書庫作業を始めて一週間が過ぎた頃、新たな展開があった。
殿下の外回りの調査で、ボルゲン商会の倉庫から、王宮の物資として記録されているはずの品が見つかったのだ。
「記録上は二年前に納品済みとなっている食料備蓄品が、まるごと倉庫に眠っていた」
殿下は私に、地図と報告書を並べて見せた。
「つまり、記録だけ偽造して実際には納品せず、商品と代金の両方を横取りしていた、ということですか」
「そういうことになる。問題は、この発見をどう証拠として固めるかだ。現在、倉庫は押さえているが、ドレイクが動く前に手を打ちたい」
「その倉庫の物品と、王宮の記録を照合する書類が必要ですね」
「そうだ。お前に確認してほしいのは、その照合だ。王宮の記録にある品目と数量、それから倉庫に実際にあった品目と数量を比較して、完全に一致していることを文書化してほしい」
「書庫の記録と、倉庫の実地調査記録を突き合わせる作業ですね。私一人でできます」
「頼む。ただ——急を要する」
「どのくらいですか」
「三日以内に」
私は少しだけ考えた。
「通常業務の方は」
「免除する」
「定時は守れますか」
「……できる限り」
「わかりました」
そこで曖昧に濁されるあたりに一抹の不安はあったが、今は突っ込まないことにする。
どうせ、やるしかないのだ。
そこから三日間、私は書庫と王宮文書管理局を行き来しながら、比較照合の作業を続けた。
仕事量は普段の三倍近くあった。
でも、不思議と嫌ではなかった。
証拠が積み上がっていくのが、目に見えてわかるからだ。
品目、数量、記録日付、署名。
ひとつひとつを突き合わせ、「記録上は存在しているが、実際には納品されていない」物品の一覧を作っていく。
最終的に、そのリストは四十七品目に及んだ。
総額にすると、王国の年間食料調達費のおよそ四割に相当する。
「……これは、相当な……」
私は作業の最終日、出来上がった書類を見ながら呟いた。
さすがに少し、指先が冷える。
「七年間で積み上げた額だ」
いつの間にか、殿下が入り口に立っていた。
「この書類は使えるか」
「書類としては、十分だと思います。ただ、実際に法的に機能するかどうかは、この国の法制度次第ですので、私には断言できません」
「法的な部分は別の専門家が確認する。お前の役目は書類の精度を保証することだ」
「それであれば、この書類は確かです。誤りがないことは私が保証します」
殿下は書類を手に取り、しばらく黙って読んでいた。
そして、低く息を吐く。
「……よくやってくれた」
「お役に立てたならよかったです」
「ずいぶんと飄々としているな」
「前世でも似たような仕事は何度もしましたので」
「そうか」
殿下は書類を丁寧に重ねた。
その手つきに、これを本当に使うつもりなのだという重みがある。
「これで、ドレイクの不正の大枠は証明できる。あとは、決定的な一手が必要だ」
「決定的な一手?」
「ドレイクがボルゲン商会に直接関与していることを証明する証拠だ。現状、書類の改竄やシア文書主任との連携は追えているが、ドレイク本人が直接指示した証拠が弱い」
「……それは確かに。書類改竄の命令系統は証拠にしづらいですね。口頭の指示なら記録が残りませんから」
「だから、もう一手必要になる」
殿下は私を見た。
「実は、二日前から新しい情報が入っている」
「はい」
「ドレイクが、私への婚約話を本格的に動かし始めている」
私はぴたりと手を止めた。
「……具体的には?」
「宰相令嬢、イリス・ドレイクとの縁組みを、父王に正式に申し入れる準備を進めているらしい。時期は来月中を目途に、と」
「それは、思ったより早いですね」
「ああ。ジュリアンの件で宰相の計画が一部崩れたため、焦っているのかもしれない」
「エリーン令嬢への謀略がうまくいけば、ヴァンドール公爵家を弱体化させて、その後に殿下の婚約を強行するつもりだったのでしょうか」
