定刻の鐘と、ケーキと、王太子と~前世は検察事務官。断罪を止めたら、恋人役のはずが本物の婚約者になりました~

音楽会から十日ほどが経った、ある午後のことだ。
いつも通り書庫に籠もって作業していたところ、リシャール殿下の使いが、青い顔をして駆け込んできた。

「ベルラン書記官! 殿下が、すぐに来てほしいと」
「どうしたんですか」
「ボルゲン商会の関係者が、自白しました」

私は手にしていた書類を置き、すぐに立ち上がった。
執務室へ急ぐと、リシャール殿下が、私のほかに三名の男性と話し合っていた。

一人は司法を担当する文官。
一人は、私が名前だけ知っている調査担当の騎士。
もう一人は見知らぬ人物だったが、旅装をしているところを見ると、外から戻ったばかりなのだろう。

「来たか。座れ」

殿下は短くそう言って、私に椅子を示した。

「ボルゲン商会の副頭目が、保護と引き換えに情報提供を申し出た」

私は座りながら、一連の説明を聞いた。
要するに——。

ボルゲン商会内部で、宰相との不正取引に関わっていた人物の一人が、身の危険を感じて殿下側に接触してきたのだ。
この人物が持っているのは、ドレイク宰相直筆の書状だという。

「書状の内容は」
「ドレイクがボルゲン商会に対して、特定の物資の横流しと帳簿の操作を指示したと読める内容だ。加えて、見返りとしての報酬の金額まで記されている」
「それは……決定的ですね」
「ただし問題がある」
「はい」
「書状が本物かどうかの確認が必要だ。内部の人間が偽造した可能性も排除できない」
「筆跡鑑定ですね」
「ああ。専門の鑑定士に依頼することもできるが、時間がかかる。お前は……」

そこで殿下は私を見た。

「ドレイクの筆跡を、これまでの書類調査で確認していたか」
「……宰相直筆の書類が手元に何点かあります。過去の公式書簡の写しです」
「照合できるか」
「完全な確証を出すには専門家が必要ですが、初期分析での判断であれば、今すぐできます」
「それでまず確認してくれ」

書状が持ち込まれた。
私は書庫から引っ張り出してきた過去の写しと並べて、じっくり見比べる。

筆跡の比較は、一見単純に見えて案外難しい。
人間の筆跡は、状況や気分で変わるし、書く速度でも変化する。
線が硬くなったり、逆に崩れたりもする。

でも、変わらない部分もある。
特定の文字の書き方の癖。ハネとはらいの角度。句点の位置。
力を入れる場所と抜く場所。そういう細部には、その人の手癖が残る。

私は時間をかけて、丁寧に照合した。
部屋の中の空気が静まり、誰も口を挟まない。
紙をめくる音だけが、小さく響いていた。

「……一致していると思います」
「確信はあるか」
「あくまで初期分析の判断ですので、確信とは言いにくいですが、私が見る限り、不自然な点が見当たりません。特にドレイク宰相の署名、『R』の字の書き方に特徴的な癖があるのですが、それが書状にも同じ形で現れています」
「専門家の鑑定でも同じ結論が出る可能性は高いか」
「高いと思います」

殿下は司法担当の文官と短く言葉を交わし、正式な鑑定を急ぎで依頼することを決めた。

「これで、証拠はほぼ揃った」

殿下は室内の全員に向かって言った。

「あとは正式な鑑定が終わり次第、父王に全てを報告する。その段取りを今から詰める」

議論が始まった。
私はその輪の少し外側に座りながら、必要な書類のまとめを続ける。

……これで、終わりが見えてきた。
始まりは、夜会の廊下でのぶつかりからだ。そこから、まだわずか数週間しか経っていない。

書庫に籠もって、書類を読み続けて、少しずつ積み上げてきた証拠が、ようやくここで一点に集まり始めている。
なんとなく、感慨めいたものがあった。

前世でも、こういう瞬間があった。
長い捜査のあと、証拠が揃ったとわかった瞬間。
あの時の感覚と、今の感覚が、静かに重なっていく。

「ミルフィ」

声がして顔を上げると、いつの間にか部屋の他の人間は出て行っていて、殿下と二人きりになっていた。

「……いつからお一人だったんですか」
「さっきから。お前が書類に集中していて気づかなかったようだったので、声はかけなかった」
「すみません。仕事に入り込む癖があって」
「いや、集中できるのはいいことだ」

