君の影が溶ける前に。〜理系委員長と呪われた大型犬の、不合理な延命プロトコル〜

 赤黒い空の下、絶え間なく石が悲鳴を上げる河原。
 僕は、水際に立ち尽くす瀬名の背中に歩み寄り、いつも通り、努めて平坦な声をかけた。

「こんな不衛生な川を眺めていないで、さっさと帰るぞ」

 瀬名は、振り返らなかった。
 ただ、その大きな背中がひどく頼りなく揺れた。

「……俺さ。高校の入学式の直前に、父さんと母さん、ここで亡くしたんだ」

 ポツリと、瀬名が口を開いた。
 幼児のように泣き喚くわけではない。
 現実を理解してしまった等身大の高校生としての、冷たくて重い絶望だった。

「一人だけ世界にとり残されてさ。親戚の家をあっちこっちたらい回しにされて。俺、毎日思ってた。なんで俺だけ置いていったんだよって。……ぶっちゃけ、あっちの世界から呼ばれた時、ちょっとホッとしたんだ。ああ、母さんと父さんが、やっと迎えに来てくれたって」

「…………」

 言葉が出なかった。

 『生きていればいいことがある』
 『ご両親の分まで生きろ』

 そんなありきたりな言葉が、どれほど薄っぺらく、この圧倒的な喪失の前で無力なのか。
 ただの高校生でしかない僕の思考回路は、完全にフリーズしていた。

(……くそ。……言葉が見つからない。だが、このままこいつの意識を『死』に向けさせておくわけにはいかない! 何か……何か、強烈なショックを与えて、意識をこちら側に向けさせないと……!!)

 思考をフル回転させる。
 そして、すでにこの長野での連続する怪異と接触で、理性も羞恥心も『やけくそ』になっていた僕は、おもむろに羽織っていたジャージを脱ぎすて、Tシャツもむしり取るようにはぎ取った。

「……え。……れ、玲央?」

 背後の気配に気づき、振り返った瀬名が目を丸くする。
 僕は無言のまま、ジャージの腰に手をかけた。

「ちょっ、おま、何して……! ここ、俺の心の中の超シリアスな領域なんだけど……!!」

「うるさい! 見ればわかるだろう、水着に着替えているんだ!!(※下着です)」

 僕は、ほぼパンツ一丁)になり、冷たい河原の風を全身に受けながら、瀬名を真っ直ぐに指差した。

「おい、瀬名! 僕と競争しろ!!」

「……はぁ!?」

「ここが三途の川だろうが何だろうが知ったことか! 対岸まで泳いで、先にタッチして戻ってきた方の勝ちだ!! 負けた方は、残りの高校生活、ずっと購買の人気一位やきそばパンのパシリだからな!!」

 瀬名の顔から、絶望もトラウマも、少なくともこの瞬間だけは、完全に抜け落ちていた。
 目の前でパンツ一丁になって「三途の川らしき場所で水泳大会」を宣言する、頭のおかしくなった僕を呆然と見つめている。

「……れお、お前……正気か……?」

「僕はいつだって論理的で正気だ!! なんだ、その筋肉はただの飾りなのか!? 僕たちの現実世界に戻るのが怖いなら、そこで一人で石でも積んでいろ! 僕は行くからな!!」

 僕は準備体操もそこそこに、どう見ても入ったら即死しそうな色合いで淀んだ川に向かって、本気でクラウチングスタートの構えをとった。

「ばっ……バカ!! お前が死ぬわ!!」

 ――ガシッ!!

 僕が川に飛び込もうとした瞬間、背後から瀬名の太い腕が伸び、僕の細い胴体を力任せに抱え込んだ。

「離せ! 進路妨害行為でお前は失格だ!!」

「妨害行為じゃねぇよ! お前マジで何考えてんだよ!! こんな川泳げるわけないだろ!! つーか、服着ろ! 腹下してもしらねぇぞ!」

 瀬名が僕を羽交い締めにし、ズルズルと川辺から引きずり離す。
 その顔は、先ほどまでの「死に惹かれる虚ろな表情」ではなく、僕の奇行に対する「本気のツッコミと焦り」で、生気に満ち溢れていた。

「……なんだ。……お前、僕の腹の冷えを心配する余裕はあるんじゃないか」

「……え」

 僕が背中越しに鼻で笑うと、瀬名の動きがピタリと止まった。

「……お前の過去は変えられない。だけど、今お前の目の前で、腹を冷やしそうになっている同級生の未来を案じて、止めることはできる。……そうだろ」

 瀬名が、ゆっくりと僕の身体を自分の胸元へと抱き寄せ直した。
 背中から伝わる、瀬名の鼓動。
 それは間違いなく、生きたいと脈打つ、力強い生命の音だった。 

(……本当に、こいつが無事でよかった。このバカのうるさい熱が、僕の世界から消えなくてよかった)