「おそらく。ジュリアンは駒として使われた。そしてジュリアンの件が失敗した今、ドレイクは次の手を急いでいる」
「……殿下がドレイク宰相の令嬢と婚約してしまうと、調査に支障が出ますか?」
「支障が出るどころではない。ドレイクの義理の息子になった状態で、ドレイクの不正を訴えるのは政治的に不可能だ」
「なるほど」
「だから、婚約を阻止する必要がある」
「はあ」
「そのために、一つ頼みたいことがある」
殿下の声の調子が、そこで少しだけ変わった。
何かを予感して、私はわずかに身構える。
「……なんでしょう」
「俺の恋人のふりをしてもらいたい」
一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。
「……はい?」
「婚約の打診を牽制するためだ。私にすでに想う相手がいると周囲に認識させれば、ドレイクも強引には進めにくくなる」
「それは、理屈としてはわかりますが」
「嫌か」
「嫌というか……驚いています」
「そうだろうな」
殿下は落ち着いた顔のままだった。
でも、私の心臓はさっきまでの書類仕事とは別の意味で、少しだけ落ち着きを失っていた。
書庫の中が、しん、と静まり返った。
「…………」
三秒ほど、本気で処理が追いつかなかった。
「は?えと、恋人の、ふり?」
「ああ」
「……それは」
「既に婚約に近い状態の相手がいると見せることで、ドレイクの令嬢との縁組みを、父王への申し入れの前に牽制できる。相手が俺の意志で選んだ女性であることが明確であれば、父王も無理には進めない」
私はぱちぱちと瞬きをした。
言っている理屈そのものは、わからなくもない。わからなくもないのだが、問題はそこではない。
「いや、でも、私は書記官ですよ。身分的に殿下の婚約者などとは」
「恋人のふりと言った。婚約者ではない」
「それでも、貴族でもない書記官が恋人というのは」
「むしろそれでいい。ドレイクの令嬢との婚約を阻止するための方便として、貴族社会に『殿下には既に意中の人がいる』という印象を作りたいだけだ。完璧な立場の女性である必要はない。俺が自分の意志で選んだという事実が大切なんだ」
……理屈はわかる。
でも、わかったからといって、はいそうですかと頷ける話でもない。
「……理屈はわかります」
「何か問題か?」
「……その、私でいいのかというのが一点と、これが公になった場合の私への影響というのが一点と」
「公の場での影響については、私が責任を持つ。身分については、一時的に何らかの形を取る。それから——」
殿下はそこで少し間を置いた。
「お前を選んだのは、理由がある」
「…………」
「第一に、書類調査の過程でお前の信頼性は十分に確かめた。秘密を守れる人間だと判断している。第二に、エリーン令嬢の件で王宮内ではある程度知られた顔になっている。突然どこからともなく現れた女ではない」
「それは、まあ、確かに?」
「そして第三に」
殿下は真っすぐに私を見た。
「お前は嘘をつくのが下手そうだから、ふりをしてもらうより、自然体でいてもらった方が説得力が出ると判断した」
「……それは褒められているんでしょうか」
「褒めている」
まあ、確かに私は嘘をつくのが得意ではない。
前世でも今世でも、嘘をついてもすぐ顔に出ると言われてきた。
「そして第四に」
立ち上がった殿下が近づいてきた、と思った次の瞬間、おもむろに私の眼鏡へ手を伸ばした。
「あっ!?」
「この眼鏡。外すとなかなか、貴族の令嬢と遜色ない」
「ちょっ!?」
何をしているの、この人は。
とてもじゃないけれど、正気だとは思えない。
眼鏡を取り返そうとすると、はるか頭上高くに持ち上げられて届かない。
「返してください!」
「要求を聞いてくれるなら、すぐにでも」
「子ども相手みたいなことをしないでください!」
そう言いながら、今度は勝手に自分で眼鏡をかけ始める始末だ。
