<3話:葵斗、恋に落ちる>
誕生日プレゼントと称して渡したポラロイドカメラを、どうやら千理は気に入ってくれたらしい。
僕が景色を撮りに行く度手持ち無沙汰にしていた千理は、僕と同じようにカメラを構えるようになった。
シャッターを切ることに夢中になると、僕は外界の変化に疎くなる。
その所為で、僕はしばしば千理の被写体にされていた。
「千理、人の写真を勝手に撮るな」
「葵斗、それ特大ブーメランだぞ」
どれだけ俺を隠し撮りして来たと思っているんだよアンタは。
口端を上げる千理に、僕は決まり悪く視線を斜め下に落とすしか出来ない。
それにしても、と。千理は僕が現像したばかりの写真を数枚両手で扇状に広げる。
「葵斗、長年カメラ触ってるみたいだけど、下手くそじゃないか?」
いつだってぼやけた風景しか現像されてこない写真のことを指摘され、何と返そうかと迷う。
「僕の世界だから、だよ」
「葵斗の世界?」
「……僕の世界では、千理しか鮮明に写らない」
僕の台詞に千理は深く息を吸い、大きく天井を仰いでからジト目で僕を見てきた。
「それ、俺以外が聞いたらドン引きすると思うから他の奴に云わない方が良いぞ」
「云わないよ……」
だってさっきの台詞はただの事実で、他の誰かに云う機会なんてきっとないだろうから。
紅葉がすぎればもう街はすっかりイルミネーションで彩られる。
夜間意味もなく外出することは禁じられているから、そのイルミネーションをフィルムに収めるタイミングは学校からの帰り道しかない。それも、帰宅が遅くなり過ぎない時間帯で、だ。
所謂恋人が出来た、ということを僕は家族に伝えていない。
最近休日の外出が増えたのでは? と伯父に指摘された時には「後輩が写真を教わりたいって云うから」と返しておいた。実際、嘘ではないし。
千理と休日に会う約束を取り付けるのは僕からが殆どだった。まぁ、そのキッカケはいつも千理が作るのだけど。
自分が千理のことを恋だの愛だのという感情で見ているのかは未だにハッキリとしない。
でも一緒に居るのは嫌いじゃなかったし、寧ろ落ち着くと感じることもある。それに、勝手に暗室に入られるのも千理相手なら許せた。
加えて……忘れがちにはなるが、僕は彼から挑戦状を叩き付けられているのだ。
彼曰くのゲームに勝たなければ、僕はやっと見付けた自分の世界の鮮明さを欠くことになる。願わくばそれだけは阻止したい。
彼が懸想している正体が誰なのか。僕はそれを解明しなければならない
そうとなればまずは千理のことをもっとよく知らなければと。
僕は、千理のことを自分からデートに誘うようになったのだ。
千理は好奇心が旺盛だったから、雑談からネタを拾ってはちょっと珍しい催しを探して話を持ち掛ければ、ひとつ返事で僕の誘いに乗ってくれた。
「なぁ、葵斗」
「うん?」
「葵斗、いっつも面白い所連れてってくれるけど、あーゆー情報ってどこで探してんの?」
ある日、暗室から出た僕に千理が投げてきた台詞。
意識はしているものの、必死に探し回っている訳でもない。
写真雑誌で組まれているイベント情報の中から近場を見繕っているだけだから。
「葵斗って実はイベント事に敏感なタイプ?」
「さぁ……どうだろ」
季節の移ろいには敏感な方だと思うけれど、イベントに明るいかと訊かれたら迷う。
「もーすぐクリスマスだけど」
「クリスマスがどうかした?」
僕の受け答えに、千理は「えーっ?」と大袈裟に叫んだ。
「クリスマスと云えば、カップルにとっての大イベントトップスリーに入るだろっ?」
「…………あぁ、そっか……」
云われてみるとそうかも知れない。クリスマスというイベント自体は認識していても、その日に特別何かをするという習慣のない家だったから僕は恋人と甘い時間を過ごす為には欠かすことの出来ないイベントだということをすっかり失念していた。
