翌日から、私は王宮文書保管庫に入り浸ることになった。
文書保管庫は王宮の地下にある、薄暗くて、少し黴臭い場所だ。
壁一面に棚が並び、何百という羊皮紙の束がぎっしりと収まっている。
人によっては息が詰まりそうな場所かもしれないが、私にとっては天国みたいなものだった。
書類が好きなのだ。
整然と並んだ文書の山を、ひとつずつ掘り起こしていくのが前世から好きだった。
書類は嘘をつかない。書かれた文字は勝手には消えない。改竄の跡も、よく見れば必ずどこかに残る。
嘘をつくのは、いつだって人間の方だ。
王太子殿下の手配で、私には『書庫整理担当』という名目が与えられていた。
他の書記官はまず立ち寄らない薄暗い書庫の中で、私は五年分の記録をひたすら丹念にめくり続けた。
作業を始めて三日目。
ようやく、最初の手がかりが見つかった。
物資調達記録の中に、毎年ほぼ同じ時期、同じカテゴリの書類だけが欠落しているパターンがあったのだ。
『建材調達』『軍備補給』『食料確保』の三種類。
しかも欠けているのは、年度末の一か月分だけ。
年度末の一か月というのは、翌年の予算を確定する前の、金額の帳尻合わせが行われる時期だ。
そこの書類だけが、驚くほどきれいに消えている。
「……なるほど、そういう手口か」
私は書庫の薄明かりの下で、小さく独り言をこぼした。
年度末に架空の取引を大量に計上し、翌年度初めに書類を差し替えるか廃棄する。
それを繰り返せば、帳簿の上では一見きれいに見えても、実際の資金はいくらでも横流しできる。
前世でも、類似の手口を見たことがあった。
企業の不正経理で、わりとよく使われる方法だ。
私は見つけたパターンを記録していく。
「……うん、これは証拠になる」
欠落のパターンそのものが証拠になる。
偶然ではあり得ない規則性。
しかも過去五年間、毎年繰り返されている。
ただ、まだ足りない。
欠落の事実だけでは、ドレイクが関与したとは直接言えない。
書類管理の担当者が別にいて、そちらの独断だったと言い逃れされる可能性がある。
必要なのは、『誰が書類を管理していたか』と、『誰が書類の廃棄権限を持っていたか』を示す記録だった。
私は黙々と作業を続けた。
書庫の中は静かだ。
外の世界の騒がしさが嘘みたいに、ここだけ時間がゆっくり流れている気がする。
こんな仕事が、意外と嫌いではない自分にも気づいていた。
前世でも、書類を読んでいる時間は嫌いではなかった。
膨大な記録の中から、小さな矛盾を見つける時の感覚。
ばらばらだったパズルのピースが、ひとつずつはまっていく感覚。
「……ミルフィ書記官」
声がして振り返ると、殿下の側近であるラルフが、書庫の入り口に立っていた。
「殿下から差し入れです」
ラルフが、持っていたバスケットを私の方へ差し出した。
開けてみると、中には小さな紙袋がひとつ。
リボンのかかったその袋をそっと開くと、マドレーヌが四個、きちんと並んで入っていた。
「……」
マドレーヌだった。
バターの香りにまじって、ほんのり柑橘の匂いがする。
その甘い香りが、カビ臭い書庫の空気の中へふわっと広がった。
「殿下が、今日は書庫に差し入れてこいと仰って」
「……ありがとうございます」
私はひとつ摘まんで口に運んだ。
美味しい。
しっとりしているのに、縁のあたりだけほんの少しカリッとしている。
レモンの皮でも入っているのか、後味が爽やかだ。
しかも、明らかに食べ慣れた町の焼き菓子とは違う。
こう、きちんと値段のする店の味がした。
「殿下は今日も書庫を確認に来られますか」
「夕方頃に立ち寄ると仰っていました」
「わかりました。報告できることがあればお伝えします」
ラルフが去ると、また書庫は静かになった。
私はもう一個マドレーヌを食べながら、作業を続ける。
甘いものが入ると、頭の回転が少しだけましになる気がする。
夕方、約束通り殿下が書庫に現れた。
私がまとめた欠落パターンの一覧を差し出すと、殿下はしばらく無言で目を通した。
「……精度が上がっている」
「三日かけて整理しましたので。欠落のパターンと、その書類に関連する担当者の署名記録を照合しました」
「何かわかったか」
「はい。欠落している書類の年度末処理に関与していた文官は、過去五年間で延べ七名います。ですが、そのうち全ての年度に関与しているのは一人だけです」
私は該当の名前を指し示した。
「ラントン・シア文書主任です」
「シア……知っている。ドレイクの側近だ」