いくらなんでも、殿下の顔に手を伸ばして眼鏡を奪い返すのは憚られ、私は手を引かざるを得ない。
「なんだ。思ったほど度は入っていないんだな」
「……期間はどのくらいですか」
「ドレイクの不正を公式に訴えるまでの間だ。証拠が整い次第、動く。早ければ一月、長くても二か月だろう」
「その間、具体的にどんなことを」
「公の場に同席してもらう機会が何度かある。それと、宰相側が接触してくる可能性があるため、俺の近くにいてもらう時間も増える」
「……具体的に聞くほど現実感が出てきて、少し怖いんですが」
「断ってもいい」
殿下ははっきりと言った。
「これは強制ではない。断った場合は別の方法を考える。ただ、時間的な余裕は減る」
「…………」
私はしばらく考えた。
書庫の薄明かりの中で、目の前の書類の山を見る。
七年分の不正。積み上げられた証拠の断片。
エリーン令嬢の震える肩。
前世の、理不尽な死。
ここで引き下がったら、また誰かが理不尽な目に遭うかもしれない。
でも、そもそも私は一書記官だ。
こんなことに関わるべき人間ではない。
関われば、たぶん面倒なことになる。かなりの確率で。
「……ひとつ、条件があります」
「言え」
「定時退勤を基本的に守ること。どうしても難しい場合は、前日に教えてください」
「わかった」
「それから——」
私は一息ついた。
「この件が全部終わったら、言っていたケーキを本当に用意してください」
「……もちろんだ」
「予約待ち一年のホールケーキ、ですよ」
「ホールケーキだ。約束する」
殿下は即答した。
そこだけ妙に迷いがない。
「…………わかりました」
私は深呼吸した。
たぶん、これでまた面倒なことになる。
でも、ここまで来たら、もう見ないふりはできない。
「お引き受けします。精一杯、ふりをします」
殿下はゆっくりと頷いた。
「よかった」
その一言が、なんとなく満足そうに聞こえた気がした。
それが少しだけ悔しくて、私はようやく返してもらった眼鏡をかけ直した。
殿下の外回りの調査で、ボルゲン商会の倉庫から、王宮の物資として記録されているはずの品が見つかったのだ。
「記録上は二年前に納品済みとなっている食料備蓄品が、まるごと倉庫に眠っていた」
殿下は私に、地図と報告書を並べて見せた。
「つまり、記録だけ偽造して実際には納品せず、商品と代金の両方を横取りしていた、ということですか」
「そういうことになる。問題は、この発見をどう証拠として固めるかだ。現在、倉庫は押さえているが、ドレイクが動く前に手を打ちたい」
「その倉庫の物品と、王宮の記録を照合する書類が必要ですね」
「そうだ。お前に確認してほしいのは、その照合だ。王宮の記録にある品目と数量、それから倉庫に実際にあった品目と数量を比較して、完全に一致していることを文書化してほしい」
「書庫の記録と、倉庫の実地調査記録を突き合わせる作業ですね。私一人でできます」
「頼む。ただ——急を要する」
「どのくらいですか」
「三日以内に」
私は少しだけ考えた。
「通常業務の方は」
「免除する」
「定時は守れますか」
「……できる限り」
「わかりました」
そこで曖昧に濁されるあたりに一抹の不安はあったが、今は突っ込まないことにする。
どうせ、やるしかないのだ。
そこから三日間、私は書庫と王宮文書管理局を行き来しながら、比較照合の作業を続けた。
仕事量は普段の三倍近くあった。
でも、不思議と嫌ではなかった。
証拠が積み上がっていくのが、目に見えてわかるからだ。
品目、数量、記録日付、署名。
ひとつひとつを突き合わせ、「記録上は存在しているが、実際には納品されていない」物品の一覧を作っていく。
最終的に、そのリストは四十七品目に及んだ。
総額にすると、王国の年間食料調達費のおよそ四割に相当する。
「……これは、相当な……」
私は作業の最終日、出来上がった書類を見ながら呟いた。
さすがに少し、指先が冷える。
