「一学年の必修科目だからな。僕たちには、鉱物標本の採取という明確な目的がある。昨夜のような……その、非論理的な行為を期待するなよ」
「どうしよっかなー! 俺、今日すっげー足が軽いんだよね。昨日の特濃充電のおかげかなぁ?」
サマースクール二日目。
僕たちは一学年の課題であるフィールドワークのため、研修所の裏手から続く渓流沿いの登山道を登っていた。
昨夜、あれほど衰弱していたはずの瀬名は、信じられないほどの回復を見せている。
認めたくないが、僕の生気が、昨夜の常識を超えた接触によって、過剰供給された結果だ。
「それならしばらく必要ないな。さっさといくぞ」
「きゅるるん♡」
瀬名の首元から顔を出したまめたが、るんるんと上機嫌で鳴いている。
瀬名の影を食うよりも、僕たちの、まめた曰く――愛しみ、を吸っている方が効率がいいと気づいたらしい。
足元では、べよ猫までが軽快なステップで僕の足にまとわりついてくる。
こいつらは、僕たちの過剰接触を栄養源にする、共生生物と化していた。
べよ猫は無害だと思っていたのに。
腹辺りをたぽたぽと揺らしながら歩くその姿は、飼い主による愛情過多の結果、太った猫にしか見えない。
(不本意だ。あんな恥ずかしい事された挙句、バケモノどもが太っていくなど……)
「あ! 玲央、見て見て! あそこの岩場、すっげえ綺麗な石英が混ざってるじゃん!」
瀬名が子供のように声を上げ、清流の真ん中にある大きな岩へと飛び移った。
標高が高くなるにつれ、水の透明度は増していく。
「おい、危ないぞ! 濡れた石の上は摩擦係数がな」
「大丈夫、大丈夫! ……っと、わぁぁぁ!?」
――バシャァァァン!!
豪快な水音とともに、お約束のように瀬名の巨体がクリスタルのような飛沫を上げて渓流へと沈んだ。
「この、ド低脳が!!」
僕は慌てて駆け寄り、びしょ濡れになって這い上がってきた瀬名の腕を掴んだ。
「えへへ。つめてぇ」
「笑い事か! 山の水を舐めるな、すぐに体温を奪われる。おい、ジャージが完全に吸水しているじゃないか。このままでは低体温症を招くぞ」
僕は周囲を見渡し、大きな岩の影にある、日当たりの良い砂地へと瀬名を引っ張っていった。
人跡未踏の、静かな河原。
聞こえるのはせせらぎと、まめたとべよ猫の気配。
「脱げ、瀬名」
「えっ……? ここで?」
「当たり前だ。濡れたままでは、僕がどれだけ充電しても追いつかない。さっさと脱いで、その岩の上で乾かせ。これは、救急法に基づいた論理的な指示だ」
瀬名が「ふうん?」と目を細めながら、ゆっくりと濡れたジャージのジッパーを下ろす。
水を含んで肌に張り付いた白いTシャツが、透けて彼の鍛え上げられた胸板の輪郭を露わにしていた。
滴る水滴が、首元のシルバーチョーカーを伝い、鎖骨のくぼみへと吸い込まれていく。
僕は思わず目を逸らしたが、瀬名の腕がすかさず伸ばされた。
「つーかさ、裸じゃ寒いから、もちろん充電しててくれるんだよね? 玲央くーん」
濡れそぼった瀬名の指が、僕の指に絡んでいく。
まめたとべよ猫が、待ってましたと言わんばかりに、僕たちの周囲で期待に満ちた声を上げた。
「でもさー、俺だけ裸なの恥ずかしくない? ねえねえ」
「結合だぽん♡」
「べよべよべよ♡」
「な、な、何を……っ、何を抜かしているんだ、このド低脳集団が!」
僕は沸騰しそうな顔面を隠すように、濡れそぼった瀬名の指を振り払った。
視界には、水滴を弾く瀬名の逞しい胸板と、その中央で鈍く光るシルバーチョーカー。
視覚情報の暴力だ。
処理能力を超えた僕の脳内では、警告音が鳴り響いている。
「だってさぁ、俺だけ裸で玲央が服着てるの、不公平っていうか恥ずかしいな〜。ねえ、玲央くーん?」
ニヤニヤと、獲物を追い詰めるような笑みを浮かべる瀬名。
このバカ、昨夜のことで僕の弱点を完全に学習したな。
「知るか! 僕は、……僕はあっちの地質調査をしてくる! そこでジャージと体を干してろ、バカ!!」
僕は逃げ出した。
論理も理性も放り出し、瀬名の熱が充満する空間から脱したかった。
だが、動揺しすぎた僕の足元は、もはや理性的な感覚。接地面への注意、を失っていた。
「あっ、おい、玲央!」
瀬名の制止が聞こえた瞬間。
「……え」
――グキッ!!