「俺も! 玲央のあったかい熱が消えなくて、本当によかった!」

「……なっ!?」

 僕は弾かれたように瀬名の腕から抜け出し、前身頃あたりをかき合わせようと、空を指で引っかきながら後ずさった。
 勢い余って脱いだんだった。

「ぼ、僕、今、声に出して……!?」

「え? ううん、声は出てないよ。なんか、頭の中に直接玲央の声が響いてきた。すっげー素直で可愛い声。これって愛のテレパシーとかいうやつ!? 相思相愛系!?」

「……っ、ふざけるな! 僕たちは現在進行形で、恐らくお前の精神世界にダイブ中だから、脳波のシグナルが混線しているだけだ! ……最悪だ、思考のプライバシーがゼロじゃないか!!」

 僕は顔から火が出るほどの羞恥に襲われ、大急ぎでジャージを拾い上げて袖を通した。
 この空間にいる限り、僕の心の中の『瀬名に対する不合理な感情(デレ思考)』が筒抜けになってしまう。これ以上の滞在は、僕の尊厳の死を意味していた。

「おい、パパうえ! もう用は済んだだろう! とっとと僕たちを元の世界へ帰せ!!」

 虚空に向かって叫んでみるが、赤黒い空からは何の返答もない。
 謎空間に僕たちを送り込んだ張本人。
 和装の人外イケメンは、完全にだんまりを決め込んでいるようだ。

「玲央、あそこ見て。なんか看板みたいなのが立ってる」

 瀬名が指差した先。
 河原の少し開けた場所に、古びた木の立て札が突き刺さっていた。

『賽の河原臨時特別ルール:この河原の石を一つ残らず積み上げ、塔を完成させし者のみ、現世への帰還を許す』

「……石積み、だと?」

 周囲を見渡す。
 河原には、数え切れないほどの石がゴロゴロと転がっている。
 これをすべて積み上げるなど、物理的にも時間的にも途方もない作業だ。

(……だが、やるしかない。地道な単純作業なら、理系の僕の得意分野だ。構造力学に基づいて、最も安定するピラミッド型に……)

 僕は足元にあった手頃な石を一つ、拾い上げた。

「よし、瀬名。まずは基礎となる石の選定から……って、ん?」

 拾い上げた石の表面を、無意識に指でなぞる。
 ……おかしい。
 この比重。
 この滑らかな劈開面(へきかいめん)
 そして、赤黒い空の下でも妖しく光る、この紫色のガラス光沢。

「……ま、まさか。……八面体の結晶構造……これは、最高純度の蛍石(フローライト)か!?」

 僕は息を呑み、足元に転がる別の石を拾い上げた。

「こっちは……嘘だろ、ネイティブ・ゴールドの塊!? いや、待て、あそこで光っているのは……博物館クラスのレッドベリルだと!?」

 ただの石ころだと思っていた河原の石が、すべて『規格外のレア鉱石』だったのだ。
 地学研究会副部長としての、いや、一人の鉱物オタクとしての血が、ドクンと激しく沸騰した。

「す、すごい……! 宝の山だ! こんな完璧な結晶、市場に出たら数百万は下らないぞ!! これも、これも……っ!!」

「うおおお! マジだ、玲央! すっげえ綺麗な石ばっかり!」

 隣で瀬名も歓声を上げている。
 彼の手には、星空を閉じ込めたような最高級の青金石(ラピスラズリ)と、純白のプラチナの原石が握られていた。

「見て見て俺が拾ったやつ。これ、めっちゃ加工しやすそうじゃねぇ? まずプラチナを叩いて伸ばして~、この石を嵌め込んだら……玲央に絶対似合う『ペア・エンゲージリング完全版』が作れる!! うわ、デザインのインスピレーションがガンガン湧いてきた!!」

 瀬名がその場にしゃがみ込み、石を並べてブツブツと独り言を言い始めた。
 僕もまた、ジャージのポケットというポケットに、レア鉱石を狂ったように詰め込み始めていた。

『……あと三個、いや、この自然銀も持って帰って分析を……!!』

『玲央の薬指のサイズに合わせて、ここは透かし彫りにして……!』

 テレパシーでダダ漏れになるお互いの欲望。
 賽の河原の脱出条件である「石を積み上げる」というミッションは、とっくの昔に僕たち二人の脳内から完全に消し飛んでいた。

 幻界の最も恐ろしい罠である。
 恐怖や絶望ではなく、対象の『最大の執着と欲望』を与え続けることで、永遠にこの世界に縛り付ける甘い誘惑。

 ポケットが希少鉱石の重みではち切れそうになった、その時だった。

「いおりん、れおー、なにのろのろしてるぽん! まちくたびれたぽん!!」

 ――ドスッ!!

