君の影が溶ける前に。〜理系委員長と呪われた大型犬の、不合理な延命プロトコル〜

 地学研究会の指定活動場所は、地学準備室だ。
 古びた標本棚と、重たいカーテンに遮られたこの閉鎖空間。
 部員は三年の部長と同じく三年の副部長、二年生の鯨岡先輩、それから瀬名と僕のわずか五名。
 活動は各自の判断に委ねられている。
 ぶっちゃけて、言ってしまうと、帰宅部に等しい。

 無論、僕的には部活動などという無駄な時間をこの高校で費やすつもりは毛頭無かったのでちょうど良い。
 しかも理科系部活動と言うのは、僕の志望している専攻に、プラスの内申点をもたらす。

 というか、入学して以降、瀬名が地学準備室に足を踏み入れたのは、入部届を提出した日以来じゃないのか!?
 部長も副部長も三年であることも手伝い殆ど顔を出さないし、鯨岡先輩に至っては存在しているにはしているのだがその殆どをフィールドワークに費やしていて学内で見かけるのもレアな存在だ。

 つまり、放課後の地学準備室は、僕にとっての、唯一の安らぎの場の筈、だったのに。
 
(くそ。視界に入るものすべてが、僕の生理的許容範囲を越えている)

 僕は使い捨てのゴム手袋を二重にはめ、目の前の元凶を睨みつけた。
 ステンレスの流し台の中に転がされている、例の茶色い毛玉――不気味なタヌキっぽいマスコットだ。

「……いいんちょお、何してんの? まめたが溺れちゃうよぉ……」

 パイプ椅子に力なく座り、机に突っ伏している瀬名が、掠れた声で抗議してくる。
 さっき教室で倒れたくせに、少し休んだらこれだ。
 顔色は相変わらず死人のように青白いくせに、口だけは動くらしい。

「黙れ、瀬名。こんな得体の知れないものを学校に持ち込むなと言っただろう。いいか、これを見てみろ。毛並みに付着した微細な粉塵、正体不明の粘着質……これは間違いなく、重度の感染症を引き起こす雑菌の温床だ」

「ええ〜、ただの泥だよぉ。山でちょっと転がってただけだって……」

「それが問題なんだ! 野生動物の糞便や寄生虫の卵が含まれている可能性をなぜ考慮しない!? ……お前のその異常な貧血も、おそらくこいつに付着した未知のウイルスによるものだ。異論は認めない」

 僕は迷わず、備え付けの液体ハンドソープをマスコットにぶっかけた。
 ついでに、理科実験用のブラシを手に取り、親の仇と言わんばかりにゴシゴシと、容赦なくその腹を擦り洗いする。

(……きゅぅぅ……!?)

 そんな幻聴が聞こえた気がしたが、無視だ。
 これは科学的な洗浄。
 衛生管理。
 泡まみれになり、無惨に形を歪ませるマスコットを、僕は徹底的にジャブジャブと水に沈めた。

「……で。説明しろ。お前はなぜ、そんな不潔な場所へ行った。この高校の裏山は私有地で、しめ縄まで張られていただろう。不法侵入で内申に響くという想像力も持ち合わせていないのか?」

 僕が吐き捨てると、瀬名は少しだけ気まずそうに、けれどどこか嬉しそうに目を細めた。

「いやさ、地学研究会、学園祭で展示するだろ? いいんちょお、第一志望落ちたのずっと気にしてるみたいだったから……。せめてこの学校で、一番すごい展示をさせてあげたいなーって」

「……は?」

「あそこの奥、すごい綺麗な石がいっぱい落ちてるって噂、聞いたんだよね。ほら、いいんちょお、鉱石とか化石とか好きなんじゃないの? だから、内緒ですっごいの拾ってきて驚かせようとしたんだけど……。そしたら、まめた(・・・)が崖の下落っこちてて、可哀相すぎて連れてきちゃった」

 ……バカだ。
 目の前の男が、想像を絶する大馬鹿野郎であることは知っていた。
 だが。
 僕の、しかも将来的に内申に記載しやすいという理由から選んだだけの、ほぼ帰宅部である地学クラブ展示のために、禁止区域にまで足を踏み入れ、結果として変な病気を拾って?勝手に衰弱しているなど――。