不自然な角度で地面を蹴った僕の右足首が、激痛を訴えた。
岩の隙間に空いた、ちょっとした窪み。
そこに吸い込まれるように転倒した僕は、みっともなく砂地に這いつくばることになった。
「いっ、……つぅ……」
「玲央! 大丈夫か!?」
一瞬で瀬名が駆け寄ってくる。
上半身裸のまま、僕の身体を軽々と抱き起こすその腕が、悔しいほどに温かくて力強い。
「離せ。自業自得だ。……っ、ひねっただけだ……」
「全然大丈夫じゃないだろ。よし、おんぶしてやるから、掴まれよ」
瀬名が僕に背中を向ける。
広くて、熱くて、大きな背中。
ここで素直に応じたら、僕の委員長としての、いや、一人の男としての尊厳が完全に消失する。
「断る。歩ける。……一歩一歩、慎重に加重すれば……問題ない」
「無理無理。あ、じゃあ、お姫様抱っこの方がいい?」
「は? な、何を——」
――ひょいっ、と。
「……っ!? ……な、……っ、……おろせ! おろせと言っているだろう、この筋肉ダルマ!!」
視界が浮き上がり、僕は瀬名の腕の中に横たわる格好になっていた。
いわゆる、お姫様抱っこ。というやつ。
山奥とはいえ、男子高校生が男子高校生を抱え上げ、顔を至近距離で見合わせているこの状況。
社会的な抹殺を意味している。
「え〜、おんぶよりこっちの方が玲央の顔よく見えるし。充電効率も高そうだよ?」
「ふざけるな! 見るな! ……わかった、わかったから!! ……おんぶでいい!! おんぶにしろ!!」
暴れる僕に困ったように笑い、瀬名は僕を一度地面に下ろした。
そして再び、逞しい背中を僕の前に差し出す。
「…………」
「ん? 玲央。……それは『お願い』かな? 『お願い』ならちゃんと言わないとダメだよ? 優等生の玲央くんならちゃんと、言えるよねー?」
瀬名が肩越しに、意地の悪い、けれど最高に嬉しそうな瞳で僕を覗き込んだ。
「……っ、……く、……っ!!」
僕は唇を噛み締め、爆発しそうな羞恥心を気合で飲み込んだ。
今の僕には、このバカの背中に縋る以外の選択肢が、論理的に残されていない。
「……あ、……足を捻って自力での歩行が困難なのでおんぶしてください!! ……これでいいだろう!!」
やけくそで叫んだ僕に、瀬名は満足げに目を細めた。
「ん、いいこ」
瀬名が僕の額に、そっと、慈しむような口付けを落とした。
でこ、ちゅー。
唇が触れた部分から、甘ったるい痺れが全身に広がる。
「さいこーにえもいぽん! 愛しみ~うまいぽん」
「べよべよ〜♡」
まめたとべよ猫が、僕たちの周りを狂ったように飛び跳ねる。
僕は顔から火が出るどころか、存在が消滅してしまいそうなほどの熱を感じながら、瀬名の首筋にしがみつくしかなかった。
(……こんな、……っ……!!)
