殿下が書記官室に昼食を食べに来るようになってから、一週間が過ぎた。
王宮の中も、さすがに少しずつ慣れてきたらしい。
「王太子殿下が北棟に行く」というのが、妙に日常の一部になりつつあった。
最初の頃は廊下がざわつき、誰も彼も落ち着かない顔で見てきたものだが、最近では「ああ、またか」という空気すら漂っている。
ただ、もう一つ、別の習慣も増えていた。
定時の鐘が鳴ると、殿下が書記官室の前に現れるのだ。
「行くか」
最初にそう言われた時は、本気で意味がわからなかった。
「どこにですか」
「ケーキ屋だ」
「……殿下が、ケーキ屋に?」
「お前が毎日行くと言っていた店に、一度行ってみたかった」
「……パティスリー・ルルンですか」
「そうだ」
「……王太子殿下が、王都の外れの小さなケーキ屋に行くんですか」
「護衛を二名連れていく。問題があるか」
「問題は特にないですが」
「ではいい」
そうして結局、私とリシャール殿下とラルフと護衛一名の計四人で、パティスリー・ルルンへ向かうことになった。
道中、殿下は特に緊張した様子もなく歩いていた。
いつもの調子で、当たり前のように歩いている。
私の方が、なんとなくそわそわしていた。
王都の外れの、こじんまりとした小路。
石畳の道に、木製の看板。
『Pâtisserie LuLun』と、フランス語——ではなく、この世界の古い書き言葉で書かれた看板が揺れている。
この店は、私にとってはもう完全に「いつもの場所」だった。
定時退勤して、歩いて、寄って、ひとつだけ買って帰る。
それだけで一日がちゃんと終わる、そういう大事な場所だ。
殿下はその看板をしばらく眺めてから、ドアに手をかけ、当然のように扉を開けてくれる。
こういう仕草は、やっぱりさすが王太子というべきなのだろう。
思わず見とれてしまってから、はっとする自分にも気づいて、少しだけ落ち着かなくなる。
店に入ると、女主人のルルンさんが振り返り、私を見てにっこり笑い、その隣の人物を見て固まった。
「……いらっしゃいませ」
「こんにちは、ルルンさん。今日も寄りました」
「……え、えっと……」
「ご心配なく。ただのお客さんです」
ただのお客さん、ではたぶん済まないのだが、ルルンさんは数秒で立ち直った。
さすが店を切り盛りしている人は強い。
「いらっしゃいませ。何になさいますか」
そう言って、いつも通りの笑顔で迎えてくれる。
ケースの中には、今日も十種類ほどのケーキが並んでいた。
苺のタルト、ガトーショコラ、季節の果物を使ったムース、焼き菓子、クリームたっぷりのシュー。
見慣れているはずなのに、何度見てもちょっと嬉しくなる。
殿下は一通り眺めてから、私に聞いた。
「どれが一番好きか」
「今日はガトーショコラと苺のタルトで迷っています」
「両方買え」
「え、でも一個が私の毎日の楽しみなので」
「二個食べれば楽しみが二倍になる」
「そういう計算ではないんです。一個であることに意味があって」
「そうか」
殿下は私の言葉を不思議そうに聞いていた。
たぶん、本気でわかっていないのだと思う。
でも、そのわからなさに馬鹿にした感じがないのが、この人らしい。
それから「では俺は何を頼めばいいか」と聞いてきた。
「殿下の好みはなんですか」
「わからない。あまりケーキを選んだことがない」
「では、ガトーショコラをおすすめします。苦みと甘みのバランスが良くて、初めての方にも食べやすいです」
「では、それを」
ルルンさんが二つ、箱に詰めてくれた。
代金を出そうとしたら、殿下がさっと先に払う。
「私の分は私で」
「俺が来ると言ったから、俺が出す。何より君は俺の婚約者だ」
「……ありがとうございます」
そういうことを、少しもためらわずに言う。
しかも店の人の前で、自然に。
私はもう今さら驚かないようにしようと思っていたのに、やっぱり少しだけ気恥ずかしかった。
店を出て、近くの広場の石段に腰を下ろして食べることになった。
護衛の二人は、適切な距離を保って立っている。
ラルフは完全に慣れた顔をしていた。もう何を見ても動じないつもりらしい。
殿下はガトーショコラを一口食べて、少し黙った。
「……どうですか」
「美味い」
「でしょう?」
「なるほど、お前が毎日来る理由がわかった」
「でしょう?」
