「物事には優先順位がある」が口癖の婚約者に後回しにされ続けたので、私も優先順位を変えました

 王城の図書館は、公の場ではない。

 正確には、王族と、ごく限られた者だけが足を踏み入れることを許された、半ば私的な空間。
 天井まで届く書棚が幾列も並び、日当たりのよい窓辺には、色とりどりのやわらかなクッションを並べたソファが置かれている。古い紙と革表紙の匂いはするのに、不思議と埃っぽくはない。
 静かで、外とは時間の流れ方が違う場所だった。

「今日は、ここを使っていい」

 アルがそう言ったとき、クレアは少し驚いた。

「……よろしいのですか」
「もちろん」

 それだけ言うと、アルベリックはいつものように本棚の間に消えていった。
 クレアもまた、ゆっくりと書棚を眺めながら、指先で背表紙をなぞる。
 革装丁の本は指にひんやりとして、金の箔押しが窓からの光を受けて淡く光っていた。

 彼がかなり無理をして公務を調整してくれたことを、クレアは知っている。
 だから、この時間がお互いにとってどれほど貴重なものか、どんな意味を持っているのか、ちゃんと理解していた。

 用意された昼食は、どれもクレアが好きだと話していたものばかり。
 香草を添えた白身魚の冷製、蜂蜜を薄く塗った小さな焼き菓子、酸味のやわらかな木苺のジャム。

 アルベリックは、何気ない会話も覚えていてくれている。
 そのことに、クレアは何度も驚かされた。

 昼をすぎた頃、急使が来た。
 図書館の扉の外で、従者が低く声をかける。外交の件で、至急、とのことだった。
 アルベリックの表情が、一瞬だけ固くなる。

「……クレアが先約だ」
「アル様。行ってください」

 本を閉じ、静かにアルベリックの目をまっすぐ見た。

「ですが、今日はあなたと……」
「お約束は夕刻までです」

 膝の上の本にそっと手を重ねる。

「私は、それまでここにいます。ですから、戻ってきてください」

 アルベリックは何かを言おうとして、それから、こくりとうなずいた。

「必ず戻ります」

 そう告げると、彼は足早に扉の向こうへ消えていった。

 図書館に一人残されると、椅子に戻り閉じた本を膝に置いたまま、しばらく動けなかった。
 街の音は届かない。聞こえるのは、窓の外でたまに揺れる木の葉と、壁に掛かった時計の、規則正しい音だけ。

 本を開き、活字を目で追った。
 けれど、内容が頭に入ってこない。

 また、戻らないのではないか。
 そう思った瞬間、視界の端が少し暗くなった。
 王城の図書館にいるはずなのに、胸の奥だけが、もっと古い記憶の中へ引き戻される。

 ジョルジュとの待ち合わせで、クレアはいつも先に着いて待っていた。三十分が過ぎ、一時間が過ぎ、やがて使いが来る。

『急用ができた。すまない』

 その言葉だけが届けられ、理由はない。
 きっと、クレアではなく、他の誰かを優先したのだろう。
 理由を尋ねても、最後には同じ言葉が返ってきた。

『物事には優先順位がある』

 一日を、ここで過ごす約束だった。
 また、相手に合わせすぎて、優先順位を下げられ、待たされるだけの自分に戻ってしまうのではないか。

 アルベリックは、違う。そう信じたかった。信じようとしていた。
 でも、頭の中で刻まれ続ける時計の音が、どこか焦りに似た感覚をかき立てる。窓の外の光が、少しずつ傾いていく。ソファに座る自分の影が長く伸び、書棚の奥に夕暮れの色が染みていく。

 夕刻を告げる鐘が、鳴りはじめた。

 一つ、二つ、三つ。

 その音を掻き消すように、扉が勢いよく開いた。
 アルベリックは、息を切らしていた。
 いつもの整った立ち振る舞いはどこへやら、外套の裾は乱れ、髪が一筋、額に張り付いている。

「……間に合いましたか」
「……はい。まだ、鐘は鳴っています」

 しばらく、二人とも黙っていた。
 アルベリックがゆっくりと部屋の中に入り、クレアの近くの椅子に腰を下ろす。呼吸はまだ少し乱れていて、手袋を外す指先にも、かすかな熱が残っているように見えた。

「本当は、あなたを待たせたくなかった」

 鐘が止むのを待って、ようやく声に出した。

「私は、夕刻までは待つと決めて待っていました」
「……もう、あなたを帰したくない」

 アルベリックが少し目を伏せた。

「帰さない関係になりたい。誰かに呼ばれたからといって、あなたとの時間が簡単に途切れる関係ではなく」
「アル様……」
「私は、あなたを王太子妃として迎える許しを、父に願い出ます。あなたが私の優先順位の一番だと、証明させてください」

 クレアは答えられずにいると、ゆっくりと彼の手が重ねられる。
 手を引こうと思えば引ける……けれど、引かなかった。

 王太子妃。
 その言葉は、ただ甘いだけの約束ではない。けれど、アルベリックの目は逃げていなかった。

 ジョルジュは、戻ってこなかった。
 アルベリックは、戻ってきてくれて、なお証明しようとしてくれてる。

 髪を乱して、息を切らして、鐘が鳴り終わるぎりぎりのところで。
 クレアの喉の奥が、少しだけ熱くなる。

「……では、証明してくださいませ。私が、あなたの優先順位の一番なのだと」

 アルベリックは一瞬だけ目を見開いた。
 それから、重ねていたクレアの手を取ると、指先に温かな息が触れる。

「必ず」

 そう囁いて、彼はクレアの手の甲に唇を落とした。
 外の光はすっかり傾き、図書館には夕暮れ色が満ちていた。時計は静かに時を刻み続けている。
 けれど、もうその音は、クレアの耳に焦りを運んでこなかった。