 赤黒い空が突然ひび割れ、そこから毛玉のような物体が二つ、僕たちの頭上へ垂直落下して転がった。

「痛っ……! な、なんだお前ら! まめたとべよ猫か!?」

「ぱぱうえ、もうあきてきたっていって四国に帰っちゃうぽん! このままじゃ、まめたたち、この世界においてけぼりだぽん!!」

 まめたが短い手足をバタバタさせて半泣きになっている。
 その後ろでは、べよ猫が耳を伏せて、どことなくしょんぼりとした様子で僕の足元に擦り寄ってきた。

(……はっ。僕は、何をしているんだ……!?)

 まめたの抗議の声で、僕の脳内にこびりついていた「鉱物収集」の甘い靄が、スッと晴れた。
 そうだ。
 僕は瀬名の失われた影を取り戻すために、わざわざパパうえに方法を教授してもらい、瀬名の抱えるトラウマの領域までダイブしてきたのだ。
 希少鉱石に目を輝かせている場合ではない。

「瀬名! 正気に戻れ! 石を並べてニヤニヤしている場合じゃないぞ!」

「えっ? あ、玲央。ごめん、ついこのシルバーとゴールドの加工手順に夢中になっちゃって……」

「デザインは現世に帰ってから勝手にしろ! いいか、この河原の臨時ミッションをクリアしなければ、僕たちは永遠にここから出られないんだ!」

 僕はポケットに詰め込んでいたフローライトやネイティブ・ゴールドを名残惜しくもすべて地面にぶちまけ、立て札を指差した。

『この河原の石を一つ残らず積み上げ、塔を完成させし者のみ、現世への帰還を許す』

「物理法則を無視した悪趣味な無理ゲーだが、ルールが明確に提示されている以上、解法は必ず存在する。瀬名、お前のその無駄に鍛え上がった筋肉を使う時が来たぞ。喜べ」

 僕が号令をかけると、瀬名が「おっ、任せろ!」と立ち上がった。
 
「瀬名はとにかく周辺の石を集めろ! 大きい石から順に、僕の指示した座標へ運ぶんだ。……べよ猫! お前は発光器官()があるだろう、僕の足元と図面を照らせ!」

「べよぃっ」

 べよ猫が嬉しそうに鳴き、自らの白いおもちボディをボワァッと蛍のように発光させた。
 いや、僕は目が光るものだと思っていたのだが、本体が光るのか。
 まあいい、完璧な照明器具だ。

「よし。……で、まめた。お前は何ができる」

「まめたは、いおりんとれおーの愛のきょうどうさぎょうをぜんりょくでおうえんするぽん! フレー♡ フレー♡ だぽん!」

「役に立たねえな! べよ猫以外は!!」

 僕は舌打ちをしながらも、べよ猫の光を頼りに、湿った砂地に指で巨大な円を描いた。

「いいか、瀬名。ただ高く積むだけでは、自重とバランスの崩れで必ず崩壊する。この河原の石をすべて使い切るには、構造力学に基づく完璧なフラクタル構造……『ジッグラト(巨大聖塔)』の形状を構築する必要がある」

「じっぐらと?」

「古代メソポタミアの階段状ピラミッドだ。底面積を最大化し、安息角を計算して石の摩擦を噛み合わせる。僕が重心を計算して石の配置を指示する。お前はひたすら運べ!」

「了解、玲央ママ!」

「ママじゃないっ」

 そこからの僕たちは、文字通り機械のように動いた。
 僕の脳内はフル回転し、次々と運ばれてくる不規則な形の石たちを、パズルのように完璧な力学バランスで組み上げていく。

『玲央、すっげえ! 天才!! かっこいい!!』

 思考がダダ漏れだと言っているだろうが。
 気の散る念を送ってくるな。

 瀬名の脳内からの「玲央かっこいい」という激甘な賞賛(テレパシー?)赤面させられながら、僕は塔の設計に没頭した。
 
 巨大な土台が組み上がり、二段、三段と塔が高くなっていく。
 瀬名の圧倒的な体力と、僕の緻密な計算。
 そして、暗闇を照らすべよ猫と、横でポンポコと腹鼓を打つ使えないタヌキ。

 赤黒かった幻界の空が、少しずつ、僕たちが組み上げる塔の頂に向かって、ひび割れ始めていた。

「……よし。これで最後だ」

 瀬名から手渡された最後の石――幻界に落ちていた星空のような青金石(ラピスラズリ)を、僕はジッグラトの頂上へと慎重に配置した。

 カチッ、と。
 完璧な安息角で石が噛み合い、巨大な塔が完成したその瞬間。

 ――パァァァァァァンッ!!

