なんとか瀬名の自室である洋室のベッドに巨体を放り投げ、僕も息を切らしてその横にへたり込む。
「……はぁ、はぁっ……! 瀬名! おい、瀬名!!」
反応はない。
僕は震える手で瀬名の手首を掴み、脈を測りながら、もう片方の手で彼の頬を強く、何度も叩いた。
そして、たまらずその広い胸板にしがみつくようにして、体温を分け与える。
「……んぅ……」
五分ほど強く抱きしめ続けていただろうか。
瀬名の長い睫毛が微かに震え、真っ白だった頬に、ゆっくりと血の気が戻ってくるのが見えた。
「……玲央……? あれ、俺……寝てた?」
「……っ、この、ドアホが……!!」
僕は安堵で抜けそうになる腰に力を入れ、跳ね起きるなり、部屋中の電気という電気——天井のシーリングライトからデスクスタンドまで、すべてを全開で点灯させた。
パァァァッ、と。
夜の洋室が、白々しいほどの人工的な光に満たされる。
僕は恐る恐る、ベッドから身を起こした瀬名の足元を見た。
――ある。
フローリングの床には、僕の影と、瀬名の影が、当たり前のように二つ、濃く黒々と落ちていた。
透けてなど、いない。
(……くそ。錯覚だったというのか!? 夕暮れの赤い光と、蔵の埃が生み出した、ただの光学的錯覚!?)
僕の脳内の論理回路が、安堵とともに急速に正常化していく。
そうだ、影が喰われるなどという非科学的な現象、あるはずがないのだ。
「……玲央? どうしたの、電気全部つけて。眩しいんだけど」
「なんでもない。お前が貧血で倒れたから、僕が運んでやったんだ。感謝しろ」
「マジで!? 玲央、俺のお姫様抱っこできたの!? すげー!」
「背負ったんだよ! ……もういい、体調が戻ったなら、さっさとテスト勉強を始めるぞ」
★
それから一時間後。
僕たちはテキストを広げていた。
だが、瀬名のシャーペンは十分前から完全に停止している。
「よし。ここ、現在完了形の継続用法。おい、聞いているのか」
「……ん……。玲央の教え方が丁寧すぎて、なんか、子守唄みたいに聞こえてきた……」
ラグの中心にあるローテーブルに並んで座り。瀬名は僕の肩に頭を預けはじめた。
部屋の隅では、既に、べよ猫が静かな寝息を立てていた。
古い家特有の、ミシリ、という軋み。
静寂の中で、瀬名の規則正しい呼吸音だけが、僕の理性をじわじわと侵食していく。
(近いし、さっきから、こいつの体温のせいで、僕の心拍数が計測不能なレベルまで上がっている。テスト勉強どころではない……こんな、……こいつの無防備な顔を見て、不覚にも『綺麗だ』と思ってしまう僕の脳細胞こそ、一度洗浄すべきだ!)
僕は逃げ出すように立ち上がろうとした。
だが。
ガシッ、と。
瀬名の逞しい手が、僕の手首を掴んだ。
「どこ行くの、玲央」
「トイレだ、離せ」
瀬名がゆっくりと上体を起こす。
その瞳は、眠気など微塵も感じさせないほど、鋭く、そして熱く僕を射抜いていた。
「おい瀬名。なぜさっきから、ノートではなく僕の顔ばかり見ている」
「いや……なんかさ。今日、すげえ暑くない?」
瀬名が首元のTシャツをパタパタと煽る。
確かに、暑い。
初夏とはいえ、夜の古民家は冷えるはずなのに、僕自身の体の中にも、妙な熱が燻っていた。
心拍数が早い。
肌の表面がピリピリと粟立ち、目の前に座る瀬名の、無防備な鎖骨や、汗ばんだ首筋から目が離せなくなっている。
(なんだ、この異常な発汗と動悸は。……まさか、夕飯に食べさせたレバーとニラの強烈な強壮作用が、ここにきて効き始めているのか!?)