「あぁ、そっか……って……葵斗、ヤル気あんの?」
額を抑えてからジト目で僕を見てくる千理に、ヤル気って何のだ……と肩が竦む。
「でもさ、」
じっとりとした眼差しを瞬きで遮り、僕は千理の隣のパイプ椅子を引く。
「特別なイベントを楽しまなくたって、こうやって一緒に居るだけの時間も特別にならない……?」
そっと。拒絶されないかを恐れながら千理がポラロイドカメラを撫でている指先へと無意識に手を伸ばす。触れた体温。接触を嫌がられはしなかった。
「葵斗……」
はぁ、と大きな溜息を吐いて、僕が添えた手にもう片方の手を重ねてくる千理。
「アンタ、自分がめちゃくちゃ気障ったらしい台詞吐いてる自覚ある?」
「……気障ったらしい?」
「あー、そうだよな。そうだ。この数ヶ月で知ったことだった。葵斗は無自覚タラシだってことを」
また溜息を吐いて、千理は重ねてきた手の指を少しだけ折り曲げた。指の腹でほんの僅かに引っ掻かれる感覚で、深いところの神経が甘く震えた気がした。
「葵斗はさ、誰彼構わずそういうこと云うのか?」
「そういうこと……? 喩えば?」
「一緒に居るだけでも特別な時間になる、とか」
そういうことを誰にでも云うのかと眉を寄せられ、まさかと緩く首を左右に振る。
「君にだけだよ、こんなことを云ったの」
後にも先にも。君にしか云わない。親指を滑らせて千理の手の平の側面をやんわり撫でたら、彼は猫のように目を細めた。
そうしてからゆっくりと目を開いて僕のことをまじまじと覗き込んできた。
「それって、葵斗、俺のこと大好きじゃん……」
揶揄するでもない響きだったからか、そうだとも違うとも云えなかった。
その代わり、好きというその二文字だけを舌に乗せてみる。
「…………す、き」
音にはせず呟いて、その舌触りの滑らかさに驚く。
一緒に居るだけの時間も特別だと感じる……そう思っているのはきっと僕自身で。
そうだとしたら確かに僕は相当千理のことを好いていないと逆に説明がつかなくなる。
学校で毎日会っているのに休みの日にもデートに誘い彼を知ろうとする僕は、ゲームの勝敗云々関係なく……とっくのとうに千理の足元に伏した大型犬のようになっていたのかも知れない。
好き……大好き……そう、か。僕は千理のことを好き、なのか……。
胸中で何度か繰り返し、それなら、と込み上げた衝動は本能。
「……千理」
触れている手はそのままに、空いていた手を千理の頬に添えて。
僕は夕陽が射し込む部室で長く伸びるふたつの影を重ねた。
ゆっくりと顔を離せば、目に映ったのは千理の驚いたような表情だった。
目を丸くしてキョトンとしている千理は、あ、と短く声を発してから、やんわり僕の肩を押した。ただ、それは拒絶を示す力加減ではなかった。
口許を腕で覆った千理が顔を逸らす。その耳の端がほんのり色付いて見えたのは気の所為だろうか。
「あお、と……」
「なに?」
「…………ファースト、キス……」
「……ファーストキス?」
「俺の、初めてのキス……葵斗に、奪われた……」
「………………」
今度は僕の方がキョトンとしてしまう。
千理は他にも数人と交際をしたことがあると云っていたから、まさか僕が初めての相手だとは思いもしなかった。
そもそも本能に突き動かされたこのキスは僕にとってもファーストキスだ。
それにしても、普段余裕たっぷりに見える千理が実はファーストキスを大事に取っていたこと、そしてそれを奪ったのが自分だという事実がやたら大きく僕の胸を弾ませた。
成程……理屈も道理も何もない。
誰かを好きになる、ということは、こういうことなのか。
「……葵斗っ、帰ろ!」
居た堪れなくなったのか、僕がキョトンとしている間に勢いよく立ち上がる千理。
バッとリュックを肩に引っ掛けた彼は大股で扉の前に立ち、顔を顰めて僕を睨んだ。
「ほらっ、一緒の時間が欲しいんだろっ!」