★
瀬名の広く温かい背中に揺られながら、僕は完全に毒気を抜かれていた。
伝わる体温と、一定のリズムで揺れる心地よさ。
足首の痛みも、血流促進のおかげか、ずいぶんと和らいでいる。
だが。
ふと、視界の端をよぎった光景に、先程から感じていた違和感が警鐘を鳴らした。
「……おい、瀬名。止まれ」
「んー? どうしたの玲央。俺の背中、乗り心地悪い?」
「そうじゃない。……僕たち、さっきからずっと、同じところを歩いているぞ」
僕が瀬名の肩を叩くと、彼は呑気に「えー?」と首を傾げた。
「そうー? 山なんて木と岩と葉っぱばっかりで、どこも似たようなもんでしょ。玲央、考えすぎだって」
「違う! 植生の分布、岩のフラクタル構造、どれもさっきと完全に一致している。それに、あそこにある古びた祠。あれは十五分前にも見た!」
僕は、獣道の脇にひっそりと佇む、苔生した小さな石の祠を指差した。
屋根の一部が欠け、赤いよだれかけをした石仏が首を傾げている、不気味な祠だ。
間違いなく、これで三度目。
僕たちは、この蓼科の山中で空間のループに陥っている。
そう認識した瞬間、周囲の木々のざわめきが、急に意志を持ったような気配を帯びた気がした。
「え、マジで? あー、でもなんか、急に霧が出てきたかも」
瀬名が立ち止まる。
いつの間にか、足元を白く濃い靄が覆い始めていた。
夏場の山特有の現象だという論理的解釈は、僕の肌を撫でる氷のような冷気の前では無意味だった。
るんるんしていたはずのまめたが、急に「きゅ、きゅぅ……」と怯えたように奥へ潜り込む。
べよ猫も、瀬名の足首に縋り付いてブルブルと震え出した。
『――……たか、みやぁ……』
「……っ!?」
霧の奥から、声が聞こえた。
『……せなぁ……おーい……どこだぁ……』
それは、地学研究会の元部長の声だった。
だが、おかしい。
彼らは研修所で赤本と格闘しているはずだ。
こんな間延びした、抑揚のない声で僕たちを探しに来るはずがない。
「あれ、部長の声じゃん。玲央、探しに来てくれたのかな? おーい、こっち——」
「バカ、返事をするな!!」
僕は咄嗟に、瀬名の口を両手で強く塞いだ。
僕の体重が背中にかかり、瀬名が「んぐっ!?」とバランスを崩しそうになるが、それどころではない。
(これは先輩じゃない)
僕は鯨岡先輩から借りた本のページを、脳内で捲る。
長野県をはじめとする山間部に伝わる怪異『ヒトゴエ』
正体不明の音が、知人の声を真似て呼びかけ、返事をした者を山の深い迷宮へと引きずり込む。
無論、そんなものは民俗学の伝承に過ぎない。
今、物理的な音波となって僕たちの鼓膜を揺らしている、これは。
『……れおぉ……いおりぃ……こっちだよぉ……』
今度は、女性の声になった。
瀬名の身体が、ビクリと大きく跳ねる。
「……っ、かあ、さん……?」
瀬名の声が震えていた。
亡くなったはずの母親の声。
それを聞いた瀬名の足が、無意識に霧の奥——声のする方へと一歩踏み出そうとする。
「瀬名! 動くな! 耳を貸すな、あれは音響的な幻覚だ! お前の記憶を勝手に読み取って再生しているだけの、一時的な誤作動だ!!」
僕は瀬名の首に腕を巻きつけ、自分の胸に彼の頭を強く抱き込んだ。
シルバーリングとチョーカーが危険を知らせるようにギリギリと熱を帯びる。
「……でも、……かあさん、が、俺を呼んでる……」
「僕の声だけを聞け! お前は僕に管理されているんだろうが! 返事をしたら、本当に『あっち側』に連れて行かれるぞ!!」
僕は背中の上で、そう叫び、瀬名の耳を塞いだ。
霧はさらに濃くなり、声は四方八方から僕たちを包み込もうと迫り来る。
山そのものが持つ土着の悪意が、僕たちという異物を飲み込もうと口を開けていた。
瀬名の首元のシルバーチョーカーと、僕の小指の黒曜石が、かつてないほどの熱と光を放ち始めた。
「……れ、お……?」
瀬名の焦点の合っていなかった瞳に、スッと光が戻る。
僕の腕の中で、彼がハッと息を呑んだ。
「……に呼ばれて……いや、違う。俺を呼んでるのは、今、俺を抱きしめてくれてる、玲央だ……っ」
瀬名が、僕の腕を覆うように自分の大きな手を重ねた。
二人の指が絡み合い、アクセサリー同士が耳を劈くような共鳴音を上げる。
すると、僕たちの足元で震えていた、まめたとべよ猫が、弾かれたように顔を上げ僕たちの足元をぐるぐると猛スピードで回り始めた。
「!? これはちょうぜつでりしゃす愛しみの波動! きてるぽん!!」
「べよべよ!?」
僕と瀬名の接触から生み出される莫大なエネルギー(瀬名曰く『愛』、まめた曰く『愛しみ』)を、二匹の怪異がちゅるちゅると吸い上げ、増幅し、周囲の空間へと撒き散らしていく。
(感情という不確かなエネルギーが、二匹の怪異を媒介とすることで、物理的な熱量と衝撃波に変換されているというのか!? 自分で言っていても理解が追い付かない! 僕はいったい何を見させられている)
「玲央! なんか俺たち、すっげえ光ってない!?」
「うるさい、ただの生体電流の異常発光だ! くそが! いけえええええ!!」
僕のやけくその絶叫とともに、四つの存在が織りなす圧倒的な衝撃波が、ドーム状に弾け飛んだ。
――パァァァァァァンッ!!!