「これは……確かに、気分が落ち着く」
満足そうに言った殿下を見て、私は嬉しくなった。
自分の好きなものを「美味い」と言ってもらえるのが、こんなに嬉しいとは思っていなかった。
「ルルンさんのケーキは、素材がいいんです。バターも卵も、いいものを使っているって、食べるとわかります」
「詳しいな」
「好きなものには詳しくなります」
「そうか。書類は?」
「……書類も詳しいですよ。好きですから」
「お前が好きなものは、ケーキと書類か」
「はい。あと、静かな場所も好きです」
「静かな場所」
「書庫みたいな、薄暗くて静かな場所。落ち着くんです」
「あんな黴臭い場所が?」
「静けさの種類がいいんです。外の騒音が届かない感じが」
殿下はそれを聞いて、少し考えてから言った。
「西棟に、普段は使っていない書斎がある。静かで、書物が多くて、採光もいい。お前が気に入りそうな場所だ」
「……それは、私が使っていいという話ですか?」
「使えばいい。鍵を渡す」
「……ありがとうございます」
「俺もたまに使う。その時に会えれば、話し相手になってくれ」
「書類の話でもよければ」
「書類でなくてもいい」
その言い方が、妙に自然だった。
私がそこにいることを、もう前提みたいに言う。
夕陽が傾き、石畳が橙色に染まっていた。
二人並んでしばらく、黙ってケーキを食べる。
変な状況だと思う。
王太子殿下と並んで、石段に座って、王都の外れの路地でケーキを食べている。
前世の私に話したら、まず信じないだろう。
でも、不思議と居心地は悪くなかった。
書庫の静けさとはまた違う、落ち着き方だった。
誰かと一緒にいて落ち着く、という感覚を、私はあまりよく知らない。
だからこそ、余計に少しだけ不思議だった。
「……来週も来ますか」
「来てもいいか」
「ルルンさんが喜びます。あと私も」
「……そうか。では来週も来よう」
殿下の声が、少し柔らかかった。
こうして、「定時退勤してケーキ屋に寄る」という私の習慣に、殿下がついてくることが定番になった。
ラルフは最初の二週間で慣れ、護衛たちは一週間で慣れ、ルルンさんは三日で慣れた。
一番慣れるのが遅かったのは、たぶん私だった。
王宮の中も、さすがに少しずつ慣れてきたらしい。
「王太子殿下が北棟に行く」というのが、妙に日常の一部になりつつあった。
最初の頃は廊下がざわつき、誰も彼も落ち着かない顔で見てきたものだが、最近では「ああ、またか」という空気すら漂っている。
ただ、もう一つ、別の習慣も増えていた。
定時の鐘が鳴ると、殿下が書記官室の前に現れるのだ。
「行くか」
最初にそう言われた時は、本気で意味がわからなかった。
「どこにですか」
「ケーキ屋だ」
「……殿下が、ケーキ屋に?」
「お前が毎日行くと言っていた店に、一度行ってみたかった」
「……パティスリー・ルルンですか」
「そうだ」
「……王太子殿下が、王都の外れの小さなケーキ屋に行くんですか」
「護衛を二名連れていく。問題があるか」
「問題は特にないですが」
「ではいい」
そうして結局、私とリシャール殿下とラルフと護衛一名の計四人で、パティスリー・ルルンへ向かうことになった。
道中、殿下は特に緊張した様子もなく歩いていた。
いつもの調子で、当たり前のように歩いている。
私の方が、なんとなくそわそわしていた。
王都の外れの、こじんまりとした小路。
石畳の道に、木製の看板。
『Pâtisserie LuLun』と、フランス語——ではなく、この世界の古い書き言葉で書かれた看板が揺れている。
この店は、私にとってはもう完全に「いつもの場所」だった。
定時退勤して、歩いて、寄って、ひとつだけ買って帰る。
それだけで一日がちゃんと終わる、そういう大事な場所だ。
殿下はその看板をしばらく眺めてから、ドアに手をかけ、当然のように扉を開けてくれる。
こういう仕草は、やっぱりさすが王太子というべきなのだろう。
思わず見とれてしまってから、はっとする自分にも気づいて、少しだけ落ち着かなくなる。
店に入ると、女主人のルルンさんが振り返り、私を見てにっこり笑い、その隣の人物を見て固まった。
「……いらっしゃいませ」
「こんにちは、ルルンさん。今日も寄りました」
「……え、えっと……」
「ご心配なく。ただのお客さんです」