「ねえ、玲央」
瞳は、眠気など微塵も感じさせないほど、鋭く、そして熱く僕を射抜いていた。
瀬名が掴んでいる僕の肌が、火傷しそうなほど熱い。
「もう、テスト勉強、やめよ」
「な、何を言っている。今始めたばかりだろ、それにまだ数学の範囲が……」
「頭、全然入んない」
瀬名の甘ったるい声と、熱を帯びた黒い瞳が、僕を絡め取る。
引っ張られるようにして身体が傾き、気づけば僕は、床の上に押し倒されていた。
夜の静寂を味方につけて、瀬名が僕を床に押し留める。
「……っ、せ、瀬名! 離れろ、お前は病み上がりで」
「病み上がりだから、充電が必要なの。玲央のせいだよ。あんな美味いもん食わせるから、俺、なんか……おかしくなりそう。もっと深いところまで、……分けてよ」
瀬名の顔が近づき、鼻先が触れ合う。
本能が剥き出しになったような、重くて熱い息遣い。
瀬名が僕の手を引き寄せ、自分の胸元――心臓の鼓動がダイレクトに伝わる場所に押し当てた。
僕の理性が、レバニラの暴力と、瀬名が発する圧倒的な引力の前で、ドロドロに溶かされていく。
小指のリングが、今までで一番激しく、まるで警告するかのように脈打っている。
「……わかった。今日は、もう寝るぞ……。ただし、何もしないからな……」
「ん、素直でとっても、いい子」
抗う気力を失った僕は、結局その夜、瀬名の熱い腕の中にすっぽりと収まったまま、深く、泥のような眠りへと落ちていったのだった。
★
差し込む朝陽が、網膜を白く焼いた。
古い平屋特有の、冷ややかな、けれどどこか懐かしい空気の匂い。
(……ああ、そうだ。僕は昨日、このバカの家で……)
重い瞼をゆっくりと開けた瞬間、視界を塞いでいたのは、白く清潔な、けれど驚くほど幅の広い胸板だった。
(……っ!?)
思考が覚醒すると同時に、全身に伝わる凄まじい熱と重量感。
瀬名は僕の背中を逃がさないようにガッチリと囲い込み、彼の太ももが僕の足を封じている。
十五センチメートルの身長差は、寝転がった状態では、さながら捕食者と獲物のような圧倒的な体格差となって僕にのしかかっていた。
(……な、なんだこのホールドは。……プロレスの技か? それとも、筋肉が引き起こす特有の無自覚な暴力か!? ……重い、暑い、そして、近すぎる……っ!)
鼻先が瀬名の鎖骨に触れ、彼の規則正しい、深く重い心拍が僕の胸に直接響いてくる。
不快だ。
こんなのは、不潔だ。
それなのに、昨夜からの継続的充電が続いているせいか、僕の脳内にはまるでドーパミンが異常分泌され、思考が溶かされていく感覚。
「……ん、……れお……、……逃げんなよ……」
瀬名が寝言で僕の名前を呼び、さらに抱きしめる力を強めた。
(……こ、この……ッ、ド低脳が! 起きろ! 今すぐこの拘束を解け!!)
心の中で叫び、もがこうとした、その時だった。
枕元から、ずもももん、という、何かを啜り上げるような不気味な音が聞こえた。
「……うまい……、……ちょーうまいぽん……」
血の気が引くのが分かった。
(……は? ……今、……誰が、喋った?)