早く帰るぞ、と伸びてきた手は僕の後続を待つもので。今度は胸の奥が小刻みに揺れ始める。
小さく、でも確かに頷いた僕は鞄の取っ手を掴み、千理が伸ばす手を取った。
「千理、好き……」
彼がノブを回し切る前に背後から耳裏に囁いたら、ゴン、と僕の肩に千理の後頭部が当たった。
その仕草は彼が照れているのを隠したがる時の仕草なのか。
「行くぞっ」
ぐい、と乱暴にノブを引いた千理だったが、廊下に出ても僕が握った手を振り払うことはしなかった。
「葵斗……」
小さく、低い声。何か、と問うより先に千理は首を何度か横に振った。
「何でもない」
ほら早く行くぞ。顔を逸らし、そう繰り返した千理を特別訝しまなかった僕は少々愚鈍だった。
クリスマスイヴは二学期の終業式だった。午前も半ばで解散したホームルーム。暗室に用はないものの、いつもの癖で教員室に足を運べば、中から鍵がじゃらつく音を立てながら一人の生徒が出て来た。
「千理」
「あ、葵斗……」
パッと鍵を握った千理が、くるりと踵を返す。
「千理?」
「鍵、返してくる」
部室に用はないのか、と背中に問うたら、用は今済んだと千理。
肩越しに振り返った顔はどこか不服そう。
「葵斗に会う為に鍵借りただけだし」
どうして全部云わせるんだとばかりの千理に、胸の隅が震える。
「葵斗、いつもの帰宅時間は過ぎれないんだろ?」
「そうだね」
「なら、時間ギリギリまでデート」
暗に二人きりで居たいという意思表示が僕を舞い上がらせた。
「どこで時間を?」
「カラオケ」
「カラオケ?」
「持ち込み可で、学割フリータイムワンコイン……は、クリスマス価格で今日は無理かも知れないけど……っ、人目気にしないで一緒に居れるから……」
満室になる前に早く学校出てケーキとチキン買ってカラオケ!
短く叫び、千理は借りたばかりの鍵を返却しに行った。
そうして千理が望んだ通り、コンビニでピースのケーキと骨なしチキン、それと炭酸ジュースを買って、カラオケボックスに飛び込んだ。
後ろに居た、矢張り僕たちと同じようなことを考えていた様子の学生が入店を断られていたから、幸運だった。
個室に閉じ篭って、テーブルの上に買ってきたものを広げる。
冷めない内にとまず口にしたのは骨なしチキン。
味違いで買ったケーキは半分ずつ。
正直味はよく判らなかった。
『部活動』という建前なしに初めて千理の方から自発的に求められた時間が嬉し過ぎて、いっそ現実味に欠けているような気がしたからだ。
この浮かれ様を鑑みるに、僕はいつの間にかすっかりしっかり千理のことを好きになっていたらしい。
クリスマスメニューを平らげた後でもマイクを握ることはなかった。二人、何を話すでもなく隣り合って座って腕時計が奏でるの秒針の音を聞いていた。
「……葵斗」
たっぷり時間を費やしてからぽつりと呼ばれた名前。
何、と横顔を覗き込んだらゆるりと千理の顔がこちらを向く。
「……何か、したいこと、ないの」
「したいこと?」
「防音の密室で二人っきり」
何かしたいことはないのかと再度問われて、うーんと口許に手を遣る。
「千理は、何かしたいことがあるの?」
特別自分からしたいことが今すぐ見付からず、同じ問いを返したらスニーカーで革靴を思いっ切り踏まれた。
「健全かよっ!」
まるで不満のような響きを持ったそれは、けれどもどこか安心したような響きでもあって。
「眠い!」
ずずず、と一人分尻をずらした千理が重力に従順になって僕の膝の上に倒れてきた。
「寝る」
「え、」
「寝顔、撮っても怒らないぞ」
ふっ、と一瞬だけしたり顔をした千理は腕を組んでそのまま目を閉じてしまった。
「…………」
無防備な千理にどうこうしようだなんて欠片さえ思わなかった僕は、確かに健全過ぎていっそ不健全だったかも知れない。
けれども、これ以上の欲はまだ湧いていなかったのだ。
キスくらいは、しておけば良かったと翌朝後悔はしたけれど。