「そうですか。であれば繋がりますね。シア文書主任が年度末の書類処理を担当し、その後書類が廃棄される。この人物が鍵だと思います」
「シアを直接調べることはできるか」
「書類の上では、もう少し追えます。ただ、物理的な証拠——たとえば廃棄した書類の控えが残っているかどうかなど——は、書庫の外での調査が必要になります」
「それは別の者が動く」
「わかりました。私は引き続き、書庫の記録を精査します」
殿下は私の横に立ち、手元の書類を覗き込んだ。
近い。
なんとなく、近いと思った。
書庫の薄明かりの中で、殿下の横顔がすぐ間近にある。
気にしすぎだろうかと思いながら、私はあえて少し身を引き、メガネを掛け直すふりをした。
「……他に気になることはあるか」
「えと、はい。もう一点あります」
私は続けて別の書類を取り出した。
「ボルゲン商会への支払い記録を遡ったところ、一番最初の取引は七年前に始まっています。その時期に、ドレイク宰相が宰相に就任しているはずです」
「そうだ」
「就任直後から取引が始まっているということは、あらかじめ準備されていたということです。宰相への就任を見越して、関係構築が進んでいた可能性があります」
「つまり、ドレイクは宰相就任前から不正を計画していたと」
「少なくとも、就任直後に体制を整えるだけの準備をしていた、ということになります」
殿下は低く唸った。
「七年か」
「長い積み重ねです。証拠は一点ずつ積み上げていくしかありません」
「わかった。引き続き頼む」
殿下は書類から目を離し、私を見た。
「マドレーヌはどうだった」
「……美味しかったです。ありがとうございます」
「好きか、ああいう菓子は」
「はい。バターの多いものは好きです。フィナンシェも」
「そうか」
また短い返事だった。
殿下はそのまま書庫を出て行く。
私は残りのマドレーヌをもう一個食べた。
……なんとなく、殿下と話すのは嫌ではない、と思い始めている自分に気づく。
この人は無駄な世辞を言わない。
必要なことだけを言って、余分なことは言わない。
だから、会話をしていて疲れない。
前世の職場で苦手だった、『上司へのご機嫌取り』みたいなやりとりが一切ないのも助かる。
……それだけのことだ。
特別な感情ではない、と私は自分に言い聞かせた。
文書保管庫は王宮の地下にある、薄暗くて、少し黴臭い場所だ。
壁一面に棚が並び、何百という羊皮紙の束がぎっしりと収まっている。
人によっては息が詰まりそうな場所かもしれないが、私にとっては天国みたいなものだった。
書類が好きなのだ。
整然と並んだ文書の山を、ひとつずつ掘り起こしていくのが前世から好きだった。
書類は嘘をつかない。書かれた文字は勝手には消えない。改竄の跡も、よく見れば必ずどこかに残る。
嘘をつくのは、いつだって人間の方だ。
王太子殿下の手配で、私には『書庫整理担当』という名目が与えられていた。
他の書記官はまず立ち寄らない薄暗い書庫の中で、私は五年分の記録をひたすら丹念にめくり続けた。
作業を始めて三日目。
ようやく、最初の手がかりが見つかった。
物資調達記録の中に、毎年ほぼ同じ時期、同じカテゴリの書類だけが欠落しているパターンがあったのだ。
『建材調達』『軍備補給』『食料確保』の三種類。
しかも欠けているのは、年度末の一か月分だけ。
年度末の一か月というのは、翌年の予算を確定する前の、金額の帳尻合わせが行われる時期だ。
そこの書類だけが、驚くほどきれいに消えている。
「……なるほど、そういう手口か」
私は書庫の薄明かりの下で、小さく独り言をこぼした。
年度末に架空の取引を大量に計上し、翌年度初めに書類を差し替えるか廃棄する。
それを繰り返せば、帳簿の上では一見きれいに見えても、実際の資金はいくらでも横流しできる。
前世でも、類似の手口を見たことがあった。
企業の不正経理で、わりとよく使われる方法だ。
私は見つけたパターンを記録していく。
「……うん、これは証拠になる」
欠落のパターンそのものが証拠になる。
偶然ではあり得ない規則性。
しかも過去五年間、毎年繰り返されている。
ただ、まだ足りない。
欠落の事実だけでは、ドレイクが関与したとは直接言えない。
書類管理の担当者が別にいて、そちらの独断だったと言い逃れされる可能性がある。
必要なのは、『誰が書類を管理していたか』と、『誰が書類の廃棄権限を持っていたか』を示す記録だった。
私は黙々と作業を続けた。
書庫の中は静かだ。
外の世界の騒がしさが嘘みたいに、ここだけ時間がゆっくり流れている気がする。