空間を歪めていたであろう悪意の影が、あまりの甘ったるいエネルギーに耐えきれず、四散していく。
分厚かった霧が、まるで熱したフライパンに落ちた水滴のように、一瞬で蒸発して消え去った。
★
「……はぁ、はぁ……。……非科学的にも程がある……」
僕は瀬名の背中から滑り降り、肩で息をした。
霧が晴れた先。
そこには、赤く錆びた鳥居と、太い『しめ縄』が張られた、巨大な岩穴があった。
「玲央、足元、気をつけて。なんか嫌な感じ」
瀬名が僕を庇うように前に立ち、身構える。
ズシン、ズシン、と。
岩穴の奥から、大地を揺らすような足音が、聞こえる。
屋上で感じた、冷や汗が噴き出すような重圧。
間違いない。
先ほどの霧とは比べ物にならないくらい、ヤバいやつだ。
『我が結界を、かくも容易く破るとは一体、何者』
漆黒の闇の中から、ぬっと巨大な顔が顔を出した。
見上げるほどの巨体。
鋭い牙。そして、らんらんと光る黄金の瞳。
「パパうえ〜〜〜っ! 帰ってきたぽーん!!」
まめたが、ミサイルのように飛び出し、威圧的なイケメンへとダイブした。
『――やれやれ。我が愛息が、随分な無作法を働いたようだな』
――その瞬間。
目の前に立ちふさがっている存在から放たれる恐ろしい圧が、風船がしぼむように消滅した。
闇の中から優雅に現れたのは、和装に身を包み、狸の耳と尻尾を持つ、絶世の美男子。
「……は?」
「……え?」
僕と瀬名が、間抜けな声を漏らす。
「貴様か。私の息子に『まめた』などという、あまりにも捻りのない名を付けた愚か者は」
人外イケメンの視線が瀬名を射抜いた。
僕は瀬名を庇うように、一歩前に出た。
「名前を付けたのは、こいつが、瀬名が優しすぎたからです。というか、命まで取ろうとするなんて、親の教育がなってないのでは」
「ほう、威勢がいい。だがな、小僧。名前とは呪いだ。一度『まめた』と呼ばれれば、この子は『まめた』として、世界に縛られ、役割を全うしようとする。それを解くにはそれ相応の代償が必要」
パパうえはまめたの頭をよしよしと撫で回しながら、呆れたように息を吐いた。
「人間の命を悪戯に吸って凶悪な呪物になっているかと思いきやなんだこの、全身から滲み出る甘ったるくて幸福な香り。ほう、人間の生気ではなく、睦み合いの気当てを喰ったのだな。えらいぞ、いい子だ。だが、無断外泊は許さん。ママうえが大層お怒りだぞ。私でも手におえん」
「きゅう。いおりんとれおーの愛しみ、超絶うまいぽん! パパうえ――ママうえにもおすそわけしたいんだぽん」
まめたを抱き上げられながら、パパうえに縋りつくようにして、甘えた声をあげている。
「そうかそうか。ならば、土産としてその余韻を持ち帰るとしよう」
「ママうえゆるしてくれるぽん?」
僕は恐る恐る、質問してみた。
「――あのう、僕の論理が完全に崩壊しかかっているのですが。もしかして、これで返品完了ですか?」
『否。まだ完了しておらぬ』
威厳に満ちた低い声が、森にビリビリと響き渡る。
パパうえは、腕の中でるんるんしているまめたの頭を撫でながら、黄金の瞳で僕たちを見据えた。
「どういうことですか。あなたがそのバケダヌキ――いや、息子さんを引き取ってくれるなら、瀬名の削られた影も、元に戻るはずでは」
『小僧、先ほど言ったであろう。名前とは呪いだ。この瀬名という若者が与えた『まめた』という真名は、すでに魂の根幹……もっとも深い『喪失の記憶』に根を張っておる』
「喪失の記憶……?」
『うむ。影を取り戻したくば、その根を断ち切らねばならぬ。だが、案ずるな。お前たちのその『睦み合いの気当て』の礼に、わしが直接、魂の境界へと案内してやろう』
「ちょ、待ってくださ——」
――パチン。
和装の美男子が、優雅に指を鳴らした。
その瞬間、僕の足元から重力が消え失せた。
「玲央っ!!」
瀬名が咄嗟に僕の腕を掴む。
だが、蓼科の森も、鳥居も、目の前の人外イケメンも、万華鏡のようにグニャリと歪み、視界が真っ白な光に包まれていく。
(論理的思考の限界だ。……空間転移? いや、意識の強制的なダイブか……!?)