誕生日プレゼントと称して渡したポラロイドカメラを、どうやら千理は気に入ってくれたらしい。
僕が景色を撮りに行く度手持ち無沙汰にしていた千理は、僕と同じようにカメラを構えるようになった。
シャッターを切ることに夢中になると、僕は外界の変化に疎くなる。
その所為で、僕はしばしば千理の被写体にされていた。
「千理、人の写真を勝手に撮るな」
「葵斗、それ特大ブーメランだぞ」
どれだけ俺を隠し撮りして来たと思っているんだよアンタは。
口端を上げる千理に、僕は決まり悪く視線を斜め下に落とすしか出来ない。
それにしても、と。千理は僕が現像したばかりの写真を数枚両手で扇状に広げる。
「葵斗、長年カメラ触ってるみたいだけど、下手くそじゃないか?」
いつだってぼやけた風景しか現像されてこない写真のことを指摘され、何と返そうかと迷う。
「僕の世界だから、だよ」
「葵斗の世界?」
「……僕の世界では、千理しか鮮明に写らない」
僕の台詞に千理は深く息を吸い、大きく天井を仰いでからジト目で僕を見てきた。
「それ、俺以外が聞いたらドン引きすると思うから他の奴に云わない方が良いぞ」
「云わないよ……」
だってさっきの台詞はただの事実で、他の誰かに云う機会なんてきっとないだろうから。
紅葉がすぎればもう街はすっかりイルミネーションで彩られる。
夜間意味もなく外出することは禁じられているから、そのイルミネーションをフィルムに収めるタイミングは学校からの帰り道しかない。それも、帰宅が遅くなり過ぎない時間帯で、だ。
所謂恋人が出来た、ということを僕は家族に伝えていない。
最近休日の外出が増えたのでは? と伯父に指摘された時には「後輩が写真を教わりたいって云うから」と返しておいた。実際、嘘ではないし。
千理と休日に会う約束を取り付けるのは僕からが殆どだった。まぁ、そのキッカケはいつも千理が作るのだけど。
自分が千理のことを恋だの愛だのという感情で見ているのかは未だにハッキリとしない。
でも一緒に居るのは嫌いじゃなかったし、寧ろ落ち着くと感じることもある。それに、勝手に暗室に入られるのも千理相手なら許せた。
加えて……忘れがちにはなるが、僕は彼から挑戦状を叩き付けられているのだ。
彼曰くのゲームに勝たなければ、僕はやっと見付けた自分の世界の鮮明さを欠くことになる。願わくばそれだけは阻止したい。
彼が懸想している正体が誰なのか。僕はそれを解明しなければならない
そうとなればまずは千理のことをもっとよく知らなければと。
僕は、千理のことを自分からデートに誘うようになったのだ。
千理は好奇心が旺盛だったから、雑談からネタを拾ってはちょっと珍しい催しを探して話を持ち掛ければ、ひとつ返事で僕の誘いに乗ってくれた。
「なぁ、葵斗」
「うん?」
「葵斗、いっつも面白い所連れてってくれるけど、あーゆー情報ってどこで探してんの?」
ある日、暗室から出た僕に千理が投げてきた台詞。
意識はしているものの、必死に探し回っている訳でもない。
写真雑誌で組まれているイベント情報の中から近場を見繕っているだけだから。
「葵斗って実はイベント事に敏感なタイプ?」
「さぁ……どうだろ」
季節の移ろいには敏感な方だと思うけれど、イベントに明るいかと訊かれたら迷う。
「もーすぐクリスマスだけど」
「クリスマスがどうかした?」
僕の受け答えに、千理は「えーっ?」と大袈裟に叫んだ。
「クリスマスと云えば、カップルにとっての大イベントトップスリーに入るだろっ?」
「…………あぁ、そっか……」
云われてみるとそうかも知れない。クリスマスというイベント自体は認識していても、その日に特別何かをするという習慣のない家だったから僕は恋人と甘い時間を過ごす為には欠かすことの出来ないイベントだということをすっかり失念していた。
「あぁ、そっか……って……葵斗、ヤル気あんの?」