この家には、僕と瀬名しかいないはずだ。
お祖父さんは入院中。
恐る恐る、首だけを横に向ける。
そこには、スクールバッグにねじ込まれたはずの、まめたが座っていた。
まめたは、瀬名の首筋から漂う陽炎のような何かを、その小さな鼻で必死に吸い込みながら、黒いビーズのような瞳をギラつかせている。
「……ちょうぜつの旨味だぽん……。……いおりんとれおーの『愛しみ』が混ざって、……最高にうまいぽん……」
喋った。
ぬいぐるみらしい、ぎこちない擬音の混ざった声ではない。
それは、いっそあどけない子供のような、人間の言葉だった。
(……嘘だ。……幻聴だ。寝不足による一時的な聴覚野の異常だ。……AI? 隠しスピーカー? いや、あんな生物的な蠕動を、機械が——)
「……もっと睦み合って、もっと熱くなれぽん。そうすれば、ご主人様の命は、もっと早く、僕のものに、なるぽーん」
(…………なっ!!)
まめたの言葉の意味を理解した瞬間、指先の黒曜石のリングが、指を焼き切らんばかりの熱を発した。
瀬名の首筋からよじよじと移動したまめはは、床に落ちた瀬名の影へと這い寄った。
窓から差し込む強烈な朝陽が、瀬名の逞しい体躯を畳の上に長く投影している。
僕は、呼吸するのを忘れていた。
瀬名の腕の影、肩の影。
そこが、まるで古びた写真が風化したように、不自然に薄くなっている。
それだけではない。
まめたが短い前足で床を叩くと、瀬名の影の指先や足先が、ポロポロと黒い砂のように崩れ、まめたの口元へと吸い込まれていった。
(……影がない。……影の輪郭が、欠けている……っ!?)
物理学の常識が、僕の目の前で音を立てて崩壊する。
光があるところに、影は必ず存在する。
それが自然界の摂理だ。
だというのに、目の前の男の影は、今この瞬間も、あのあざといタヌキに食われて消滅し続けている。
(……こいつの存在そのものが、……あのタヌキに食われ始めているんだ……っ!)
影が消えるということは、この世に繋ぎ止める縁が消えるということではないのか。
そう思った瞬間、僕にからみつく瀬名の腕の熱が、急に儚い、消えてしまいそうな幻のように感じられて、僕は猛烈な恐怖に襲われた。
「ちょう、旨味ー、たまらないぽん」
まめたが満足げに喉を鳴らす。
そのあざとい瞳と目が合った。
まめたは玲央に向かって、影を咀嚼しながらゆっくりとまばたきをした。
「おい! 瀬名! 可及的速やかに起きろ、瀬名!!」
「……ん……、どしたの、……?」
ようやく目を覚ました瀬名が、寝ぼけ眼で僕を覗き込む。
「……影だ! お前の影を見ろ! ……っ、……消えてるんだ、お前の影が!」
「え? 影? ……あはは、何言ってんの。……あ、本当だ、なんか今日、俺の影薄くない? 朝陽が強すぎるから?」
瀬名が屈託のない笑顔で、自分の欠けた影を指差して笑う。
まめたは瞬時にただのマスコットに戻った。
(……こいつ、自分が消えかかっていることにすら、気づいていないのか!? ……いや、まめたが感覚を狂わせているのか……?)
瀬名の腕の温かさと、影が食われていく冷ややかな光景。
その温度差に、僕は瀬名の胸元を、突き放すのではなく、逆に引き寄せるように強く握り締めた。
「……瀬名。絶対だ。絶対に、お前を死なせない。僕が、何をしてでも救ってやる」
「……えっ!? いきなり何!? 玲央、朝からプロポーズ!?」
「違う、黙れこのバカ!! 離せ、……離すな、……っ、……大人しく僕に管理されろ!!」
朝陽に包まれた室内に、僕の絶叫と、瀬名の能天気な笑い声、そして――欠損したままの影が、静かに揺れていた。
リビングから続く板の間は、現在、男子校の文化祭のステージ裏のような惨状と化していた。
床には、僕が瀬名の家中からかき集めてきた、強力なLED投光器や作業用ライトが十数台、無造作に転がっている。
「……よし。瀬名、そこに立て。動くなよ、ミリ単位でも動いたらぶち殺すぞ」
「は、はーい……。ねえ玲央、これ何の実験? スポットライト浴びてるみたいで、ちょっとアイドル気分なんだけど」
瀬名は僕の剣幕に押され、部屋の中央で、大量のライトに四方八方から照らされながら立ち尽くしていた。
(影とは、光源と遮蔽物の関係によって生じる物理現象だ。光源を増やし、照度を上げれば、影はより濃く、鮮明になる。はずだ。光学の法則に従えば、あんなタヌキに食われた部分も、光の圧力で補完できる……!)
