君の影が溶ける前に。〜理系委員長と呪われた大型犬の、不合理な延命プロトコル〜

 六月。
 僕たちの通う県内三番手くらいのこの自称、進学校は、梅雨の湿気と受験という目に見えない重圧で空気が澱み始めていた。
 今日は、学園祭を終えて地学研究会を引退する三年生の部長と副部長が、地学準備室に顔を出している。

「というわけで、俺たちは今日で引退だ。これからは、赤本を恋人として生きていく」

「聞いてくれ高宮ぁ……俺、昨日模試の判定でEが出たショックで、深夜に庭でダウジングしてたら親父に泣かれたんだ……」

 目の下に色濃いクマを作り英単語帳を握りしめている部長と、受験ストレスでオカルトに傾倒し始め、首に謎の数珠を巻いている副部長のコンビが、この世の終わりのような顔で息を吐く。

「先輩方、お疲れ様でした。とはいえ、来月には楽しい楽しい『蓼科サマースクール』が控えていますからね」

「うっ……! やめろ高宮、地獄の勉強合宿の名前を出すな……!」

 僕が事実を述べると、先輩たちは大げさに耳を塞いだ。
 一年、二年は希望者参加制で、三年生は強制参加。
 夏休み突入した翌日から、長野県の蓼科にある研修所で行われる、五泊六日の超スパルタサマースクール。
 優秀な講師陣が揃うその合宿のカリキュラムに、僕は今から胸を躍らせていたのだが、凡人にはただの拷問らしい。

「そういや、蓼科の研修所って、やばい噂あるの知ってるか?」

 数珠をジャラジャラ鳴らしながら、副部長が声を潜めた。

「出るらしいぜ……いろいろ。中でもヤバいのが、研修所の裏山の祠に封印されてるっていう巨大なバケダヌキの霊。なんでも『刑部狸(ぎょうぶだぬき)』って言ってな……」

「え? 刑部狸って、四国じゃないっけ? 松山の『隠神刑部(いぬがみぎょうぶ)』?」

 パイプ椅子に逆座りして、だらしなくスマホをいじっていた瀬名が、唐突に口を挟んだ。
 僕は思わず瀬名と副部長を、交互に見比べた。

「……瀬名。お前、なぜそんなマニアックな妖怪の名前と産地を知っているんだ? 英単語の『apple』のスペルも怪しいくせに」

「あはは、ひどっ! いや、うちのじいちゃんがさ、わりとガチの『妖怪愛好家』なんだよ。俺が神奈川に住んでた頃から、会うたびにそういう昔話ばっか聞かされてたからさ」

 瀬名弦之介博士、鉱物学だけでなく民俗学(みんぞくがく)にも精通していたのか。
 だとすれば、瀬名が怪異を引き寄せたりするのも、血筋……いや、非科学的だろう。
 無いないない。
 僕は頭を振った。

「四国の妖怪がなんで長野にいるかは謎だけどな! 眠りに落ちそうな受験生を見つけると、背中から水を流し込んだりと、地味な嫌がらせをしてくるらしい。とにかく、俺たちは受験戦争に勝つ! というわけで、今日からお前らが地学研究会の新バディだ」

「引き継ぎ資料はこれな。……で、新部長だけど、瀬名、お前に任せるわ」

「……は?」

 僕の口から、素っ頓狂な声が漏れた。
 隣の瀬名も、目を丸くして自分を指差している。

「え、俺!? 俺でいいの!? やったー! 俺、部長!」

「待ってください、部長! なぜこいつなんですか!? 活動実績ゼロ、ただの筋肉ダルマですよ!?」

「いやー、高宮はクラス委員長とかで忙しいだろ? 実務はお前が回してくれ。瀬名みたいなアホ……いや『陽の気』があるやつがトップにいた方が、クラブの雰囲気が明るくなるし、瀬名博士の孫ってだけでハクがつくからな! 二年の鯨岡も副部長にしておくから! 来年の勧誘頑張らないと、部費削減。いや、地学研究会が消滅する可能性も」

「えー、準備室使えなくなったら困るよなー、玲央」 

 僕が頭痛を堪えてこめかみを揉んでいると、足元でべよべよ鳴きながら、あの白いおもち生物(べよ猫)が僕の足首にすり寄ってきた。

「……おいこら、今はやめろ。毛がつくだろ」

 僕が小声で足元を払おうとすると、部長が不思議そうに首を傾げた。

「ん? 高宮、何やってんだ? 足元に何かいるのか?」

(あれ……見えていないのか? 僕と瀬名以外には)

「すねこすり」の怪異。
 通行人のすねの間を、こすりながら通り抜ける謎の妖怪で、目的は不明。
 危害といえば、ちょっと歩きにくくなるという、地味さ。
 転ばせて生気を奪う的な説もあるらしいが、今のところ、べよ猫が僕や瀬名の生気を奪っているような気配は感じられない。
 まあ、十中八九この、べよ猫は「すねこすり」だろう。
 べよべよ鳴くし。