額を抑えてからジト目で僕を見てくる千理に、ヤル気って何のだ……と肩が竦む。
「でもさ、」
じっとりとした眼差しを瞬きで遮り、僕は千理の隣のパイプ椅子を引く。
「特別なイベントを楽しまなくたって、こうやって一緒に居るだけの時間も特別にならない……?」
そっと。拒絶されないかを恐れながら千理がポラロイドカメラを撫でている指先へと無意識に手を伸ばす。触れた体温。接触を嫌がられはしなかった。
「葵斗……」
はぁ、と大きな溜息を吐いて、僕が添えた手にもう片方の手を重ねてくる千理。
「アンタ、自分がめちゃくちゃ気障ったらしい台詞吐いてる自覚ある?」
「……気障ったらしい?」
「あー、そうだよな。そうだ。この数ヶ月で知ったことだった。葵斗は無自覚タラシだってことを」
また溜息を吐いて、千理は重ねてきた手の指を少しだけ折り曲げた。指の腹でほんの僅かに引っ掻かれる感覚で、深いところの神経が甘く震えた気がした。
「葵斗はさ、誰彼構わずそういうこと云うのか?」
「そういうこと……? 喩えば?」
「一緒に居るだけでも特別な時間になる、とか」
そういうことを誰にでも云うのかと眉を寄せられ、まさかと緩く首を左右に振る。
「君にだけだよ、こんなことを云ったの」
後にも先にも。君にしか云わない。親指を滑らせて千理の手の平の側面をやんわり撫でたら、彼は猫のように目を細めた。
そうしてからゆっくりと目を開いて僕のことをまじまじと覗き込んできた。
「それって、葵斗、俺のこと大好きじゃん……」
揶揄するでもない響きだったからか、そうだとも違うとも云えなかった。
その代わり、好きというその二文字だけを舌に乗せてみる。
「…………す、き」
音にはせず呟いて、その舌触りの滑らかさに驚く。
一緒に居るだけの時間も特別だと感じる……そう思っているのはきっと僕自身で。
そうだとしたら確かに僕は相当千理のことを好いていないと逆に説明がつかなくなる。
学校で毎日会っているのに休みの日にもデートに誘い彼を知ろうとする僕は、ゲームの勝敗云々関係なく……とっくのとうに千理の足元に伏した大型犬のようになっていたのかも知れない。
好き……大好き……そう、か。僕は千理のことを好き、なのか……。
胸中で何度か繰り返し、それなら、と込み上げた衝動は本能。
「……千理」
触れている手はそのままに、空いていた手を千理の頬に添えて。
僕は夕陽が射し込む部室で長く伸びるふたつの影を重ねた。
ゆっくりと顔を離せば、目に映ったのは千理の驚いたような表情だった。
目を丸くしてキョトンとしている千理は、あ、と短く声を発してから、やんわり僕の肩を押した。ただ、それは拒絶を示す力加減ではなかった。
口許を腕で覆った千理が顔を逸らす。その耳の端がほんのり色付いて見えたのは気の所為だろうか。
「あお、と……」
「なに?」
「…………ファースト、キス……」
「……ファーストキス?」
「俺の、初めてのキス……葵斗に、奪われた……」
「………………」
今度は僕の方がキョトンとしてしまう。
千理は他にも数人と交際をしたことがあると云っていたから、まさか僕が初めての相手だとは思いもしなかった。
そもそも本能に突き動かされたこのキスは僕にとってもファーストキスだ。
それにしても、普段余裕たっぷりに見える千理が実はファーストキスを大事に取っていたこと、そしてそれを奪ったのが自分だという事実がやたら大きく僕の胸を弾ませた。
成程……理屈も道理も何もない。
誰かを好きになる、ということは、こういうことなのか。
「……葵斗っ、帰ろ!」
居た堪れなくなったのか、僕がキョトンとしている間に勢いよく立ち上がる千理。
バッとリュックを肩に引っ掛けた彼は大股で扉の前に立ち、顔を顰めて僕を睨んだ。
「ほらっ、一緒の時間が欲しいんだろっ!」