殿下は私の向かいに椅子を引き、静かに腰を下ろした。

「お前のおかげで、ここまで来られた」
「私は書類を読んだだけです。殿下や他の方々が外で動いてくれた結果です」
「書類がなければ、外の動きも意味がなかった」

私は手元の書類を揃えて、机の端に置いた。

「……殿下。証拠が全部揃ったら、私の役目は終わりですよね」
「……そうだ」
「恋人のふりも、その時点で終わり、ということですね」
「……ああ」

殿下の返事は短かった。
でも、ほんの少しだけ間を置いた気がした。
そのわずかな沈黙が、妙にまだ胸の奥へ引っかかった。

「わかりました。その後は、また書記官室に戻ります」
「そうだな」
「ケーキのことは覚えておいてくださいね」
「……覚えている」

殿下はしばらく、じっと私を見ていた。

「……なにかありましたか?」
「いや」
「顔に、なにか書いてあるような表情をされていましたが」
「そういうことはない」

殿下は立ち上がり、窓の外へ視線を向けた。

「正式な鑑定が出るのは二、三日後だ。それまでの間は、引き続き頼む」
「はい」
「……それと」
「はい?」
「今夜は遅くなったから、送る」
「あ、大丈夫です。もう慣れてきましたし」
「だから送ると言っている」
「…………」

私は荷物をまとめながら、なんとなく不思議に思った。
この人はいつも、「それくらいしておかないと恋人らしくない」という理由で送ってくれる。
けれど、こんな時間に廊下に人影もないのに、いったい誰に見せるつもりなのだろう。
まあ、安全のためというのも本当なのだろうし、断る理由もないのだけれど。

二人並んで廊下を歩く。
夜の廊下は静かだった。
足音と、遠くに聞こえる宮殿警備の足音だけが、規則正しく響いている。
昼間の王宮とは別の建物みたいで、こういう時間の静けさは少しだけ好きだった。

「一つ聞いていいか」
「はい」
「この件が全部終わった後、書記官の仕事を続けるつもりか」
「はい。他に特段したいことも思いつきませんので」
「ずっと?」
「……まあ、ずっと、になりますかね。王宮書記官というのは、比較的安定した仕事ですし」
「そうか」
「……殿下は、どうして聞くんですか」
「なんとなく」
「なんとなく、ですか」
「お前の今後が、少し気になった」
「私は大丈夫ですよ。定時に帰って、ケーキを食べて、穏やかに生きます」
「……それで十分か?」

意味深な問い方だと思った。

「十分です。私はそれで幸せですから」
「そうか」

正門が見えてきた。

「……でも、この件に関わって、少し考え方が変わった部分もあります」
「どういう意味だ」
「定時退勤とケーキが大事なのは変わらないんですが、それだけじゃなくて、たまにはこういう……証拠を積み上げて、何かを解決するような仕事も悪くないと思いました」
「悪くない、か」
「はい。前世の仕事が、こんな形で役に立つとは思っていなかったので。少し面白かったです」

正門の手前で私が足を止めると、殿下も止まった。

「ミルフィ」
「はい」

殿下の視線が、まっすぐこちらへ向く。
夜の光の中で、青灰色の目が静かに、けれど逸らさずこちらを見ていた。

「お前と話すのは、楽しい」
「…………えっ」

予想外の言葉に、私はその場で固まった。

「お前は正直だ。余分な世辞を言わない。書類の話ができる。話していて疲れない」
「そ、それは……どうもありがとうございます」
「それだけだ」
「……はあ」
「おやすみ、ミルフィ」
「…………おやすみなさい、リシャール」

今日から名前で、と言われていたことを、ここで初めてちゃんと使えた気がした。

殿下は一度だけこちらを振り返ってから、王宮の方へ戻っていった。
私はしばらく、正門の前に立ち尽くしていた。

胸の中が、なんとなく騒がしい。
定時退勤とケーキが人生だった私の、穏やかな胸の中が、落ち着かないくらいにざわついている。

……仕事だ。仕事の付き合いの中での、普通の言葉だ。

そう自分に言い聞かせる。
念押しは四回目になっていた。

それなのに、四回目でも騒がしさは全然収まらなかった。
困ったことに、まったく少しも。