平衡感覚を失い、深い水底へと沈んでいくような感覚。
僕が瀬名の腕を強く握り返した直後、ふっと、冷たい風が頬を撫でた。
「……っ、かはっ……!」
肺に急激に酸素が流れ込み、僕は激しく咳き込んだ。
目を開けると、そこはもう、長野の山奥ではなかった。
――ザァァァァァ……。
耳を劈くような、激しい水流の音。
視界に広がったのは、どこまでも続く、灰色の石が転がる荒涼とした河原だった。
空は赤黒く淀み、太陽も星も見えない。
「……ここは……」
僕は立ち上がり、周囲を見渡した。
そして、隣にいたはずの瀬名が、数メートル先の水際で、力なく立ち尽くしているのを見つけた。
「瀬名! おい、ここはどこだ! なぜ急に河原に……」
駆け寄ろうとした僕の足が、ピタリと止まる。
――キィィィ……。
――キリ、……キリキリッ……。
足元の石たちが、一斉に、悲鳴のような音を立てて鳴き始めたのだ。
「石が、鳴いている……?」
僕は、以前瀬名の家の土蔵で聞いた、あの美しくも恐ろしい「石の声」を思い出した。
瀬名のご両親が事故に遭った、あの河原。
と、すると、ここは瀬名の記憶が生み出した『精神世界』の中だろうか。
「……母さん、……父さん……」
水際に立つ瀬名が、虚ろな瞳で呟いた。
彼の足元には、影が全くない。
手には、青白く光る、一つの欠けた石が握られていた。
「瀬名!」
僕は彼の名を呼び、そのバカみたいに広くて、今はひどく小さく見える背中へと手を伸ばした。
「どうしよっかなー! 俺、今日すっげー足が軽いんだよね。昨日の特濃充電のおかげかなぁ?」
サマースクール二日目。
僕たちは一学年の課題であるフィールドワークのため、研修所の裏手から続く渓流沿いの登山道を登っていた。
昨夜、あれほど衰弱していたはずの瀬名は、信じられないほどの回復を見せている。
認めたくないが、僕の生気が、昨夜の常識を超えた接触によって、過剰供給された結果だ。
「それならしばらく必要ないな。さっさといくぞ」
「きゅるるん♡」
瀬名の首元から顔を出したまめたが、るんるんと上機嫌で鳴いている。
瀬名の影を食うよりも、僕たちの、まめた曰く――愛しみ、を吸っている方が効率がいいと気づいたらしい。
足元では、べよ猫までが軽快なステップで僕の足にまとわりついてくる。
こいつらは、僕たちの過剰接触を栄養源にする、共生生物と化していた。
べよ猫は無害だと思っていたのに。
腹辺りをたぽたぽと揺らしながら歩くその姿は、飼い主による愛情過多の結果、太った猫にしか見えない。
(不本意だ。あんな恥ずかしい事された挙句、バケモノどもが太っていくなど……)
「あ! 玲央、見て見て! あそこの岩場、すっげえ綺麗な石英が混ざってるじゃん!」
瀬名が子供のように声を上げ、清流の真ん中にある大きな岩へと飛び移った。
標高が高くなるにつれ、水の透明度は増していく。
「おい、危ないぞ! 濡れた石の上は摩擦係数がな」
「大丈夫、大丈夫! ……っと、わぁぁぁ!?」
――バシャァァァン!!
