定刻の鐘と、ケーキと、王太子と~前世は検察事務官。断罪を止めたら、恋人役のはずが本物の婚約者になりました~

婚約発表の前夜。

雨が降り始めた夜に、一人、自室の窓際に座っていた。
明日のことを考えていた。

正式な婚約発表。白いドレス。大広間。国王陛下のお言葉。
二日前の書斎の出来事が、まだ頭の隅に残っている。
消えたわけではない。

ジュリアン殿下が追いついてきた足音。壁に追い詰められた感覚。
前世の記憶と重なった、あの恐怖。
でも同時に、リシャール殿下の腕の温かさも残っていた。

二つが、一緒に胸の中にある。
前者が薄まるにつれて、後者の方が、かえって鮮明になっていく気がした。
怖かった、という事実よりも、助けに来てくれた、という事実の方が、少しずつ強くなっていく。

コンコン、と扉が鳴った。

「はい」
「……ミルフィ」

リシャール殿下の声だった。

扉を開けると、殿下が立っていた。
侍女もラルフも連れていない。いつもより簡素な姿だった。
夜の廊下の灯りを背にしていて、表情は少し見えにくいのに、誰なのかは声だけですぐわかった。

「……リシャール、どうしたんですか」
「雨が降り始めたので」
「雨が降り始めたら来るんですか」
「……お前が一人で起きていると思って」
「…………」
「眠れているか」
「眠れています。ただ、今夜はもう少し起きていようと思っていて」
「そうか」

殿下は少し迷ってから、「中に入っていいか」と聞いた。

「どうぞ」

殿下は窓際の椅子に腰を下ろした。私もそばの椅子に座る。
雨の音が、静かに聞こえていた。
強くはないけれど、途切れずに降っていて、部屋の中の沈黙をちょうどよく埋めてくれる音だった。

「……明日のことを考えていましたか」
「少し。あと、一昨日のことも」
「……そうか」
「消えないんですよね、こういう記憶は。特に前世の重なりがあると」
「前世でも似たことがあった、と言っていたな」
「はい。追いかけられて、逃げられなくて……最後は逃げられませんでした」
「…………」
「でも、そのおかげでこちらの世界に来られましたし」
「そうだな」
「今回は逃げられましたし、リシャールも来てくれた。だから全然違うんですが、体の記憶というのは頭より遅いので」

頭では、もう終わったことだとわかっている。
今は安全だともわかっている。
でも、体だけがまだ完全には納得していない。
そういう感じが、今夜はまだ残っていた。

雨の音が少し強くなった。

「……リシャール」
「うん」
「一昨日、抱きしめてもらって、すごく落ち着いたんです」
「…………そうか」
「前世も今世も、あまりそういうことがなかったので。ただ、そこにいてくれるだけで落ち着けるというのが、新鮮で」

殿下は少し間を置いてから、立ち上がって私の方に来た。

「……ミルフィ」
「はい」
「今夜も、眠れるまで、ここにいてもいいか」
「……護衛の方に見られませんか」
「離れた所に立っているが、ここには近寄らせない」
「……では、少し」

殿下は私の隣の椅子に座って、窓の外を見た。
雨が、静かに降り続いている。
肩が触れるほどではない。でも、ひとりで座っていた時より、明らかに部屋の空気が違った。

「……昨夜、よく眠れなかったか」
「少し、夢を見ました」
「どんな夢だ」
「前世の夢。でも途中で、書斎が出てきて……リシャールが来てくれた夢に変わりました」
「変わったのか」
「はい。そこで目が覚めました。嬉しくて」

殿下はしばらく黙っていた。

「……よかった」
「何がですか」
「夢で、来られて」

私は少し笑った。

「……本当に来てくれましたから。現実でも」
「これからは」
「はい」
「何かあれば、すぐに呼んでくれ。夢でなく、現実で来る」
「……現実に来てもらえる状況が、まずいことが多いんですが」
「構わない。呼べ」
「……わかりました」

雨が、ざあっと少し強くなる。
窓ガラスを流れる水の筋が、蝋燭の光を揺らして光っていた。

「……綺麗ですね、雨の夜」
「そうだな」
「前世の世界では、夜に雨が降ると街の明かりが濡れて、それがきれいで好きでした」
「こちらの世界では違うか」
「蝋燭と雨の組み合わせは、また別の綺麗さがあります。どちらも好きです」
「そうか」

私たちはしばらく、黙って雨を見ていた。
時々、どちらかが言葉を足して。
時々、また静かになって。
無理に話を続けなくても苦しくならない沈黙が、今夜はとてもありがたかった。

どのくらい経った頃か。

「……眠くなってきました」
「そうか」
「今夜は大丈夫な気がします」
「なら良かった」
「リシャールがいてくれたから、だと思います」

殿下は少し、目を細めた。

「……明日の婚約発表、楽しみにしているか」
「……はい。少し緊張していますが」
「緊張したら俺の手を握れ」
「大広間の中央で、ですか」
「構わない」
「……恥ずかしいんですが」
「俺が握ると言っている。お前が握るのではない」
「……それは少し違いますよ」
「どう違う」
「……まあ、いいです」

殿下は立ち上がった。

「では、おやすみ」
「……おやすみなさい、リシャール」
「明日は迎えに来る」
「はい」
「白いドレスが似合っている。楽しみにしている」
「……着たところ、見せましたっけ?」
「着ていなくてもわかる」
「……それは嬉しいですが、根拠がよくわかりません」
「お前が着るから似合うんだ」

返す言葉がなかった。
そういうことを、こんなふうに静かに言われると、余計に困る。

「……おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」

殿下は出て行った。
雨の音だけが残る。
私は窓の外をしばらく見てから、目を閉じた。

今夜は、きっとよく眠れる。
腕の温もりを思い出しながら、静かに眠りについた。