかったとは思うけど、だからといって反省はできない。まだぜんぜん、もやもやしてるし……。

顔を見たとたんにむすっとしてしまう自信があるよ。おかーさんはそれでもたぶん能天気で、サユが困るんだろう。

そこまで予想できていながらドアを開けるなんて、あたしにはとうていできっこない。


「しょうがねえな」


ちょっと考えたあとで、おじさんがつぶやいた。


「ほんとに手のかかる親子だな。あきれる」


文字どおりあきれた顔でそう言うと、おじさんはのっそりとリビングを出ていった。よもぎもそれについていった。

広いリビングにひとりぼっちでいるのはなんとなく居心地が悪くて、やっぱりあたしが出たらよかったってすぐに後悔したよ。ほんの少しだけ。

玄関から話し声が聞こえる。おかーさんの声だ。サユの声だ。おじさんの声は、低いからか、あんまり聞こえないな。

あんまりにも落ち着かなくて、ソファの端っこで体操すわりでもしていようかと思った。でもその前にリビングのドアが再び開いていた。


「――いーちゃん、お誕生日オメデトウ!」


心の準備をする間もなくまず飛びこんできたのは、満面の笑みのサユと、その高い声。サユも三宅と同じに心なしか日焼けしているように見えた。

それから無言のおじさんとよもぎが入ってきて、最後に現れたのが、1か月ぶりに見るおかーさんで。


「久しぶりだね、祈。17歳おめでとう」


べつになつかしいみたいな気持ちはこみ上がってこなかった。いままでだって、ほとんど顔を合わさないまま1か月くらい生活していたことなんか、ザラにあったし。

それでもお腹のあたりがむずがゆいのはたしかだ。

やっぱりどんな顔をすればいいのか見当もつかないよ。笑顔は違うと思う。でも、オメデトウって言われているのに怒ったような顔をするのは、たぶんもっと違う。


「……アリガトウ」


そもそも、誕生日にしろなんにしろ、祝われるのって得意じゃないんだ。だから居心地の悪さはもう頂点まで達していて、そしたら顔を上げることすら困難になって、床を見つめながらの返事になってしまった。感じ悪い。


「ケーキ買ってきたよ、祈の好きなチョコのやつ。佐山くんが用意してないなんてほざくからあわててサユと選んできたの」


少し大きめの紙袋を顔の横で揺らしながら、おかーさんがうれしそうに言った。

なんか、やっぱりおかーさんはおかーさんだなって思う。なんにも変わらない能天気な顔を見て安心したし、もやもやもした。うまく言えない。


「さすがにそこまで気ィ回らねえっすよ」

「ええ? 誕生日にケーキは必須項目だよ?」

「いやぁ、そういうのにはあんまり縁がなかったんで……」


びっくりした。おじさんが敬語を使っている。おじさんはおかーさんの部下だったと言っていたし、そういう上下関係なのは知っていたけど、いざ目の当たりにするとなんかヘンテコだ。

さみしがりやのホリデイ

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