こんな仕事が、意外と嫌いではない自分にも気づいていた。
前世でも、書類を読んでいる時間は嫌いではなかった。
膨大な記録の中から、小さな矛盾を見つける時の感覚。
ばらばらだったパズルのピースが、ひとつずつはまっていく感覚。
「……ミルフィ書記官」
声がして振り返ると、殿下の側近であるラルフが、書庫の入り口に立っていた。
「殿下から差し入れです」
ラルフが、持っていたバスケットを私の方へ差し出した。
開けてみると、中には小さな紙袋がひとつ。
リボンのかかったその袋をそっと開くと、マドレーヌが四個、きちんと並んで入っていた。
「……」
マドレーヌだった。
バターの香りにまじって、ほんのり柑橘の匂いがする。
その甘い香りが、カビ臭い書庫の空気の中へふわっと広がった。
「殿下が、今日は書庫に差し入れてこいと仰って」
「……ありがとうございます」
私はひとつ摘まんで口に運んだ。
美味しい。
しっとりしているのに、縁のあたりだけほんの少しカリッとしている。
レモンの皮でも入っているのか、後味が爽やかだ。
しかも、明らかに食べ慣れた町の焼き菓子とは違う。
こう、きちんと値段のする店の味がした。
「殿下は今日も書庫を確認に来られますか」
「夕方頃に立ち寄ると仰っていました」
「わかりました。報告できることがあればお伝えします」
ラルフが去ると、また書庫は静かになった。
私はもう一個マドレーヌを食べながら、作業を続ける。
甘いものが入ると、頭の回転が少しだけましになる気がする。
夕方、約束通り殿下が書庫に現れた。
私がまとめた欠落パターンの一覧を差し出すと、殿下はしばらく無言で目を通した。
「……精度が上がっている」
「三日かけて整理しましたので。欠落のパターンと、その書類に関連する担当者の署名記録を照合しました」
「何かわかったか」
「はい。欠落している書類の年度末処理に関与していた文官は、過去五年間で延べ七名います。ですが、そのうち全ての年度に関与しているのは一人だけです」
私は該当の名前を指し示した。
「ラントン・シア文書主任です」
「シア……知っている。ドレイクの側近だ」
「そうですか。であれば繋がりますね。シア文書主任が年度末の書類処理を担当し、その後書類が廃棄される。この人物が鍵だと思います」
「シアを直接調べることはできるか」
「書類の上では、もう少し追えます。ただ、物理的な証拠——たとえば廃棄した書類の控えが残っているかどうかなど——は、書庫の外での調査が必要になります」
「それは別の者が動く」
「わかりました。私は引き続き、書庫の記録を精査します」
殿下は私の横に立ち、手元の書類を覗き込んだ。
近い。
なんとなく、近いと思った。
書庫の薄明かりの中で、殿下の横顔がすぐ間近にある。
気にしすぎだろうかと思いながら、私はあえて少し身を引き、メガネを掛け直すふりをした。
「……他に気になることはあるか」
「えと、はい。もう一点あります」
私は続けて別の書類を取り出した。
「ボルゲン商会への支払い記録を遡ったところ、一番最初の取引は七年前に始まっています。その時期に、ドレイク宰相が宰相に就任しているはずです」
「そうだ」
「就任直後から取引が始まっているということは、あらかじめ準備されていたということです。宰相への就任を見越して、関係構築が進んでいた可能性があります」
「つまり、ドレイクは宰相就任前から不正を計画していたと」
「少なくとも、就任直後に体制を整えるだけの準備をしていた、ということになります」
殿下は低く唸った。
「七年か」
「長い積み重ねです。証拠は一点ずつ積み上げていくしかありません」
「わかった。引き続き頼む」
殿下は書類から目を離し、私を見た。
「マドレーヌはどうだった」
「……美味しかったです。ありがとうございます」
「好きか、ああいう菓子は」
「はい。バターの多いものは好きです。フィナンシェも」
「そうか」
また短い返事だった。
殿下はそのまま書庫を出て行く。
私は残りのマドレーヌをもう一個食べた。
……なんとなく、殿下と話すのは嫌ではない、と思い始めている自分に気づく。
この人は無駄な世辞を言わない。
必要なことだけを言って、余分なことは言わない。
だから、会話をしていて疲れない。
前世の職場で苦手だった、『上司へのご機嫌取り』みたいなやりとりが一切ないのも助かる。
……それだけのことだ。
特別な感情ではない、と私は自分に言い聞かせた。



