殿下から鍵を渡された西棟の書斎は、本当に良い場所だった。
書架が三面の壁を埋め、中央には大きな机がひとつ。
窓は南向きで、昼はやわらかな光が差し込み、夕方になると橙色に染まって、本の背表紙まであたたかな色を帯びる。
書庫よりずっと明るいのに、きちんと静かだ。
私はここ数日、昼休みと、仕事が終わった後の少しの時間を、この書斎で過ごすようになっていた。
殿下の言った通り、たまに殿下もやってくる。
特に予告なく現れることが多かった。
扉が開いて、殿下が入ってくる。「邪魔するか」と聞いてくる。
「どうぞ」と答える。殿下は別の机に座り、自分の書類を広げる。
二人で黙って、それぞれの書類を読む。
それだけなのに、不思議と居心地が良かった。
言葉がなくても気まずくならない相手というのは、案外そう多くないのかもしれない。
その夜もそうだった。
私が写しの作業をしていたところへ、殿下が現れた。
「邪魔する」
「どうぞ」
殿下は机に書類を広げ、しばらく目を通していた。
外はすっかり暗くなっていて、書斎の蝋燭の炎だけが静かに揺れている。
「……ドレイクの後任の宰相について、父王と話し合いがあった」
しばらくしてから、殿下が言った。
「どのような方になるんですか」
「候補は三名いる。どの人物も、ドレイクほど問題はない。ただ、政策の方向性が少しずつ違う」
「殿下はどの方を推しているんですか」
「ヴァンドール公爵だ」
「あ、エリーンさんのお父上」
「ああ。清廉で、かつ実務能力が高い。ドレイクが排除しようとしていた理由も、そこにある」
「……ドレイクが目の敵にするほど、優秀な方なんですね」
「ああ。父王も同じ意見だ。来月には正式に発表になると思う」
「それはよかったです」
そこで会話は一度途切れた。
紙をめくる音だけが続く。
けれど、私の手元の写しは、さっきからあまり進んでいなかった。
「ミルフィ」
「はい」
「エリーン令嬢と昼に話していたな」
「はい。ご存知でしたか」
「令嬢が俺のところに報告に来た」
「報告……何を話したか、聞きましたか」
「いや。令嬢は『良いお話ができました』とだけ言って帰った」
「……そうですか」
私は視線を手元に戻した。
でも、やっぱりペンはほとんど動かなかった。
「……ミルフィ」
「はい」
「昼に令嬢と何を話した」
「……いろいろ」
「いろいろ、とは」
「エリーンさんの今後のこととか。夜会の話とか」
「他には」
「……ケーキの話とか」
「他には」
殿下はさらりと聞いてくる。
私は蝋燭の炎を見ながら、少しだけ迷った。
でも、本当に聞きたいことがどこにあるのかは、たぶんお互いわかっている。
「……殿下の話を、少し」
「俺の話を?」
「エリーンさんが、殿下は私の話をする時に表情が違う、とおっしゃっていて」
「……令嬢はそういうことを言うのか」
「はい。やわらかくなる、と」
殿下は返事をしなかった。
書類に目を落としているのに、ページはしばらくめくられないままだった。
「……事実か、と聞いたら怒りますか」
「怒らないが」
「では事実ですか」
殿下はゆっくりと、私の方を見た。
「……そうかもしれない」
蝋燭の炎が揺れた。
たったそれだけなのに、空気まで少し揺れた気がした。
「お前と話している時は、余分なことを考えなくていい。それが顔に出るのかもしれない」
「余分なことを考えなくていい、というのは?」
「王子として振る舞うこと。相手が何を求めているか読むこと。言葉を選ぶこと。お前に対しては、そういうことがあまりいらない」
「……それは、私が察することができない人間だからでは」
「違う」
「え」
「お前は察せない人間ではない。ただ、俺が素のまま話していいと思える相手だということだ」
私は書類から顔を上げた。
そして、殿下と目が合った。
そのまま、どちらもすぐには逸らせなかった。
「……俺も聞いていいか」
「はい」
「令嬢と、俺の話をした後、ミルフィはどう思った」
「どう思った、というのは……」
「俺のことについて、何か思ったことがあれば」
私はペンを置き、蝋燭の明かりの中で少しだけ考えた。
整理する時間が必要だと思っていたのに、今この瞬間には、もう整理が終わっている気がした。
ずっと胸の奥でほどけかけていたものが、ようやく言葉になるところまで来たのだと思う。
「複雑な気持ちがありました」
「複雑?」
「……嫉妬、してしまいました」
「嫉妬……」
「……好きだからです」
静かに言った。
「リシャールのことが、好きです」
殿下はすぐには動かなかった。
でも、その沈黙が嫌ではなかった。言葉を受け止めてくれているのがわかったからだ。