 だろう、とか断定している自分がちょっと怖いけど。
 僕が、すでに「あちら側」に片足を突っ込んでいるという事実が、背筋を冷たく撫でた。

「じゃ、あとは任せたぞ新部長!」

 嵐のように去っていった先輩たちを見送り、準備室には僕と瀬名だけが残された。

「よーし! 俺、新部長だからな! 早速だけど、玲央副部長、とりあえず俺の肩もんで!」

「誰がやるかドアホ。……それより、瀬名」

 僕は、瀬名のスクールバッグに目を向けた。
 そこには、いつものように茶色いタヌキのマスコット『まめた』がぶら下がっている。
 後夜祭の日。
 瀬名に渡した『ピンクの封筒』を、こいつがしれっと引っ掴みんで、バリバリと噛み砕き飲み込むのを、僕は確かに見たのだ。

「……お前、学園祭の日に女子からもらった手紙、どうした」

「え? あー、あれ。どっかいっちゃったんだよね。落としたのかな。まあいいけど」

「落としたんじゃない。こいつが、食っていたぞ」

 僕がまめたを指差すと、瀬名がきょとんと瞬きをした。

「……まめたが? 手紙を? あはは、玲央、疲れてる? ぬいぐるみだよ?」

「違う。いい加減に現実を見ろ。お前のその異常な体調不良も、北校舎での怪異も、全部こいつが原因だ。僕にしか見えていないかもしれないが……こいつは動くし、お前の生気を喰っている! べよ猫の比じゃない有害さだ!」

 僕の強い語気に、準備室の空気がピンと張り詰めた。
 まめたが、バッグの横でピクリと動き、黒いビーズの瞳で僕をジッと見つめ返した。

「……まめたが? 俺の生気を?」

 僕の告白に、準備室は水を打ったような静寂に包まれた。
 瀬名は目を丸くしたまま、動きを止めている。
 無理もない。
 昨日までただのマスコットだと思っていたものが、自分の命を削る怪異だと宣告されたのだ。
 普通ならパニックになるか、気味悪がって放り投げるはずだ。

 ところが、数秒の沈黙の後。
 瀬名の顔に、パァッとひまわりのような満面の笑みが咲いた。

「マジで!? じゃあ玲央、俺のこと心配して、ずっと俺やまめたのこと観察してくれてたの!?」

「……は?」

「うおー! 玲央、愛してる!! 俺が授業中寝てる時も、ずっと俺のこと見ててくれたんだな!」

「そういう話じゃない!! なぜそうなる、このドアホ!!」

 ガバッ、と。
 僕が避ける間もなく、百八十五センチの巨体が僕にのしかかってきた。
 硬い腕が僕の背中に回り、瀬名の頬が僕の首筋にすりすりと押し付けられる。

「離せ! 不潔だ、暑苦しい! お前、僕の話を聞いていたのか!? 命の危機なんだぞ!」

「聞いてた聞いてた! まめたがヤバいやつなんでしょ? でもさぁ、玲央が俺のためにそんなに必死な顔してくれてるのが、嬉しすぎて……。ほらぁ、俺のバッテリーは玲央なんだし、一緒にいれば問題ないっしょ?」

 瀬名は、本気で一切の恐怖を感じていないようだった。
 自分が喰われようが、怪異に取り憑かれようが『自分を特別な存在として見られている』という事実さえあれば、その他のすべてはどうでもいい。
 そんな、狂気じみたほど純粋な信頼が、彼の言葉の端々から無自覚に漏れ出している。

(狂っている。こいつの思考回路は、完全にぶっ壊れている)

 僕は腕の中でじゃれつく大型犬を引き剥がそうとしながら、自分の心臓が、恐怖とは別の理由で警鐘を鳴らし始めているのを感じていた。
 僕という存在が、こいつの生きる理由そのものになりかけている。
 その重たすぎる感情が、嫌じゃないと思ってしまう僕自身も。

「……いい加減にしろ。問題大ありだ。そのおもち生物(べよ猫)も含めて、現状を放置するのは怠慢だ」

「えー、玲央のケチ。……あ、じゃあさ」

 瀬名がようやく僕から少しだけ体を離し、真面目な顔を作った。

「うちのじいちゃんの蔵、漁ってみない? 妖怪とかそういうの調べてたんなら、べよ猫みたいなヤツの記録も残ってるかもしれないし」

「……」

「それに、玲央の指輪がペカーって光った理由も、分かるかも? 分からないかもしれないけどお」

 瀬名の提案は、この状況下において唯一の論理的なアプローチだった。
 僕は短くため息をつき、瀬名の腕の中から抜け出した。

「……分かった。週末なら時間が取れるから、お前の家に行く。だが、あくまで文献調査のためだ。無駄な接触(じゅうでん)は必要最低限にとどめろよ」

「やった、玲央とお家デート!! 金曜の夜からね! 一緒に帰ろー!」

「デートと言うな!!」

 僕は怒鳴りながら、瀬名のスクールバッグを横目で睨みつけた。
 まめたは、ただのぬいぐるみのふりをして揺れている。

 だが、僕と瀬名が密着していた数分間、その黒いビーズの瞳が、僕を射殺すような色が満ちていたことを、僕は見逃さなかった。