僕はタイマー片手に、ライトの角度を微調整し続ける。
部屋の中は爆光。
まめたとべよ猫は、急に明るくなった部屋で「まぶしいぽん……」「べよべよ……」と戸惑い、隅っこで重なり合って震えていた。
だが。
(……くそっ。なぜだ。なぜ、光を当てれば当てるほど、こいつの影の欠損が、より鮮明に、残酷に浮き彫りになるんだ……っ!)
光源が増えたことで、瀬名の体躯の影は、確かに床に濃く投影された。
だが、その輪郭は——。
朝、まめたに喰われていた指先や足先の部分の影が、虫食いのようにポッカリと空洞になり、光が通り抜けてしまっている。
まるで、存在そのものが、その部分だけこの世から欠落しているかのように。
「……っ、……光学が、通用しないだと……?」
シルバーリングが、焦燥に応えるようにドクドクと熱を帯びる。
僕は絶望のあまり、床に転がっていた油性マジック:マッキー極太をひったくった。
(光源がダメなら、物理だ。物理的に外郭を補強し、存在の崩壊を防ぐ!)
僕は床に這いつくばり、瀬名の影の外側へ向かって、マジックのペン先を叩きつけた。
キュッ、キュッ、と、板が擦れる音。
「非常にばかばかしいが、理論上、形が保たれていれば崩壊は防げるはずだ! 僕が、……僕がこのマジックで、お前の形を、この世に繋ぎ止めてやる!」
泣きそうになりながら、瀬名の欠けた足の影を、マジックで黒々と書き足していく。
自認秀才が、バカ犬の、しかも欠けかかった影のために、を油性マジックで汚してまで奮闘する姿。
「……玲央」
上から、瀬名の声がした。
振り返ると、大量のLEDライトの逆光を浴びた瀬名が、眩しい光の中で僕を見下ろしていた。
「玲央。お前、マジックで俺の影、書き足そうとしてるの?」
「うるさい。黙って見てろ。これは、科学的な論理思考による」
「あはは。玲央ってば、俺のこと、そんなに好きなのかな?」
瀬名が屈託のない笑顔で、光の中から僕の元へ這い寄ってきた。
ガシッ、と。
マジックを持った僕の手を、瀬名が掴む。
そのまま、瀬名は僕を押し留めるように抱きついた。
「……っ、お前、何をする! 影が、……せっかく僕が書き足した影がっ!」
「いいよぉ、影なんて。玲央が、こーんなに、かわーく、けなげーに、必死になってくれるなら、……俺、消えてもいいかも」
「……勝手なことを言うな! 死なせないと言っただろうが!!」
LEDライトの、暴力的なまでの白。
至近距離で囁かれる、熱い声。
本当にルームウェアにしていたらしきスカートの中から伸びる、筋肉質の足が僕の体に絡まる。
(光が、強すぎて。お前の顔が、近すぎて。眩しいのはライトのせいじゃない。僕の心臓が、お前の体温に、完全に、……)
僕は初めて、瀬名の大きな背中に、自分の腕を回した。
まめたとべよ猫が、隅っこで「愛しみだぽん……」「べよべよ♡」と見守る中。
僕たちの涙ぐましい努力は、厳つい表情で聳えている土蔵の横の板の間で、ポップで、エロティックで、そして、とろけそうなほど甘い何かへと、完全に変換されていた。
「……はぁ、はぁっ……! 瀬名! おい、瀬名!!」
反応はない。
僕は震える手で瀬名の手首を掴み、脈を測りながら、もう片方の手で彼の頬を強く、何度も叩いた。