「七年間で積み上げた額だ」
いつの間にか、殿下が入り口に立っていた。
「この書類は使えるか」
「書類としては、十分だと思います。ただ、実際に法的に機能するかどうかは、この国の法制度次第ですので、私には断言できません」
「法的な部分は別の専門家が確認する。お前の役目は書類の精度を保証することだ」
「それであれば、この書類は確かです。誤りがないことは私が保証します」
殿下は書類を手に取り、しばらく黙って読んでいた。
そして、低く息を吐く。
「……よくやってくれた」
「お役に立てたならよかったです」
「ずいぶんと飄々としているな」
「前世でも似たような仕事は何度もしましたので」
「そうか」
殿下は書類を丁寧に重ねた。
その手つきに、これを本当に使うつもりなのだという重みがある。
「これで、ドレイクの不正の大枠は証明できる。あとは、決定的な一手が必要だ」
「決定的な一手?」
「ドレイクがボルゲン商会に直接関与していることを証明する証拠だ。現状、書類の改竄やシア文書主任との連携は追えているが、ドレイク本人が直接指示した証拠が弱い」
「……それは確かに。書類改竄の命令系統は証拠にしづらいですね。口頭の指示なら記録が残りませんから」
「だから、もう一手必要になる」
殿下は私を見た。
「実は、二日前から新しい情報が入っている」
「はい」
「ドレイクが、私への婚約話を本格的に動かし始めている」
私はぴたりと手を止めた。
「……具体的には?」
「宰相令嬢、イリス・ドレイクとの縁組みを、父王に正式に申し入れる準備を進めているらしい。時期は来月中を目途に、と」
「それは、思ったより早いですね」
「ああ。ジュリアンの件で宰相の計画が一部崩れたため、焦っているのかもしれない」
「エリーン令嬢への謀略がうまくいけば、ヴァンドール公爵家を弱体化させて、その後に殿下の婚約を強行するつもりだったのでしょうか」
「おそらく。ジュリアンは駒として使われた。そしてジュリアンの件が失敗した今、ドレイクは次の手を急いでいる」
「……殿下がドレイク宰相の令嬢と婚約してしまうと、調査に支障が出ますか?」
「支障が出るどころではない。ドレイクの義理の息子になった状態で、ドレイクの不正を訴えるのは政治的に不可能だ」
「なるほど」
「だから、婚約を阻止する必要がある」
「はあ」
「そのために、一つ頼みたいことがある」
殿下の声の調子が、そこで少しだけ変わった。
何かを予感して、私はわずかに身構える。
「……なんでしょう」
「俺の恋人のふりをしてもらいたい」
一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。
「……はい?」
「婚約の打診を牽制するためだ。私にすでに想う相手がいると周囲に認識させれば、ドレイクも強引には進めにくくなる」
「それは、理屈としてはわかりますが」
「嫌か」
「嫌というか……驚いています」
「そうだろうな」
殿下は落ち着いた顔のままだった。
でも、私の心臓はさっきまでの書類仕事とは別の意味で、少しだけ落ち着きを失っていた。
書庫の中が、しん、と静まり返った。
「…………」
三秒ほど、本気で処理が追いつかなかった。
「は?えと、恋人の、ふり?」
「ああ」
「……それは」
「既に婚約に近い状態の相手がいると見せることで、ドレイクの令嬢との縁組みを、父王への申し入れの前に牽制できる。相手が俺の意志で選んだ女性であることが明確であれば、父王も無理には進めない」
私はぱちぱちと瞬きをした。
言っている理屈そのものは、わからなくもない。わからなくもないのだが、問題はそこではない。
「いや、でも、私は書記官ですよ。身分的に殿下の婚約者などとは」
「恋人のふりと言った。婚約者ではない」
「それでも、貴族でもない書記官が恋人というのは」
