お父さんが亡くなった日、お母さんは泣いていた。

 真夜中にどこかから電話が鳴り、その後すぐにお母さんに身支度を急かされ一緒にタクシーで病院に向かった。状況がわからないまま母と待合室の椅子に座って何時間も待たされた。

 飛び出してきた自転車を避けようとして電柱にぶつかったことと、お父さんが死んでしまったことを理解したときのことは、今でも記憶が曖昧だ。

 ただ、隣にいたお母さんが泣いていた。あんなに泣いているお母さんを見るのは初めてで、その姿に涙があふれたのを覚えている。

 泣き叫び、声を荒げて、人を罵倒し、取り乱した姿。

 お父さんが亡くなったことよりも、痛々しいお母さんを見ているのが辛かった。

 今までの日々は壊れてしまったと思った。今までのことも目の前のことも信じられなくて、怒りと悲しさと悔しさと、不安。それら全てに押しつぶされそうになりながらただ立ちすくんでいた。


 あの日を境に、間違いなくわたしとお母さんの日々は、変化した。

 数カ月後に、お母さんは社会復帰を果たした。

 出産前まで働いていたという広告代理店に再就職して営業兼ディレクターとして、今は毎日忙しそうにしている。帰宅はいつも夜の十時を回ってからだ。土日も出勤することが多い。以前、お母さんと同じ会社で働いているという女の人が家にやってきたとき、男の人と肩を並べて働いている姿は憧れだ、と言っていた。

 一緒に過ごす時間が減り、家の中にひとりきりになることが増えた。それを寂しくないといえば嘘になる。けれど、それがわたしのためであることはわかっている。今のわたしが不自由なく過ごせるのは、お母さんがこうして夜遅くまで頑張っているからだ。

 だから、わたしはわたしにできることでお母さんを助けようと思った。元々は寝坊ばかりで、お母さんの手伝いなんてなにもしなかったわたしが、家のことをしたり、料理を覚えたり。

 お父さんがいた日々と比べたら、劇的な変化だ。

「ずっと、美輝のそばにいるからな」

 そう言ってわたしを軽々と持ち上げて笑ったお父さんはいなくなった。

「ずっと、美輝のそばにいるよ」

 そう言ってわたしの手を握ってくれた泣き虫の雅人がいた。

 わたしが、今こうして前を向いて笑っていられるのは、雅人がいてくれたからだ。変わってしまったけれど変わらない日々を送れるのは、あの言葉を信じることが出来たから。