そして、たまらずその広い胸板にしがみつくようにして、体温を分け与える。
「……んぅ……」
五分ほど強く抱きしめ続けていただろうか。
瀬名の長い睫毛が微かに震え、真っ白だった頬に、ゆっくりと血の気が戻ってくるのが見えた。
「……玲央……? あれ、俺……寝てた?」
「……っ、この、ドアホが……!!」
僕は安堵で抜けそうになる腰に力を入れ、跳ね起きるなり、部屋中の電気という電気——天井のシーリングライトからデスクスタンドまで、すべてを全開で点灯させた。
パァァァッ、と。
夜の洋室が、白々しいほどの人工的な光に満たされる。
僕は恐る恐る、ベッドから身を起こした瀬名の足元を見た。
――ある。
フローリングの床には、僕の影と、瀬名の影が、当たり前のように二つ、濃く黒々と落ちていた。
透けてなど、いない。
(……くそ。錯覚だったというのか!? 夕暮れの赤い光と、蔵の埃が生み出した、ただの光学的錯覚!?)
僕の脳内の論理回路が、安堵とともに急速に正常化していく。
そうだ、影が喰われるなどという非科学的な現象、あるはずがないのだ。
「……玲央? どうしたの、電気全部つけて。眩しいんだけど」
「なんでもない。お前が貧血で倒れたから、僕が運んでやったんだ。感謝しろ」
「マジで!? 玲央、俺のお姫様抱っこできたの!? すげー!」
「背負ったんだよ! ……もういい、体調が戻ったなら、さっさとテスト勉強を始めるぞ」
★
それから一時間後。
僕たちはテキストを広げていた。
だが、瀬名のシャーペンは十分前から完全に停止している。
「よし。ここ、現在完了形の継続用法。おい、聞いているのか」
「……ん……。玲央の教え方が丁寧すぎて、なんか、子守唄みたいに聞こえてきた……」
ラグの中心にあるローテーブルに並んで座り。瀬名は僕の肩に頭を預けはじめた。
部屋の隅では、既に、べよ猫が静かな寝息を立てていた。
古い家特有の、ミシリ、という軋み。
静寂の中で、瀬名の規則正しい呼吸音だけが、僕の理性をじわじわと侵食していく。
(近いし、さっきから、こいつの体温のせいで、僕の心拍数が計測不能なレベルまで上がっている。テスト勉強どころではない……こんな、……こいつの無防備な顔を見て、不覚にも『綺麗だ』と思ってしまう僕の脳細胞こそ、一度洗浄すべきだ!)
僕は逃げ出すように立ち上がろうとした。
だが。
ガシッ、と。
瀬名の逞しい手が、僕の手首を掴んだ。
「どこ行くの、玲央」
「トイレだ、離せ」
瀬名がゆっくりと上体を起こす。
その瞳は、眠気など微塵も感じさせないほど、鋭く、そして熱く僕を射抜いていた。
「おい瀬名。なぜさっきから、ノートではなく僕の顔ばかり見ている」
「いや……なんかさ。今日、すげえ暑くない?」
瀬名が首元のTシャツをパタパタと煽る。
確かに、暑い。
初夏とはいえ、夜の古民家は冷えるはずなのに、僕自身の体の中にも、妙な熱が燻っていた。
心拍数が早い。
肌の表面がピリピリと粟立ち、目の前に座る瀬名の、無防備な鎖骨や、汗ばんだ首筋から目が離せなくなっている。
(なんだ、この異常な発汗と動悸は。……まさか、夕飯に食べさせたレバーとニラの強烈な強壮作用が、ここにきて効き始めているのか!?)