早く帰るぞ、と伸びてきた手は僕の後続を待つもので。今度は胸の奥が小刻みに揺れ始める。
小さく、でも確かに頷いた僕は鞄の取っ手を掴み、千理が伸ばす手を取った。
「千理、好き……」
彼がノブを回し切る前に背後から耳裏に囁いたら、ゴン、と僕の肩に千理の後頭部が当たった。
その仕草は彼が照れているのを隠したがる時の仕草なのか。
「行くぞっ」
ぐい、と乱暴にノブを引いた千理だったが、廊下に出ても僕が握った手を振り払うことはしなかった。
「葵斗……」
小さく、低い声。何か、と問うより先に千理は首を何度か横に振った。
「何でもない」
ほら早く行くぞ。顔を逸らし、そう繰り返した千理を特別訝しまなかった僕は少々愚鈍だった。
クリスマスイヴは二学期の終業式だった。午前も半ばで解散したホームルーム。暗室に用はないものの、いつもの癖で教員室に足を運べば、中から鍵がじゃらつく音を立てながら一人の生徒が出て来た。
「千理」
「あ、葵斗……」
パッと鍵を握った千理が、くるりと踵を返す。
「千理?」
「鍵、返してくる」
部室に用はないのか、と背中に問うたら、用は今済んだと千理。
肩越しに振り返った顔はどこか不服そう。
「葵斗に会う為に鍵借りただけだし」
どうして全部云わせるんだとばかりの千理に、胸の隅が震える。
「葵斗、いつもの帰宅時間は過ぎれないんだろ?」
「そうだね」
「なら、時間ギリギリまでデート」
暗に二人きりで居たいという意思表示が僕を舞い上がらせた。
「どこで時間を?」
「カラオケ」
「カラオケ?」
「持ち込み可で、学割フリータイムワンコイン……は、クリスマス価格で今日は無理かも知れないけど……っ、人目気にしないで一緒に居れるから……」
満室になる前に早く学校出てケーキとチキン買ってカラオケ!
短く叫び、千理は借りたばかりの鍵を返却しに行った。
そうして千理が望んだ通り、コンビニでピースのケーキと骨なしチキン、それと炭酸ジュースを買って、カラオケボックスに飛び込んだ。
後ろに居た、矢張り僕たちと同じようなことを考えていた様子の学生が入店を断られていたから、幸運だった。
個室に閉じ篭って、テーブルの上に買ってきたものを広げる。
冷めない内にとまず口にしたのは骨なしチキン。
味違いで買ったケーキは半分ずつ。
正直味はよく判らなかった。
『部活動』という建前なしに初めて千理の方から自発的に求められた時間が嬉し過ぎて、いっそ現実味に欠けているような気がしたからだ。
この浮かれ様を鑑みるに、僕はいつの間にかすっかりしっかり千理のことを好きになっていたらしい。
クリスマスメニューを平らげた後でもマイクを握ることはなかった。二人、何を話すでもなく隣り合って座って腕時計が奏でるの秒針の音を聞いていた。
「……葵斗」
たっぷり時間を費やしてからぽつりと呼ばれた名前。
何、と横顔を覗き込んだらゆるりと千理の顔がこちらを向く。
「……何か、したいこと、ないの」
「したいこと?」
「防音の密室で二人っきり」
何かしたいことはないのかと再度問われて、うーんと口許に手を遣る。
「千理は、何かしたいことがあるの?」
特別自分からしたいことが今すぐ見付からず、同じ問いを返したらスニーカーで革靴を思いっ切り踏まれた。
「健全かよっ!」
まるで不満のような響きを持ったそれは、けれどもどこか安心したような響きでもあって。
「眠い!」
ずずず、と一人分尻をずらした千理が重力に従順になって僕の膝の上に倒れてきた。
「寝る」
「え、」
「寝顔、撮っても怒らないぞ」
ふっ、と一瞬だけしたり顔をした千理は腕を組んでそのまま目を閉じてしまった。
「…………」
無防備な千理にどうこうしようだなんて欠片さえ思わなかった僕は、確かに健全過ぎていっそ不健全だったかも知れない。
けれども、これ以上の欲はまだ湧いていなかったのだ。
キスくらいは、しておけば良かったと翌朝後悔はしたけれど。



