定刻の鐘と、ケーキと、王太子と~前世は検察事務官。断罪を止めたら、恋人役のはずが本物の婚約者になりました~

正式な筆跡鑑定が出たのは、三日後だった。
鑑定結果は「本物である可能性が極めて高い」というものだった。

それと同時に、殿下の外部調査団が、ボルゲン商会の倉庫から、さらに決定的な証拠を確保してきた。

商会の帳簿だ。
表向きの帳簿ではない。隠されていた『裏帳簿』である。
そこには、ドレイク宰相との取引の全てが、金額も日時も相手方の名前も含めて、克明に記されていた。

「……これは完璧な証拠ですね」

私は帳簿を見ながら言った。
思わず声が低くなる。ここまで揃ってしまえば、もう言い逃れの余地はかなり狭い。

「ああ」
「前世の基準でも、これは起訴できます。十分すぎます」
「この国の法制度でも同じだ。司法担当の文官も、訴追可能と判断した」
「では、国王陛下への報告は」
「明日だ」

殿下は書類を丁寧にまとめた。
その手つきは落ち着いていたが、ここまで辿り着くまでに払った手間と時間を思えば、内心では少なからず張り詰めているのだろうと思う。

「父王への報告には、俺が全て同席する。この書類のまとめを、最終的に確認してくれるか」
「はい。やります」

私たちはその夜、証拠書類の最終確認をした。
机を挟んで向かい合い、書類を一枚ずつ確認していく。
順番、綴じ、注記、押印、照合済みの印。
ひとつでも抜けがあれば、相手にそこを突かれる。だから最後の最後まで気は抜けない。

深夜に近い時間だったが、不思議と眠くはならなかった。

書類を確認するたびに、ここまでの日々が頭をよぎる。
書庫の黴臭い空気。欠落した記録の規則性。
音楽会の夜と宰相の目。
殿下の「お前と話すのは楽しい」という言葉。

「……全部確認しました。問題ありません」
「よかった」

殿下は書類の束を揃え、机の端に置いた。

「ミルフィ」
「はい」
「ここまで本当に助かった」

今日は『ありがとう』ではなく、『助かった』だった。
その方が、なんとなく実感のある言葉に聞こえた。
きれいに整えた礼ではなく、本音がそのまま出たような響きだったからかもしれない。

「私も、やりがいがありました」
「そうか」
「前世の経験が、こういう形で使えるとは思っていなかったので。ちょっと、面白かったです」
「また似たような仕事があれば頼んでいいか」
「……定時退勤を守っていただけるなら」
「守る」
「では、また機会があれば」

殿下は立ち上がり、窓の外へ目を向けた。

「明日、父王への報告が済めば、ドレイクの件は一段落する。その後の処分については、正式に動いていくことになる」
「そうですね」
「お前の役割も——」
「終わりですね」

私は先に言った。

「恋人のふりも、証拠集めも、全部終わりです。また書記官室に戻ります」
「……そうだな」

殿下の返事が、少し短い気がした。
気のせいかもしれない。でも、気のせいにしてしまうには、ほんのわずかに間があった。

「楽しかったですよ、この数週間」
「……楽しかったか」
「はい。大変でしたけど、楽しかったです。前世の記憶がよみがえってから、一番充実していた気がします」
「そうか」
「殿下は……終わったら、どうされますか」
「どういう意味だ」
「この件が片付いても、まだいろいろとお忙しいですよね。王国の政治というのは」
「ああ」
「お体に気をつけてください。ちゃんと食事もとって、ケーキも食べてください」
「……ケーキ、か」
「甘いものは気持ちが落ち着きますから。頭を使うのに糖分は必要ですし。殿下も、食べてみるといいですよ」
「お前はそれで全て解決できると思っているのか」
「全てとは言いません。でも、けっこう解決します」

殿下は私を見て、短く笑った。

「わかった。心がけよう」
「では、帰ります。明日の報告、頑張ってください」
「……ミルフィ」
「はい」
「一つ、聞いてもいいか」
「どうぞ」
「この件が終わって、お前が書記官室に戻った後も、時々話しかけに行っていいか」

私は少し驚いた。

「……仕事上の話でしたら、いつでも」
「仕事ではなく」
「……え」
「ただ話をしに行くだけだ。問題があるか」
「いえ、その、問題というわけでは」
「では、いいか」
「……はい」
「よかった」

殿下は満足そうに頷き、「今日は遅いから送る」と言った。

書類を抱えて立ち上がりながら、私はなんとなく不思議な気持ちでいた。
この件が終わったら、時々話しに来る、か。

それは——いわゆる『終わり』なのか、それとも別の何かの始まりなのか。
私にはまだ判断がつかなかった。
ただ、「問題があるか」と聞かれた時に、一切問題ないと思ったことだけは、妙にはっきりしていた。