 僕たちが協力して組み上げた塔が眩い光を放ち、赤黒かった空がガラスのようにパリーンと砕け散った。

「うわっ……!?」

「玲央!」

 瀬名が僕を庇うように抱きしめる。
 視界が白く染まり、再びあの「水底から浮上するような」浮遊感が僕たちを包み込んだ。



「……んっ、……」

 頬を撫でる、冷たくて湿った風。
 目を開けると、そこは再び長野の山奥。
 しめ縄が張られた、巨大な岩穴の前だった。

「玲央! 無事!? どこか痛くない!?」

「……うるさい、僕は無事だ。……それより、お前の足元を確認しろ」

 僕が指差すと、瀬名がハッとして自分の足元を見下ろした。
 木々の隙間から零れ落ちる明かりの下、そこには瀬名のシルエットをそのまま映した、濃くてくっきりとした『影』が伸びていた。

「影が……戻ってる! 俺、ちゃんと世界に存在してる!!」

『――精神世界を踏破したか。成程』

 岩穴の前に立つ、和装の美男子が、満足げに目を細めて僕たちを見下ろしていた。

『過去の喪失を乗り越え、共に塔を組み上げた。……お前たちのその「睦み合いの力(ラブパワー)」の純粋な精神性の高さは、どうやら我ら怪異が最も好む、極上の美味であるらしい』

 パパうえが優雅に扇子を広げ、口元を隠してふふっと笑う。

『まめたよ。お前の主の心の欠損は埋まった。……これにて、真名の呪いによる主従契約を解く。いいな?』

 パパうえが扇子を振ると、瀬名の首元のチョーカーとまめたを繋いでいた「見えない糸」のようなものが、ふつりと切れる音がした。
 これで瀬名の生気が吸われることは、もう無い……だろう。

「……えー。もうすこし、一緒にいたいぽん……。おなまえ、きにいったぽん」

 瀬名の胸元から顔を覗かせたまめたが、ぽてっと地におちる。
 短い耳をペタンと伏せて、ひどく名残惜しそうに瀬名の足にすり寄った。
 べよ猫も、なんだか悲しそうな声を上げて、まめたの背中に身体をこすり付けている。

『ならぬ。ママ上の許可なくして、これ以上の遠出は赦されぬ、まめたよ』

 威厳に満ちた声で、恐妻家の片鱗をみせながらも、パパうえが厳しくたしなめた。

「なあ、まめた」

 瀬名がしゃがみ込み、まめたの頭を大きな手で優しく撫でた。

「お前のおかげで、俺、玲央とすっげえ仲良くなれたし。なんか、一緒に飯つくったり、だべったり、楽しかったよ。……ありがとな、まめた」

「きゅぅん。いおりん、れおー、元気でぽん。またいつか、極上の愛しみを食べさせてほしいぽん……」

 まめたが、涙目で僕の方を見上げる。
 僕は、心を鬼にして、そっぽを向いた。

「二度とご免だ。こんな非科学的なバケモノ騒ぎに関わるのは、これが最初で最後だ」

 そう毒づいたものの。
 僕の声は、自分でも驚くほど優しく、少しだけ震えていた。
 
 憎たらしいタヌキだった。
 僕から論理と平穏を奪い、瀬名の命を脅かした元凶。
 だが、この数ヵ月を共に駆け抜けたのも事実だ。

「気が向いたら、地質調査のついでに、顔くらいは出してやってもいい」

「きゅるるん♡ れおー、ツンデレだぽん! まめたのこと大好きだぽん!!」

 まめたが最後に僕の足首に抱きつき、ぽわぽわの毛並みを擦り付けた後、パパうえの足元へとトコトコと駆けていった。

『ではな、人間の子らよ。……末長く、睦み合うがよい』

 パパうえが優雅に一礼する。
 次の瞬間、ふわりと強い風が吹き抜け、岩穴の前から、揶揄うような視線を残して和装の美男子と小さなタヌキの姿は、幻のようにかき消えていた。

 後に残されたのは、静寂を取り戻した山奥の緑。
 一組の男子高校生である僕たち。
 そして、瀬名の足元にちゃっかりと残っているべよ猫だけ。

「ミッション遂行だ」

 僕たちは、どちらからともなく手を伸ばし、お互いの指を強く絡ませた。

「パパうえさー声、すっげーかっこよかったな。俺ちょっと負けた気がするわ」

「感想はそれかよ! この、死に損ないの筋肉ダルマ!!」
 
 僕の絶叫が、木々の向こうに見える澄み切った蒼空に響き渡った。