「ねえ、玲央」
瞳は、眠気など微塵も感じさせないほど、鋭く、そして熱く僕を射抜いていた。
瀬名が掴んでいる僕の肌が、火傷しそうなほど熱い。
「もう、テスト勉強、やめよ」
「な、何を言っている。今始めたばかりだろ、それにまだ数学の範囲が……」
「頭、全然入んない」
瀬名の甘ったるい声と、熱を帯びた黒い瞳が、僕を絡め取る。
引っ張られるようにして身体が傾き、気づけば僕は、床の上に押し倒されていた。
夜の静寂を味方につけて、瀬名が僕を床に押し留める。
「……っ、せ、瀬名! 離れろ、お前は病み上がりで」
「病み上がりだから、充電が必要なの。玲央のせいだよ。あんな美味いもん食わせるから、俺、なんか……おかしくなりそう。もっと深いところまで、……分けてよ」
瀬名の顔が近づき、鼻先が触れ合う。
本能が剥き出しになったような、重くて熱い息遣い。
瀬名が僕の手を引き寄せ、自分の胸元――心臓の鼓動がダイレクトに伝わる場所に押し当てた。
僕の理性が、レバニラの暴力と、瀬名が発する圧倒的な引力の前で、ドロドロに溶かされていく。
小指のリングが、今までで一番激しく、まるで警告するかのように脈打っている。
「……わかった。今日は、もう寝るぞ……。ただし、何もしないからな……」
「ん、素直でとっても、いい子」
抗う気力を失った僕は、結局その夜、瀬名の熱い腕の中にすっぽりと収まったまま、深く、泥のような眠りへと落ちていったのだった。
★
差し込む朝陽が、網膜を白く焼いた。
古い平屋特有の、冷ややかな、けれどどこか懐かしい空気の匂い。
(……ああ、そうだ。僕は昨日、このバカの家で……)
重い瞼をゆっくりと開けた瞬間、視界を塞いでいたのは、白く清潔な、けれど驚くほど幅の広い胸板だった。
(……っ!?)
思考が覚醒すると同時に、全身に伝わる凄まじい熱と重量感。
瀬名は僕の背中を逃がさないようにガッチリと囲い込み、彼の太ももが僕の足を封じている。
十五センチメートルの身長差は、寝転がった状態では、さながら捕食者と獲物のような圧倒的な体格差となって僕にのしかかっていた。
(……な、なんだこのホールドは。……プロレスの技か? それとも、筋肉が引き起こす特有の無自覚な暴力か!? ……重い、暑い、そして、近すぎる……っ!)
鼻先が瀬名の鎖骨に触れ、彼の規則正しい、深く重い心拍が僕の胸に直接響いてくる。
不快だ。
こんなのは、不潔だ。
それなのに、昨夜からの継続的充電が続いているせいか、僕の脳内にはまるでドーパミンが異常分泌され、思考が溶かされていく感覚。
「……ん、……れお……、……逃げんなよ……」
瀬名が寝言で僕の名前を呼び、さらに抱きしめる力を強めた。
(……こ、この……ッ、ド低脳が! 起きろ! 今すぐこの拘束を解け!!)
心の中で叫び、もがこうとした、その時だった。
枕元から、ずもももん、という、何かを啜り上げるような不気味な音が聞こえた。
「……うまい……、……ちょーうまいぽん……」
血の気が引くのが分かった。
(……は? ……今、……誰が、喋った?)