「……救いようのないアホだな、お前は」

「あはは、やっぱ怒るよね……」

「当然だ。僕がそんな小手先の展示で満足するとでも思ったのか」

 心臓の奥が、ちりちりと焼けるように熱い。
 怒りか、それとももっと別の、言語化できない不合理な感情か。
 僕は濡れたマスコット――瀬名の名付けによると『まめた』を雑にタオルで包むと、瀬名の元へ歩み寄り、その額に手を当てた。

「っ……! あー、つめたい……気持ちいい……」

「熱はないな。やはり極度の疲労と栄養不足だ。……いいか瀬名、二度とあんな場所へは行くな。それから、こいつは……」

 タオルの隙間から、まめたが恨めしそうに僕を睨んでいる気がした。
 気のせいだ。
 これはただのポリエステルと綿の塊。

「完全に消毒したのち、僕が管理する。お前に持たせておくと、またどこに投げ捨てるか分かったもんじゃない」

「えっ、いいんちょお欲しいの!? やった! まめた、良かったな、いいんちょおに気に入ってもらえて!」

「気に入ったなどと言っていない! ……離せ、瀬名。お前、抱きつくなと言っているだろ……っ」

 瀬名が「だって、充電……」と呟きながら、僕の腰に力なく腕を回してくる。
 体は筋肉質で固いのに、しがみついてくる力は驚くほど弱々しい。

 男子校の、放課後の、二人きりの準備室。
 石鹸の香りと、瀬名の微かな熱。
 おい、やめてくれ。
 僕を、未知の領域に、引き摺りこまないでくれ。

 それなのに僕は「――消毒が台無しだ」と毒づきながらも、その茶色のクセっ毛を、払いのけることができなかった。




 僕はいつものように、一刻も早くこの低偏差値な空間から脱出しようと駅へ向かうはずだった。
 そう、瀬名に、捕まらなければ。

「……まってよぉ、高宮ぁ〜! いいんちょおおお! 置いてかないでよおおお!!」

 情けない叫び声とともに、ガシャンガシャンと派手な音を立てて瀬名が走ってきた。
 いや、正確には「パンクして使い物にならなくなった自転車」を引きずりながら、だ。

「……瀬名。お前は毎日、何かしらのトラブルを起こさないと死ぬ病気なのか?」

「違うってぇ! 駐輪場行ったら、前後のタイヤに画鋲がこれでもかってくらい刺さってて……。呪いかな!? もしかして、まめたの呪いかな!?」

 瀬名が、僕にジャブジャブ洗われて少し毛が逆立っている、マスコットを指差す。

「呪いなわけがあるか。単なる嫌がらせか、お前の自業自得だ。……僕は電車だ。お前は大人しく自転車を押して帰れ」

「ええっ、無理だよ! 今日マジで力入らないんだって……あ、……れ?」

 瀬名の足が、目に見えてもつれた。
 百八十五センチの巨体が、糸の切れた操り人形のようにグラリと揺れる。

「おい、ふざけるな! 倒れるなら……っ」

 毒づきながらも、僕は反射的にその体を受け止めていた。
 ドサリ、と重たい衝撃が僕の肩にのしかかる。

(……重い。なんだこいつ、筋肉の塊じゃないか)

 僕の視界は、瀬名の白いワイシャツの胸元で埋め尽くされた。
 僕の頭のてっぺんが、ちょうど瀬名の顎の下あたりに来る。
 十五センチメートルの差。
 普段は見上げている傲慢なアイドル顔が、今は僕の肩口に無防備に埋められている。
 瀬名の吐息が、僕の首筋に直接かかって――。

「……っ、……瀬名、離せ。重いと言っているだろ」

「……ん……あれ。……高宮……?」

 瀬名が、僕の肩を掴む手に力を込めた。
 すると、さっきまで死人のようだった奴の瞳に、じわじわと光が戻ってくる。

「……すごい。いいんちょおに触ってると、……なんか、頭のモヤモヤが消えていく。……なんかじわじわと回復する感じこれ……」

「はあ? 意味の分からないことを言うな。お前、僕を何だと思っているんだ」

「これは……モバイルバッテリー……。高宮は、俺の専用モバイルバッテリーだ……!」

「誰が周辺機器だ、ぶち殺すぞ」

 僕は悪態をつきながらも、フラフラの瀬名を支えて駅へと歩き出した。
 瀬名は左手でパンクした自転車を押し、右手で僕の肩をがっしりと抱き寄せている。
 側から見れば、部活帰りの親友同士。
 あるいは、それ以上の何かに見えているかもしれない。
 困る。非常に、困る。