豪快な水音とともに、お約束のように瀬名の巨体がクリスタルのような飛沫を上げて渓流へと沈んだ。
「この、ド低脳が!!」
僕は慌てて駆け寄り、びしょ濡れになって這い上がってきた瀬名の腕を掴んだ。
「えへへ。つめてぇ」
「笑い事か! 山の水を舐めるな、すぐに体温を奪われる。おい、ジャージが完全に吸水しているじゃないか。このままでは低体温症を招くぞ」
僕は周囲を見渡し、大きな岩の影にある、日当たりの良い砂地へと瀬名を引っ張っていった。
人跡未踏の、静かな河原。
聞こえるのはせせらぎと、まめたとべよ猫の気配。
「脱げ、瀬名」
「えっ……? ここで?」
「当たり前だ。濡れたままでは、僕がどれだけ充電しても追いつかない。さっさと脱いで、その岩の上で乾かせ。これは、救急法に基づいた論理的な指示だ」
瀬名が「ふうん?」と目を細めながら、ゆっくりと濡れたジャージのジッパーを下ろす。
水を含んで肌に張り付いた白いTシャツが、透けて彼の鍛え上げられた胸板の輪郭を露わにしていた。
滴る水滴が、首元のシルバーチョーカーを伝い、鎖骨のくぼみへと吸い込まれていく。
僕は思わず目を逸らしたが、瀬名の腕がすかさず伸ばされた。
「つーかさ、裸じゃ寒いから、もちろん充電しててくれるんだよね? 玲央くーん」
濡れそぼった瀬名の指が、僕の指に絡んでいく。
まめたとべよ猫が、待ってましたと言わんばかりに、僕たちの周囲で期待に満ちた声を上げた。
「でもさー、俺だけ裸なの恥ずかしくない? ねえねえ」
「結合だぽん♡」
「べよべよべよ♡」
「な、な、何を……っ、何を抜かしているんだ、このド低脳集団が!」
僕は沸騰しそうな顔面を隠すように、濡れそぼった瀬名の指を振り払った。
視界には、水滴を弾く瀬名の逞しい胸板と、その中央で鈍く光るシルバーチョーカー。
視覚情報の暴力だ。
処理能力を超えた僕の脳内では、警告音が鳴り響いている。
「だってさぁ、俺だけ裸で玲央が服着てるの、不公平っていうか恥ずかしいな〜。ねえ、玲央くーん?」
ニヤニヤと、獲物を追い詰めるような笑みを浮かべる瀬名。
このバカ、昨夜のことで僕の弱点を完全に学習したな。
「知るか! 僕は、……僕はあっちの地質調査をしてくる! そこでジャージと体を干してろ、バカ!!」
僕は逃げ出した。
論理も理性も放り出し、瀬名の熱が充満する空間から脱したかった。
だが、動揺しすぎた僕の足元は、もはや理性的な感覚。接地面への注意、を失っていた。
「あっ、おい、玲央!」
瀬名の制止が聞こえた瞬間。
「……え」
――グキッ!!
不自然な角度で地面を蹴った僕の右足首が、激痛を訴えた。
岩の隙間に空いた、ちょっとした窪み。
そこに吸い込まれるように転倒した僕は、みっともなく砂地に這いつくばることになった。
「いっ、……つぅ……」
「玲央! 大丈夫か!?」
一瞬で瀬名が駆け寄ってくる。
上半身裸のまま、僕の身体を軽々と抱き起こすその腕が、悔しいほどに温かくて力強い。
「離せ。自業自得だ。……っ、ひねっただけだ……」
「全然大丈夫じゃないだろ。よし、おんぶしてやるから、掴まれよ」
瀬名が僕に背中を向ける。
広くて、熱くて、大きな背中。
ここで素直に応じたら、僕の委員長としての、いや、一人の男としての尊厳が完全に消失する。
「断る。歩ける。……一歩一歩、慎重に加重すれば……問題ない」
「無理無理。あ、じゃあ、お姫様抱っこの方がいい?」
「は? な、何を——」
――ひょいっ、と。
「……っ!? ……な、……っ、……おろせ! おろせと言っているだろう、この筋肉ダルマ!!」
視界が浮き上がり、僕は瀬名の腕の中に横たわる格好になっていた。
いわゆる、お姫様抱っこ。というやつ。
山奥とはいえ、男子高校生が男子高校生を抱え上げ、顔を至近距離で見合わせているこの状況。
社会的な抹殺を意味している。
「え〜、おんぶよりこっちの方が玲央の顔よく見えるし。充電効率も高そうだよ?」
