定刻の鐘と、ケーキと、王太子と~前世は検察事務官。断罪を止めたら、恋人役のはずが本物の婚約者になりました~

婚約発表の三日前。

リシャール殿下は、その日の夕方から国王陛下との長い会議があると聞いていた。
私はいつも通り定時に書記官室を出て、ルルンさんの店でモンブランをひとつ買い、それから再び王宮へ戻って西棟の書斎に向かった。
婚約発表の準備書類の最終確認を頼まれていたからだ。

発表に際して、書面で提出する書類は複数ある。
私の家族関係の証明書、格位の付与に関する書類、婚約の条件を記した文書。

どれも殿下が確認してはいる。
けれど、私自身が最後に一通ずつ目を通しておきたかった。
書類の内容に問題があってから後悔するより、自分の目で確認した方がずっといい。
これは前世から変わらない習慣だった。

静かな書斎。
夜の書斎は昼より少し薄暗いが、蝋燭をいくつか灯せば十分に明るい。

机に書類を広げ、順番に確認していく。
格位の付与書類を三度読み、誤字がないことを確認し、次に婚約条件の文書へ移る。
自分の名前が、この文書の中に何度も出てくる。

……まだ少し、不思議な感じがした。
三か月前まで、定時退勤とケーキのことしか考えていなかった私が、こんな書類の当事者として名前を載せている。

しかも、存外、自分の婚約を楽しみに思っている。
そのことに気づいて、ほんの少しだけ笑みがこぼれた。

書類を一枚めくり、家族関係の証明書類を広げた、その時だった。

書斎の扉が、音もなく開いた。

「……リシャール?」

顔を上げながら言った。
でも、返事はない。

嫌な予感が、背筋をすっと走った。今夜の空気が冷える。

入ってきたのは、見覚えのある人物だった。
鮮やかな青の軍服。以前より少し血色が悪く見える顔。
第二王子、ジュリアン殿下だった。

「…………」

声が出ない。

ジュリアン殿下は謹慎中のはずだ。
王宮内での行動も制限されているはずで、この西棟に来られる理由がない。
それなのに、今、目の前にいる。

「……お前が」

殿下が口を開く。
声は低く、かすれていた。

「お前のせいで、こうなった」
「…………」
「兄上がお前に目をかけて、俺の件を父上に報告して、俺は王位継承権を失った。お前がいなければ、あの夜会でエリーンを断罪して、全て上手くいったのに」
「……殿下」
「お前がいなければ」

私は椅子から立ち上がりながら、机を盾にするように距離を取った。

冷静に考えろ。
喉の奥がひりつく。
でも、ここで取り乱したら終わる。静かに。

前世の記憶が、静かに言う。
パニックになるな。出口を確認しろ。逃げるルートを探せ。

「ドレイク卿の計画通りにやっただけだ。でもお前が割り込んだせいで、全部崩れた」
「…………」
「兄上が選ぶはずだったのは別の令嬢で、俺にはもっと有力な家から縁組みが来るはずだった。お前のせいで、俺は全部失った」

叫ぶことはできる。
でも夜の西棟は人が少ない。聞こえるかどうかは賭けだ。助けが来る保証もない。

殿下は一歩、また一歩と近付いてくる。

「お前さえいなければ」
「……殿下」

私は声を出した。
できるだけ落ち着いて、はっきりと。

扉は殿下の背後。窓は三階。逃げ場は狭い。
飛び降りられるか……いや、王宮の天井は高い。ゆうに十メートルはある。
骨折だけで済めばいいが、それも確実ではない。

「今夜のことを、後悔することになります」
「うるさい」
「王位継承権を失い、謹慎中の殿下が、兄である王太子の婚約者に手を出せばどうなるか。そんなこと、殿下の方がよくわかっているはずです」
「もう失うものはない」

その言葉が、ぞっとするほど怖かった。
失うものがないと思い込んでいる人間は、止まらない。前世で、それを身をもって知っている。
私を逆恨みで刺した、あの犯人と同じ目だと思った。

ジュリアン殿下がまた一歩踏み出す。
私は後ろへ下がろうとして、書架に背をぶつけた。
木の硬さが肩甲骨に当たる。
退路がない。

「……助けを呼びます」
「誰も来ない。この時間に西棟に人はいない」
「リシャールが来ます」
「兄上は今夜、会議だ」

殿下は腕を伸ばした。
私は書架の端をつかみ、体を横へずらしながら、精一杯の声で叫ぶ。

「リシャー……!」

叫んだのと同時に、殿下の手が肩をつかんだ。
強い力だった。
引き寄せられそうになった瞬間、私は無意識に、手元の書類の束を相手の顔へ向かって投げつけた。

羊皮紙がばらばらと散る。

その一瞬のひるみに横へ逃れようとしたが、今度は強引に腕をつかまれる。

「っ……この」
「……やめっ!」

体勢を崩し、床へ押し倒される。
覆いかぶさられ、口をふさがれた。
カシャンッ、と眼鏡が落ちる音がして、視界がわずかにぶれる。
頬が床に擦れて痛い。
その上から、ジュリアン殿下の怒気と焦りが混じった声が落ちてきた。