「むしろそれでいい。ドレイクの令嬢との婚約を阻止するための方便として、貴族社会に『殿下には既に意中の人がいる』という印象を作りたいだけだ。完璧な立場の女性である必要はない。俺が自分の意志で選んだという事実が大切なんだ」
……理屈はわかる。
でも、わかったからといって、はいそうですかと頷ける話でもない。
「……理屈はわかります」
「何か問題か?」
「……その、私でいいのかというのが一点と、これが公になった場合の私への影響というのが一点と」
「公の場での影響については、私が責任を持つ。身分については、一時的に何らかの形を取る。それから——」
殿下はそこで少し間を置いた。
「お前を選んだのは、理由がある」
「…………」
「第一に、書類調査の過程でお前の信頼性は十分に確かめた。秘密を守れる人間だと判断している。第二に、エリーン令嬢の件で王宮内ではある程度知られた顔になっている。突然どこからともなく現れた女ではない」
「それは、まあ、確かに?」
「そして第三に」
殿下は真っすぐに私を見た。
「お前は嘘をつくのが下手そうだから、ふりをしてもらうより、自然体でいてもらった方が説得力が出ると判断した」
「……それは褒められているんでしょうか」
「褒めている」
まあ、確かに私は嘘をつくのが得意ではない。
前世でも今世でも、嘘をついてもすぐ顔に出ると言われてきた。
「そして第四に」
立ち上がった殿下が近づいてきた、と思った次の瞬間、おもむろに私の眼鏡へ手を伸ばした。
「あっ!?」
「この眼鏡。外すとなかなか、貴族の令嬢と遜色ない」
「ちょっ!?」
何をしているの、この人は。
とてもじゃないけれど、正気だとは思えない。
眼鏡を取り返そうとすると、はるか頭上高くに持ち上げられて届かない。
「返してください!」
「要求を聞いてくれるなら、すぐにでも」
「子ども相手みたいなことをしないでください!」
そう言いながら、今度は勝手に自分で眼鏡をかけ始める始末だ。
いくらなんでも、殿下の顔に手を伸ばして眼鏡を奪い返すのは憚られ、私は手を引かざるを得ない。
「なんだ。思ったほど度は入っていないんだな」
「……期間はどのくらいですか」
「ドレイクの不正を公式に訴えるまでの間だ。証拠が整い次第、動く。早ければ一月、長くても二か月だろう」
「その間、具体的にどんなことを」
「公の場に同席してもらう機会が何度かある。それと、宰相側が接触してくる可能性があるため、俺の近くにいてもらう時間も増える」
「……具体的に聞くほど現実感が出てきて、少し怖いんですが」
「断ってもいい」
殿下ははっきりと言った。
「これは強制ではない。断った場合は別の方法を考える。ただ、時間的な余裕は減る」
「…………」
私はしばらく考えた。
書庫の薄明かりの中で、目の前の書類の山を見る。
七年分の不正。積み上げられた証拠の断片。
エリーン令嬢の震える肩。
前世の、理不尽な死。
ここで引き下がったら、また誰かが理不尽な目に遭うかもしれない。
でも、そもそも私は一書記官だ。
こんなことに関わるべき人間ではない。
関われば、たぶん面倒なことになる。かなりの確率で。
「……ひとつ、条件があります」
「言え」
「定時退勤を基本的に守ること。どうしても難しい場合は、前日に教えてください」
「わかった」
「それから——」
私は一息ついた。
「この件が全部終わったら、言っていたケーキを本当に用意してください」
「……もちろんだ」
「予約待ち一年のホールケーキ、ですよ」
「ホールケーキだ。約束する」
殿下は即答した。
そこだけ妙に迷いがない。
「…………わかりました」
私は深呼吸した。
たぶん、これでまた面倒なことになる。
でも、ここまで来たら、もう見ないふりはできない。
「お引き受けします。精一杯、ふりをします」
殿下はゆっくりと頷いた。
「よかった」
その一言が、なんとなく満足そうに聞こえた気がした。
それが少しだけ悔しくて、私はようやく返してもらった眼鏡をかけ直した。