「ふざけるな! 見るな! ……わかった、わかったから!! ……おんぶでいい!! おんぶにしろ!!」
暴れる僕に困ったように笑い、瀬名は僕を一度地面に下ろした。
そして再び、逞しい背中を僕の前に差し出す。
「…………」
「ん? 玲央。……それは『お願い』かな? 『お願い』ならちゃんと言わないとダメだよ? 優等生の玲央くんならちゃんと、言えるよねー?」
瀬名が肩越しに、意地の悪い、けれど最高に嬉しそうな瞳で僕を覗き込んだ。
「……っ、……く、……っ!!」
僕は唇を噛み締め、爆発しそうな羞恥心を気合で飲み込んだ。
今の僕には、このバカの背中に縋る以外の選択肢が、論理的に残されていない。
「……あ、……足を捻って自力での歩行が困難なのでおんぶしてください!! ……これでいいだろう!!」
やけくそで叫んだ僕に、瀬名は満足げに目を細めた。
「ん、いいこ」
瀬名が僕の額に、そっと、慈しむような口付けを落とした。
でこ、ちゅー。
唇が触れた部分から、甘ったるい痺れが全身に広がる。
「さいこーにえもいぽん! 愛しみ~うまいぽん」
「べよべよ〜♡」
まめたとべよ猫が、僕たちの周りを狂ったように飛び跳ねる。
僕は顔から火が出るどころか、存在が消滅してしまいそうなほどの熱を感じながら、瀬名の首筋にしがみつくしかなかった。
(……こんな、……っ……!!)
★
瀬名の広く温かい背中に揺られながら、僕は完全に毒気を抜かれていた。
伝わる体温と、一定のリズムで揺れる心地よさ。
足首の痛みも、血流促進のおかげか、ずいぶんと和らいでいる。
だが。
ふと、視界の端をよぎった光景に、先程から感じていた違和感が警鐘を鳴らした。
「……おい、瀬名。止まれ」
「んー? どうしたの玲央。俺の背中、乗り心地悪い?」
「そうじゃない。……僕たち、さっきからずっと、同じところを歩いているぞ」
僕が瀬名の肩を叩くと、彼は呑気に「えー?」と首を傾げた。
「そうー? 山なんて木と岩と葉っぱばっかりで、どこも似たようなもんでしょ。玲央、考えすぎだって」
「違う! 植生の分布、岩のフラクタル構造、どれもさっきと完全に一致している。それに、あそこにある古びた祠。あれは十五分前にも見た!」
僕は、獣道の脇にひっそりと佇む、苔生した小さな石の祠を指差した。
屋根の一部が欠け、赤いよだれかけをした石仏が首を傾げている、不気味な祠だ。
間違いなく、これで三度目。
僕たちは、この蓼科の山中で空間のループに陥っている。
そう認識した瞬間、周囲の木々のざわめきが、急に意志を持ったような気配を帯びた気がした。
「え、マジで? あー、でもなんか、急に霧が出てきたかも」
瀬名が立ち止まる。
いつの間にか、足元を白く濃い靄が覆い始めていた。
夏場の山特有の現象だという論理的解釈は、僕の肌を撫でる氷のような冷気の前では無意味だった。
るんるんしていたはずのまめたが、急に「きゅ、きゅぅ……」と怯えたように奥へ潜り込む。
べよ猫も、瀬名の足首に縋り付いてブルブルと震え出した。
『――……たか、みやぁ……』
「……っ!?」
霧の奥から、声が聞こえた。
『……せなぁ……おーい……どこだぁ……』
それは、地学研究会の元部長の声だった。
だが、おかしい。
彼らは研修所で赤本と格闘しているはずだ。
こんな間延びした、抑揚のない声で僕たちを探しに来るはずがない。
「あれ、部長の声じゃん。玲央、探しに来てくれたのかな? おーい、こっち——」
「バカ、返事をするな!!」
僕は咄嗟に、瀬名の口を両手で強く塞いだ。
僕の体重が背中にかかり、瀬名が「んぐっ!?」とバランスを崩しそうになるが、それどころではない。
(これは先輩じゃない)
僕は鯨岡先輩から借りた本のページを、脳内で捲る。
長野県をはじめとする山間部に伝わる怪異『ヒトゴエ』
正体不明の音が、知人の声を真似て呼びかけ、返事をした者を山の深い迷宮へと引きずり込む。
無論、そんなものは民俗学の伝承に過ぎない。