ただのお客さん、ではたぶん済まないのだが、ルルンさんは数秒で立ち直った。
さすが店を切り盛りしている人は強い。
「いらっしゃいませ。何になさいますか」
そう言って、いつも通りの笑顔で迎えてくれる。
ケースの中には、今日も十種類ほどのケーキが並んでいた。
苺のタルト、ガトーショコラ、季節の果物を使ったムース、焼き菓子、クリームたっぷりのシュー。
見慣れているはずなのに、何度見てもちょっと嬉しくなる。
殿下は一通り眺めてから、私に聞いた。
「どれが一番好きか」
「今日はガトーショコラと苺のタルトで迷っています」
「両方買え」
「え、でも一個が私の毎日の楽しみなので」
「二個食べれば楽しみが二倍になる」
「そういう計算ではないんです。一個であることに意味があって」
「そうか」
殿下は私の言葉を不思議そうに聞いていた。
たぶん、本気でわかっていないのだと思う。
でも、そのわからなさに馬鹿にした感じがないのが、この人らしい。
それから「では俺は何を頼めばいいか」と聞いてきた。
「殿下の好みはなんですか」
「わからない。あまりケーキを選んだことがない」
「では、ガトーショコラをおすすめします。苦みと甘みのバランスが良くて、初めての方にも食べやすいです」
「では、それを」
ルルンさんが二つ、箱に詰めてくれた。
代金を出そうとしたら、殿下がさっと先に払う。
「私の分は私で」
「俺が来ると言ったから、俺が出す。何より君は俺の婚約者だ」
「……ありがとうございます」
そういうことを、少しもためらわずに言う。
しかも店の人の前で、自然に。
私はもう今さら驚かないようにしようと思っていたのに、やっぱり少しだけ気恥ずかしかった。
店を出て、近くの広場の石段に腰を下ろして食べることになった。
護衛の二人は、適切な距離を保って立っている。
ラルフは完全に慣れた顔をしていた。もう何を見ても動じないつもりらしい。
殿下はガトーショコラを一口食べて、少し黙った。
「……どうですか」
「美味い」
「でしょう?」
「なるほど、お前が毎日来る理由がわかった」
「でしょう?」
「これは……確かに、気分が落ち着く」
満足そうに言った殿下を見て、私は嬉しくなった。
自分の好きなものを「美味い」と言ってもらえるのが、こんなに嬉しいとは思っていなかった。
「ルルンさんのケーキは、素材がいいんです。バターも卵も、いいものを使っているって、食べるとわかります」
「詳しいな」
「好きなものには詳しくなります」
「そうか。書類は?」
「……書類も詳しいですよ。好きですから」
「お前が好きなものは、ケーキと書類か」
「はい。あと、静かな場所も好きです」
「静かな場所」
「書庫みたいな、薄暗くて静かな場所。落ち着くんです」
「あんな黴臭い場所が?」
「静けさの種類がいいんです。外の騒音が届かない感じが」
殿下はそれを聞いて、少し考えてから言った。
「西棟に、普段は使っていない書斎がある。静かで、書物が多くて、採光もいい。お前が気に入りそうな場所だ」
「……それは、私が使っていいという話ですか?」
「使えばいい。鍵を渡す」
「……ありがとうございます」
「俺もたまに使う。その時に会えれば、話し相手になってくれ」
「書類の話でもよければ」
「書類でなくてもいい」
その言い方が、妙に自然だった。
私がそこにいることを、もう前提みたいに言う。
夕陽が傾き、石畳が橙色に染まっていた。
二人並んでしばらく、黙ってケーキを食べる。
変な状況だと思う。
王太子殿下と並んで、石段に座って、王都の外れの路地でケーキを食べている。
前世の私に話したら、まず信じないだろう。
でも、不思議と居心地は悪くなかった。
書庫の静けさとはまた違う、落ち着き方だった。
誰かと一緒にいて落ち着く、という感覚を、私はあまりよく知らない。
だからこそ、余計に少しだけ不思議だった。
「……来週も来ますか」
「来てもいいか」
「ルルンさんが喜びます。あと私も」
「……そうか。では来週も来よう」
殿下の声が、少し柔らかかった。
こうして、「定時退勤してケーキ屋に寄る」という私の習慣に、殿下がついてくることが定番になった。
ラルフは最初の二週間で慣れ、護衛たちは一週間で慣れ、ルルンさんは三日で慣れた。
一番慣れるのが遅かったのは、たぶん私だった。



