「物事には優先順位がある」が口癖の婚約者に後回しにされ続けたので、私も優先順位を変えました

 その言葉に、閲覧室の空気が止まった。

 クレアは目を伏せた。
 悲しみは、不思議なほど薄い。
 むしろ胸の奥で、長く絡まっていた糸が、ぷつりと切れたような気がした。

 その瞬間だった。

「待て」

 アルが初めて、声に位を乗せた、そのたった一言で、空気が変わる。
 今まで読書会で穏やかに語っていた青年の声ではない。
 人に命じることに慣れた者の声。

 場にいる全員の背筋が、自然と伸びる。
 ジョルジュも、そこでようやく異変に気づいたらしい。
 アルはゆっくりとジョルジュを見た。

「今、お前と言ったな」
「そ、それは……」
「僕の婚約者、とも言った。婚約者を公の場で怒鳴りつけ、さらに私を身分もわからぬ男と呼んだ」

 ジョルジュの顔から、見る間に血の気が引いていく。

「まさか……」
「気づくのが遅い。私はアルベリック・レオン・フォルタン。この国の王太子だ」

 淡々とした言葉に、誰かが小さく息を呑んだ。
 ジョルジュはその場で膝を折りかけ、慌てて姿勢を正した。唇が震えている。

「お、王太子……殿下……。知らなかったのです。どうか、お許しを」
「知らなければ、不敬が許されると思っているのか」
「いえ、その、決して、そのような」
「それに、身分がわからなければ侮辱してよいという考えも、なかなか興味深い」

 言葉を失ったジョルジュに向かって、視線を外さずまっすぐに見据える。

「本来なら、私への不敬は見過ごせるものではない。だが、ちょうどお前自身が婚約破棄という言葉を口にしてくれたな」

 その言葉に、ジョルジュの喉が鳴った。

「選ばせてやろう。不敬を不問にする代わりにモンテール嬢との婚約を解消するか、このまま正式に罪を問われるか」

 閲覧室には、紙の擦れる音ひとつしない。

 青ざめた顔で、クレアを見た。
 助けを求めるような目。
 けれど、彼女は何も言わない。
 これまで彼が優先してきたものの中に、クレアはいなかった。
 ならば今、クレアが彼を優先する理由もない。

「こ……婚約破棄を……いえ、婚約の解消を……選びます……」

 ジョルジュは、震える声でそう答えた。

「後の手続きは、正式な使者を通して行う。ヴェルチ家にも、今日の件は伝える」

 アルベリックは短く告げると、ジョルジュは深く頭を下げ、ふらつく足取りで閲覧室を出ていった。
 その背中を追う者はいない。

 しばらくして、読書会の参加者たちも気を遣うようにひとり、またひとりと退室していった。
 静かになった閲覧室に、古い紙の匂いだけが戻ってくる。
 クレアは、ようやく息を吐いた。

「……申し訳ございません、殿下。私のことで、読書会を騒がせてしまいました」
「謝るのはあなたではない」

 アルベリックの声は、いつもの柔らかいものに戻っていた。

「それに、ここではアルで構いません。少なくとも、今は」
「ですが」
「あなたに殿下と呼ばれると、距離ができたようで落ち着かない」

 クレアは思わず瞬くと、アルベリックは少しだけ気まずそうに視線を逸らす。

「……今のは、王太子としてではなく、私個人の希望です」

 クレアの胸の奥に、温かなものが広がった。

「では、アル様」
「様もいらないのですが」
「それは、さすがに急には難しいです」
「では、今後の課題にしましょう」

 アルベリックは、そう言って小さく笑った。
 窓から差し込む午後の光が、机の上に置かれた本の背を照らしている。埃の粒が金色に光り、ゆっくりと落ちていく。
 騒ぎの後だというのに、不思議と怖さはなかった。
 むしろ、長い間閉じ込められていた部屋の窓が開いたような、そんな息のしやすさがあった。

「さっきの、優先順位の話ですが」
「はい?」
「私の優先順位は、どれくらいでしょう」

 アルベリックの言葉に、クレアは少し考えた。

 ジョルジュとの約束を待ち続けた日々。
 着る機会のなかったドレス。
 冷たい温室。
 苦くなった紅茶。

 そして、彼とこの図書館で交わした言葉。
 比喩の多すぎる小説を笑い合ったこと。
 結末から逃げる作家に腹を立てたこと。
 自分の意見を、最後まで聞いてもらえたこと。

 静かに微笑んで答える。

「少なくとも、元婚約者より、ずっと高いです」

 アルベリックは一瞬だけ目を見開いた。
 それから、これまで見せたことのないほど嬉しそうな顔で笑った。

「それは光栄です。これからもっと、順位を上げてもらえるよう努めます」
「王太子殿下が、そのようなことをおっしゃってよろしいのですか」
「今の私は、読書会であなたと本の悪口を言う男ですから」
「悪口ではありません。批評です」
「では、批評仲間として、次はこの本について話しませんか」

 彼は本を一冊、クレアの前に差し出した。
 表紙を見ると、まだ読んだことのない作家だった。

「結末は逃げませんか?」
「逃げません。ただ、途中で主人公が少し迷います」
「それは必要な迷いですか?」
「あなたなら、そう言うと思いました」

 本を受け取ると、革表紙は手のひらにひんやりとして、けれど不思議と重くはなかった。

「では、読んできます」
「楽しみにしています」

 窓から差し込む光の中、本に囲まれたその場所で、クレアは初めて、自分の時間が自分のものに戻ってきたのだと感じた。
 そしてその時間の先に、もうひとり、同じ本を開いて待つ人がいる。
 二人の物語は、そこから静かに始まった。