「はっ。眼鏡がなければ、見られる顔じゃないか」
「……っ!」
「兄上はこういう女が好きなのか」

睨み返すことしかできない——その瞬間だった。

書斎の扉が、激しい音を立てて開いた。

次の瞬間、ドガッという鈍い音とともに、ジュリアン殿下の体が横へ吹き飛ぶ。

「がっ!!!!」

瞬きもできずに顔を上げると、そこにリシャール殿下が立っていた。

息が少し乱れている。
走ってきて、そのまま蹴り飛ばしたのだろう。
普段の落ち着いた姿からは想像できないほど速かった。

床に押し倒された私。
散らばる羊皮紙。
その惨状を目にしたリシャール殿下の表情が変わる。

静かな怒りだった。
炎みたいに燃え上がるのではない。
氷みたいに冷たく、深く、底の見えない怒りだった。

「ジュリアン」
「ぐっ……兄上、会議は」
「そんなものはどうでもいい」

リシャール殿下は静かに、けれど速く歩いてきた。
ジュリアン殿下と私の間へ入り、私を遠ざけるように背後へかばう。
その背中が視界いっぱいに入った瞬間、ようやく息が少し戻った。

「下がれ」

たった一言だった。
それだけで、ジュリアン殿下は一歩退いた。

「……俺は、ただ」
「わかっている」

リシャール殿下の声は低く、感情を押し殺したまま重かった。

「お前が何をしようとしていたか、全部わかっている」
「……兄上」
「今夜のことは父上に報告する。お前は今すぐここを出て、自室に戻れ」
「っ……俺は」
「ジュリアン。何度も言わせるな」

リシャール殿下が、弟の方をまっすぐ見た。

「お前を弟だと思っているから、今夜まだ俺が直接言っている。だが、その言葉を今後撤回することになっても、俺は責任を取れない」

ジュリアン殿下はしばらく兄を見返していた。
何かを言いたそうな顔をして、それでも何も言えず。
やがて踵を返し、書斎を出て行った。

リシャール殿下に支えられるように抱き起こされ、静かになった書斎の中で、私はようやく息を吐いた。
ゆっくりと、深く。
胸の奥に張りついていたものを、少しずつ剥がすみたいに。
膝が、まだかすかに震えていた。

「ミルフィ」
「……はい」
「怪我はないか」
「……ないです」
「本当に?」
「はい、本当に。口と手首を抑えられたくらいで……っつ」

リシャール殿下は私の顔を見た。
確認するように、肩を、腕を、指先まで視線で追う。
その慎重さに、かえって今さら怖さが戻ってきそうになる。

「口の端が切れている……本当にすまない……」
「……っ」

その時、急に体が震え始めた。
怖かったのだと、今になって全身が気づいたようだった。
前世の記憶が、音もなくよみがえってくる。
駅前で倒れた時の感覚。逃げられなかった記憶。
それと、さっきの書斎で追い詰められた感覚が、嫌なくらい重なった。

「……あ、あれ……」

声がかすれていた。
自分の声なのに、自分のものではないみたいに頼りない。

「怖かったわけじゃないんですが……なんか、体が」
「ミルフィ」

リシャール殿下が、一歩近づいてきた。

「……前世の記憶が、少し。似ていたので。追い詰められた感じが」
「……そうか。すまない……助けるのが遅くなって」

殿下はもう一歩近づいた。
そしてそのまま、何も言わずに私を抱きしめた。

「……っ」

腕が、背中に回る。
温かかった。
前世でも今世でも、誰かにこうして抱きしめられた記憶はあまりない。
だからかもしれない。
その温かさに触れた途端、張っていたものが一気に緩みそうになる。

「……泣いていい」

耳のそばで、低い声がした。

「泣いてないです」
「無理にとは言わない。ただ、我慢はするな」
「……はい」
「怖かっただろう」
「……ちょっとだけ」
「ちょっとだけか」
「……かなり、怖かったです」
「そうだろう」

殿下の腕が、また少し強くなった。
私は殿下の胸に額を押し当てて、震えが収まるのを待った。
書斎の蝋燭が揺れている。
散らばった羊皮紙が、床に白く広がっていた。
どのくらいそうしていただろう。
少しずつ、呼吸が戻ってくる。
震えも、波が引くみたいにゆっくり薄れていった。

「……落ち着いてきました」
「急がなくていい」
「いえ、もう」
「ミルフィ」
「はい」
「急がなくていい」

その言葉が、また温かかった。
私は少しだけ、もう少しだけ、そのままでいた。
殿下の体温がじわりと伝わってくる。
心臓の音が、すぐ近くで聞こえた。
……この人の心臓も、少し速いな、と思った。

「……リシャールも、怖かったですか」
「…………」

少し間があった。

「……ああ」
「私を見た時に?」
「廊下で叫び声を聞いた時から、ずっと」
「……走ってきてくれたんですか」
「会議の途中だった」
「それは大丈夫だったんですか」
「やたらジュリアンが会議の時間を気にしていたことを思い出した」
「……そうだったんですね」
「慌ててきたら……杞憂であってほしかったんだが」

それでも殿下は、会議を抜けて走ってきてくれたのだ。

「……ありがとうございます」
「礼は言うな」
「何度でも言います。色々諦めなければいけない事態になっていたかもしれなかったから」

殿下はしばらく黙っていた。

「……間に合って、良かった」

声が、かすかに震えていた。
それに気づいて、少し驚く。
この人が、こういう声を出すとは思っていなかった。
殿下の腕が、もう一度だけ強くなる。

「離さないぞ、しばらく」
「……はい」

書斎の蝋燭が、静かに揺れていた。
散らばった書類は後で拾えばいい。
眼鏡のことも、今は考えないことにした。
今はそれで十分だった。
そっと、殿下の背中に手を回す。
抱きしめ返すのは、今夜が初めてだった。

殿下はそれ以上何も言わなかった。
ただ、腕の力は緩まなかったし、私も緩める気になれなかった。
秋の夜が、書斎の窓の外で深まっていた。