この家には、僕と瀬名しかいないはずだ。
お祖父さんは入院中。
恐る恐る、首だけを横に向ける。
そこには、スクールバッグにねじ込まれたはずの、まめたが座っていた。
まめたは、瀬名の首筋から漂う陽炎のような何かを、その小さな鼻で必死に吸い込みながら、黒いビーズのような瞳をギラつかせている。
「……ちょうぜつの旨味だぽん……。……いおりんとれおーの『愛しみ』が混ざって、……最高にうまいぽん……」
喋った。
ぬいぐるみらしい、ぎこちない擬音の混ざった声ではない。
それは、いっそあどけない子供のような、人間の言葉だった。
(……嘘だ。……幻聴だ。寝不足による一時的な聴覚野の異常だ。……AI? 隠しスピーカー? いや、あんな生物的な蠕動を、機械が——)
「……もっと睦み合って、もっと熱くなれぽん。そうすれば、ご主人様の命は、もっと早く、僕のものに、なるぽーん」
(…………なっ!!)
まめたの言葉の意味を理解した瞬間、指先の黒曜石のリングが、指を焼き切らんばかりの熱を発した。
瀬名の首筋からよじよじと移動したまめはは、床に落ちた瀬名の影へと這い寄った。
窓から差し込む強烈な朝陽が、瀬名の逞しい体躯を畳の上に長く投影している。
僕は、呼吸するのを忘れていた。
瀬名の腕の影、肩の影。
そこが、まるで古びた写真が風化したように、不自然に薄くなっている。
それだけではない。
まめたが短い前足で床を叩くと、瀬名の影の指先や足先が、ポロポロと黒い砂のように崩れ、まめたの口元へと吸い込まれていった。
(……影がない。……影の輪郭が、欠けている……っ!?)
物理学の常識が、僕の目の前で音を立てて崩壊する。
光があるところに、影は必ず存在する。
それが自然界の摂理だ。
だというのに、目の前の男の影は、今この瞬間も、あのあざといタヌキに食われて消滅し続けている。
(……こいつの存在そのものが、……あのタヌキに食われ始めているんだ……っ!)
影が消えるということは、この世に繋ぎ止める縁が消えるということではないのか。
そう思った瞬間、僕にからみつく瀬名の腕の熱が、急に儚い、消えてしまいそうな幻のように感じられて、僕は猛烈な恐怖に襲われた。
「ちょう、旨味ー、たまらないぽん」
まめたが満足げに喉を鳴らす。
そのあざとい瞳と目が合った。
まめたは玲央に向かって、影を咀嚼しながらゆっくりとまばたきをした。
「おい! 瀬名! 可及的速やかに起きろ、瀬名!!」
「……ん……、どしたの、……?」
ようやく目を覚ました瀬名が、寝ぼけ眼で僕を覗き込む。
「……影だ! お前の影を見ろ! ……っ、……消えてるんだ、お前の影が!」
「え? 影? ……あはは、何言ってんの。……あ、本当だ、なんか今日、俺の影薄くない? 朝陽が強すぎるから?」
瀬名が屈託のない笑顔で、自分の欠けた影を指差して笑う。
まめたは瞬時にただのマスコットに戻った。
(……こいつ、自分が消えかかっていることにすら、気づいていないのか!? ……いや、まめたが感覚を狂わせているのか……?)
瀬名の腕の温かさと、影が食われていく冷ややかな光景。
その温度差に、僕は瀬名の胸元を、突き放すのではなく、逆に引き寄せるように強く握り締めた。
「……瀬名。絶対だ。絶対に、お前を死なせない。僕が、何をしてでも救ってやる」
「……えっ!? いきなり何!? 玲央、朝からプロポーズ!?」
「違う、黙れこのバカ!! 離せ、……離すな、……っ、……大人しく僕に管理されろ!!」
朝陽に包まれた室内に、僕の絶叫と、瀬名の能天気な笑い声、そして――欠損したままの影が、静かに揺れていた。
リビングから続く板の間は、現在、男子校の文化祭のステージ裏のような惨状と化していた。
床には、僕が瀬名の家中からかき集めてきた、強力なLED投光器や作業用ライトが十数台、無造作に転がっている。
「……よし。瀬名、そこに立て。動くなよ、ミリ単位でも動いたらぶち殺すぞ」
「は、はーい……。ねえ玲央、これ何の実験? スポットライト浴びてるみたいで、ちょっとアイドル気分なんだけど」
瀬名は僕の剣幕に押され、部屋の中央で、大量のライトに四方八方から照らされながら立ち尽くしていた。
(影とは、光源と遮蔽物の関係によって生じる物理現象だ。光源を増やし、照度を上げれば、影はより濃く、鮮明になる。はずだ。光学の法則に従えば、あんなタヌキに食われた部分も、光の圧力で補完できる……!)