「……おい、瀬名。今すぐその腕を退かせ。……それか、そのタヌキをどうにかしろ」

「え、まめた? まめたがどうかした?」

「……それ、動いたぞ。今、僕の肩を登ろうとして、爪を立てた」

 自分でも何を言っているのか分からないけれど、ともかく僕は事実を早口で告げた。
 瀬名がぽかーんとした顔でこちらを見返してる。

「大丈夫? いいんちょお、お疲れ気味?」

「お前が重すぎるんだよ!」

 結局、瀬名の手によって奪い返され、彼のバッグで揺れているまめたが、一瞬、僕の方を向いてえへへと笑った気がした。


 夕焼けに染まる通学路。
 重なり合う二人の影と、その影の間で蠢く小さな茶色の塊。
 僕は、自分の心臓が瀬名の体温に同調して、速くなっていくのを止めることができなかった。

「……いいから、離せと言っているだろ。駅はあっちだ」

「む、無理だよぉ。高宮が離れたら、俺、その場で干からびて煮干しになっちゃう予感。ねえ、ついでに家まで送ってってよぉ……」

「はあ!? なぜ僕がお前の家まで――」

「パンクした自転車、置いてけないしー。それに俺、いま一人だからさ。家で倒れても、誰も見つけてくれないしー」

 瀬名が、冗談めかして、けれど少しだけ寂しそうに笑った。
 こいつの両親が事故で他界していることは、クラス委員の仕事でふんわりと知っていた。
 隣県からこの町に来て、今は入院中のお祖父さんの留守を預かっているんだとか。

(このバカが一人で)

 不覚にも、胃のあたりが少しだけ重くなった。
 僕は舌打ちを一つ。

「……三十分だけだ。それ以上は延長料金を取るからな」

「やったぁ! さすが俺のモバイルバッテリー!」

「周辺機器扱いはやめろと言っているだろうが!!」

 結局、僕は駅とは逆方向へ、瀬名の自転車を片手で支え、もう片方の肩を瀬名に貸しながら歩き出した。
 瀬名の家は、町の外れにあった。
 歴史を感じさせる立派な門構えに、瓦屋根の大きな主屋。
 そして、その奥には重厚な扉の蔵が見えた。

「……ここか。無駄に広いな」

「でしょー? 掃除がマジで大変。あ、高宮、適当に上がって。麦茶くらい出すよ」

 玄関を上がると、廊下には古びたショーケースが並んでいた。
 その中には、アンモナイトや三葉虫……僕が喉から手が出るほど欲しがっていた、保存状態の良い化石がずらりと並んでいる。
 白いプレートの隅に「地学博士:瀬名弦之介」という名が記されている。
 え、瀬名の祖父って、あの鉱物学者の瀬名博士なのか!?

「これ、じいちゃんの趣味。俺は興味ないんだけど、高宮なら喜ぶかなーって」

「趣味ってレベルじゃないだろ。お前、瀬名博士のお孫さん……いや、感心している場合じゃない」

 僕は視線を外そうとしたが、隣の部屋の机に置いてあるものに目を奪われた。
 繊細な細工が施された、シルバー細工のリングやペンダント。

「あ、それ俺の趣味。鉱石とか嵌めるのが好きなんだよね。……いいんちょおにも、なんか作ってあげようか?」

 筋肉質の、無骨な瀬名の手。
 そこから、こんなにも美しく、今にも壊れそうなほど精密な作品が生まれるのか?

「いらない。それより、お前は早く休め」

 僕は瀬名を、ソファに押し倒すように座らせた。
 離れようとした瞬間、瀬名が僕の制服の裾をぎゅっと掴む。

「……いいんちょぉ。……まだ、行かないで。……もう少しだけ、充電させて……」

 見上げれば、夕闇の入り込む室内で、瀬名の瞳が熱っぽく揺れていた。
 その肩越しに、バッグから這い出したらしきまめたが、ちょこんと座ってこちらを見ている。
 まめたの小さな瞳が、僕と瀬名、そして部屋に落ちる二人の影を交互に見つめ、あざとく首を傾げた。

「……おい、瀬名。そのタヌキ、また動いたぞ。こっちみて、笑った。――ような気がした」

「え〜? 気のせいだって。……それより、……もっと近くに来てよ、いいんちょ――玲央」

 唐突に、下の名前で呼ばれた。
 その響きに、心臓が跳ねる。
 
 古い家特有の、冷ややかな空気。
 なのに、僕の裾を掴む瀬名の指先だけが、火傷しそうなほど熱かった。