「遅くなってすみません。自分の気持ちを確認するのに、わりと時間がかかる性格みたいです」
「……今、確かに言ったか」
「はい」
「好き、と」
「はい」
「…………」
殿下はゆっくり立ち上がり、机の前まで来た。
見上げると、静かな青灰色の目が、まっすぐこちらを見ている。
「俺も、お前が好きだ」
「……知っています」
「知っているのか」
「前に、かなりと言っていましたから」
「……そうだったな」
殿下は少し笑った。
前世で恋人がいたはずなのに、その時とはまったく違う。
こんな気持ちは、本当に初めてだった。
「ではこれで、互いに確認が取れた」
「そうですね」
「婚約が本物になる」
「……なりますね」
「本物になっても、ケーキ屋に行く習慣は変えなくていい」
「変えるつもりはないです」
「定時退勤も」
「それも変えません」
「わかった」
殿下は私の隣の椅子に腰を下ろした。
机の端から端まで距離のある書斎の中で、随分近い。
近いのに、不思議と逃げたい感じはしなかった。
「……ミルフィ」
「はい」
「俺はお前のそういうところが好きだ」
「どういうところですか」
「ケーキを大事にして、定時を守って、書類を丁寧に読んで、理不尽なことには我慢できなくて、それでも普段はなるべく関わり合いを避けようとするところ」
「……それは長所なのか欠点なのか」
「全部含めて、好きだ」
私はしばらく、その言葉を受け取っていた。
ゆっくりと、殿下の大きな手が眼鏡に伸びてくる。
「……ありがとうございます」
「礼を言うことではない」
「でも、言いたくて」
いつかみたいな不意打ちではない。
逃げようと思えば逃げられるくらい、ゆっくりとした動きで、眼鏡が外される。
蝋燭の炎がまた揺れた。
書斎の中で、落ちた二人の影が、静かに重なる。
王宮の夜の音が、徐々に遠くなっていく。
どちらのものともわからないほど心臓が騒がしいまま、重なった影が離れた。
私はもう一度ペンを取る。
「少し仕事の続きをします」
「俺もする」
殿下はまた自分の机に戻った。
でも今度は、机の位置が少し近い。
そのことに私は気づいていたが、何も言わなかった。
ただ、書類に向かいながら、口元がゆるみそうになるのを必死に抑えていた。
抑えている時点で、もう十分に浮かれているのだと思うけれど。
書架が三面の壁を埋め、中央には大きな机がひとつ。
窓は南向きで、昼はやわらかな光が差し込み、夕方になると橙色に染まって、本の背表紙まであたたかな色を帯びる。
書庫よりずっと明るいのに、きちんと静かだ。
私はここ数日、昼休みと、仕事が終わった後の少しの時間を、この書斎で過ごすようになっていた。
殿下の言った通り、たまに殿下もやってくる。
特に予告なく現れることが多かった。
扉が開いて、殿下が入ってくる。「邪魔するか」と聞いてくる。
「どうぞ」と答える。殿下は別の机に座り、自分の書類を広げる。
二人で黙って、それぞれの書類を読む。
それだけなのに、不思議と居心地が良かった。
言葉がなくても気まずくならない相手というのは、案外そう多くないのかもしれない。
その夜もそうだった。
私が写しの作業をしていたところへ、殿下が現れた。
「邪魔する」
「どうぞ」
殿下は机に書類を広げ、しばらく目を通していた。
外はすっかり暗くなっていて、書斎の蝋燭の炎だけが静かに揺れている。
「……ドレイクの後任の宰相について、父王と話し合いがあった」
しばらくしてから、殿下が言った。
「どのような方になるんですか」
「候補は三名いる。どの人物も、ドレイクほど問題はない。ただ、政策の方向性が少しずつ違う」
「殿下はどの方を推しているんですか」
「ヴァンドール公爵だ」
「あ、エリーンさんのお父上」
「ああ。清廉で、かつ実務能力が高い。ドレイクが排除しようとしていた理由も、そこにある」
「……ドレイクが目の敵にするほど、優秀な方なんですね」
「ああ。父王も同じ意見だ。来月には正式に発表になると思う」
「それはよかったです」
そこで会話は一度途切れた。
紙をめくる音だけが続く。
けれど、私の手元の写しは、さっきからあまり進んでいなかった。
「ミルフィ」
「はい」
「エリーン令嬢と昼に話していたな」
「はい。ご存知でしたか」
「令嬢が俺のところに報告に来た」
「報告……何を話したか、聞きましたか」
「いや。令嬢は『良いお話ができました』とだけ言って帰った」
「……そうですか」
私は視線を手元に戻した。
でも、やっぱりペンはほとんど動かなかった。
「……ミルフィ」
「はい」
「昼に令嬢と何を話した」
「……いろいろ」