僕はタイマー片手に、ライトの角度を微調整し続ける。
部屋の中は爆光。
まめたとべよ猫は、急に明るくなった部屋で「まぶしいぽん……」「べよべよ……」と戸惑い、隅っこで重なり合って震えていた。
だが。
(……くそっ。なぜだ。なぜ、光を当てれば当てるほど、こいつの影の欠損が、より鮮明に、残酷に浮き彫りになるんだ……っ!)
光源が増えたことで、瀬名の体躯の影は、確かに床に濃く投影された。
だが、その輪郭は——。
朝、まめたに喰われていた指先や足先の部分の影が、虫食いのようにポッカリと空洞になり、光が通り抜けてしまっている。
まるで、存在そのものが、その部分だけこの世から欠落しているかのように。
「……っ、……光学が、通用しないだと……?」
シルバーリングが、焦燥に応えるようにドクドクと熱を帯びる。
僕は絶望のあまり、床に転がっていた油性マジック:マッキー極太をひったくった。
(光源がダメなら、物理だ。物理的に外郭を補強し、存在の崩壊を防ぐ!)
僕は床に這いつくばり、瀬名の影の外側へ向かって、マジックのペン先を叩きつけた。
キュッ、キュッ、と、板が擦れる音。
「非常にばかばかしいが、理論上、形が保たれていれば崩壊は防げるはずだ! 僕が、……僕がこのマジックで、お前の形を、この世に繋ぎ止めてやる!」
泣きそうになりながら、瀬名の欠けた足の影を、マジックで黒々と書き足していく。
自認秀才が、バカ犬の、しかも欠けかかった影のために、を油性マジックで汚してまで奮闘する姿。
「……玲央」
上から、瀬名の声がした。
振り返ると、大量のLEDライトの逆光を浴びた瀬名が、眩しい光の中で僕を見下ろしていた。
「玲央。お前、マジックで俺の影、書き足そうとしてるの?」
「うるさい。黙って見てろ。これは、科学的な論理思考による」
「あはは。玲央ってば、俺のこと、そんなに好きなのかな?」
瀬名が屈託のない笑顔で、光の中から僕の元へ這い寄ってきた。
ガシッ、と。
マジックを持った僕の手を、瀬名が掴む。
そのまま、瀬名は僕を押し留めるように抱きついた。
「……っ、お前、何をする! 影が、……せっかく僕が書き足した影がっ!」
「いいよぉ、影なんて。玲央が、こーんなに、かわーく、けなげーに、必死になってくれるなら、……俺、消えてもいいかも」
「……勝手なことを言うな! 死なせないと言っただろうが!!」
LEDライトの、暴力的なまでの白。
至近距離で囁かれる、熱い声。
本当にルームウェアにしていたらしきスカートの中から伸びる、筋肉質の足が僕の体に絡まる。
(光が、強すぎて。お前の顔が、近すぎて。眩しいのはライトのせいじゃない。僕の心臓が、お前の体温に、完全に、……)
僕は初めて、瀬名の大きな背中に、自分の腕を回した。
まめたとべよ猫が、隅っこで「愛しみだぽん……」「べよべよ♡」と見守る中。
僕たちの涙ぐましい努力は、厳つい表情で聳えている土蔵の横の板の間で、ポップで、エロティックで、そして、とろけそうなほど甘い何かへと、完全に変換されていた。