「いろいろ、とは」
「エリーンさんの今後のこととか。夜会の話とか」
「他には」
「……ケーキの話とか」
「他には」
殿下はさらりと聞いてくる。
私は蝋燭の炎を見ながら、少しだけ迷った。
でも、本当に聞きたいことがどこにあるのかは、たぶんお互いわかっている。
「……殿下の話を、少し」
「俺の話を?」
「エリーンさんが、殿下は私の話をする時に表情が違う、とおっしゃっていて」
「……令嬢はそういうことを言うのか」
「はい。やわらかくなる、と」
殿下は返事をしなかった。
書類に目を落としているのに、ページはしばらくめくられないままだった。
「……事実か、と聞いたら怒りますか」
「怒らないが」
「では事実ですか」
殿下はゆっくりと、私の方を見た。
「……そうかもしれない」
蝋燭の炎が揺れた。
たったそれだけなのに、空気まで少し揺れた気がした。
「お前と話している時は、余分なことを考えなくていい。それが顔に出るのかもしれない」
「余分なことを考えなくていい、というのは?」
「王子として振る舞うこと。相手が何を求めているか読むこと。言葉を選ぶこと。お前に対しては、そういうことがあまりいらない」
「……それは、私が察することができない人間だからでは」
「違う」
「え」
「お前は察せない人間ではない。ただ、俺が素のまま話していいと思える相手だということだ」
私は書類から顔を上げた。
そして、殿下と目が合った。
そのまま、どちらもすぐには逸らせなかった。
「……俺も聞いていいか」
「はい」
「令嬢と、俺の話をした後、ミルフィはどう思った」
「どう思った、というのは……」
「俺のことについて、何か思ったことがあれば」
私はペンを置き、蝋燭の明かりの中で少しだけ考えた。
整理する時間が必要だと思っていたのに、今この瞬間には、もう整理が終わっている気がした。
ずっと胸の奥でほどけかけていたものが、ようやく言葉になるところまで来たのだと思う。
「複雑な気持ちがありました」
「複雑?」
「……嫉妬、してしまいました」
「嫉妬……」
「……好きだからです」
静かに言った。
「リシャールのことが、好きです」
殿下はすぐには動かなかった。
でも、その沈黙が嫌ではなかった。言葉を受け止めてくれているのがわかったからだ。
「遅くなってすみません。自分の気持ちを確認するのに、わりと時間がかかる性格みたいです」
「……今、確かに言ったか」
「はい」
「好き、と」
「はい」
「…………」
殿下はゆっくり立ち上がり、机の前まで来た。
見上げると、静かな青灰色の目が、まっすぐこちらを見ている。
「俺も、お前が好きだ」
「……知っています」
「知っているのか」
「前に、かなりと言っていましたから」
「……そうだったな」
殿下は少し笑った。
前世で恋人がいたはずなのに、その時とはまったく違う。
こんな気持ちは、本当に初めてだった。
「ではこれで、互いに確認が取れた」
「そうですね」
「婚約が本物になる」
「……なりますね」
「本物になっても、ケーキ屋に行く習慣は変えなくていい」
「変えるつもりはないです」
「定時退勤も」
「それも変えません」
「わかった」
殿下は私の隣の椅子に腰を下ろした。
机の端から端まで距離のある書斎の中で、随分近い。
近いのに、不思議と逃げたい感じはしなかった。
「……ミルフィ」
「はい」
「俺はお前のそういうところが好きだ」
「どういうところですか」
「ケーキを大事にして、定時を守って、書類を丁寧に読んで、理不尽なことには我慢できなくて、それでも普段はなるべく関わり合いを避けようとするところ」
「……それは長所なのか欠点なのか」
「全部含めて、好きだ」
私はしばらく、その言葉を受け取っていた。
ゆっくりと、殿下の大きな手が眼鏡に伸びてくる。
「……ありがとうございます」
「礼を言うことではない」
「でも、言いたくて」
いつかみたいな不意打ちではない。
逃げようと思えば逃げられるくらい、ゆっくりとした動きで、眼鏡が外される。
蝋燭の炎がまた揺れた。
書斎の中で、落ちた二人の影が、静かに重なる。
王宮の夜の音が、徐々に遠くなっていく。
どちらのものともわからないほど心臓が騒がしいまま、重なった影が離れた。
私はもう一度ペンを取る。
「少し仕事の続きをします」
「俺もする」
殿下はまた自分の机に戻った。
でも今度は、机の位置が少し近い。
そのことに私は気づいていたが、何も言わなかった。
ただ、書類に向かいながら、口元がゆるみそうになるのを必死に抑えていた。
抑えている時点で、もう十分に浮かれているのだと思うけれど。