今、物理的な音波となって僕たちの鼓膜を揺らしている、これは。
『……れおぉ……いおりぃ……こっちだよぉ……』
今度は、女性の声になった。
瀬名の身体が、ビクリと大きく跳ねる。
「……っ、かあ、さん……?」
瀬名の声が震えていた。
亡くなったはずの母親の声。
それを聞いた瀬名の足が、無意識に霧の奥——声のする方へと一歩踏み出そうとする。
「瀬名! 動くな! 耳を貸すな、あれは音響的な幻覚だ! お前の記憶を勝手に読み取って再生しているだけの、一時的な誤作動だ!!」
僕は瀬名の首に腕を巻きつけ、自分の胸に彼の頭を強く抱き込んだ。
シルバーリングとチョーカーが危険を知らせるようにギリギリと熱を帯びる。
「……でも、……かあさん、が、俺を呼んでる……」
「僕の声だけを聞け! お前は僕に管理されているんだろうが! 返事をしたら、本当に『あっち側』に連れて行かれるぞ!!」
僕は背中の上で、そう叫び、瀬名の耳を塞いだ。
霧はさらに濃くなり、声は四方八方から僕たちを包み込もうと迫り来る。
山そのものが持つ土着の悪意が、僕たちという異物を飲み込もうと口を開けていた。
瀬名の首元のシルバーチョーカーと、僕の小指の黒曜石が、かつてないほどの熱と光を放ち始めた。
「……れ、お……?」
瀬名の焦点の合っていなかった瞳に、スッと光が戻る。
僕の腕の中で、彼がハッと息を呑んだ。
「……に呼ばれて……いや、違う。俺を呼んでるのは、今、俺を抱きしめてくれてる、玲央だ……っ」
瀬名が、僕の腕を覆うように自分の大きな手を重ねた。
二人の指が絡み合い、アクセサリー同士が耳を劈くような共鳴音を上げる。
すると、僕たちの足元で震えていた、まめたとべよ猫が、弾かれたように顔を上げ僕たちの足元をぐるぐると猛スピードで回り始めた。
「!? これはちょうぜつでりしゃす愛しみの波動! きてるぽん!!」
「べよべよ!?」
僕と瀬名の接触から生み出される莫大なエネルギー(瀬名曰く『愛』、まめた曰く『愛しみ』)を、二匹の怪異がちゅるちゅると吸い上げ、増幅し、周囲の空間へと撒き散らしていく。
(感情という不確かなエネルギーが、二匹の怪異を媒介とすることで、物理的な熱量と衝撃波に変換されているというのか!? 自分で言っていても理解が追い付かない! 僕はいったい何を見させられている)
「玲央! なんか俺たち、すっげえ光ってない!?」
「うるさい、ただの生体電流の異常発光だ! くそが! いけえええええ!!」
僕のやけくその絶叫とともに、四つの存在が織りなす圧倒的な衝撃波が、ドーム状に弾け飛んだ。
――パァァァァァァンッ!!!
空間を歪めていたであろう悪意の影が、あまりの甘ったるいエネルギーに耐えきれず、四散していく。
分厚かった霧が、まるで熱したフライパンに落ちた水滴のように、一瞬で蒸発して消え去った。
★
「……はぁ、はぁ……。……非科学的にも程がある……」
僕は瀬名の背中から滑り降り、肩で息をした。
霧が晴れた先。
そこには、赤く錆びた鳥居と、太い『しめ縄』が張られた、巨大な岩穴があった。
「玲央、足元、気をつけて。なんか嫌な感じ」
瀬名が僕を庇うように前に立ち、身構える。
ズシン、ズシン、と。
岩穴の奥から、大地を揺らすような足音が、聞こえる。
屋上で感じた、冷や汗が噴き出すような重圧。
間違いない。
先ほどの霧とは比べ物にならないくらい、ヤバいやつだ。
『我が結界を、かくも容易く破るとは一体、何者』
漆黒の闇の中から、ぬっと巨大な顔が顔を出した。
見上げるほどの巨体。
鋭い牙。そして、らんらんと光る黄金の瞳。
「パパうえ〜〜〜っ! 帰ってきたぽーん!!」
まめたが、ミサイルのように飛び出し、威圧的なイケメンへとダイブした。
『――やれやれ。我が愛息が、随分な無作法を働いたようだな』
――その瞬間。
目の前に立ちふさがっている存在から放たれる恐ろしい圧が、風船がしぼむように消滅した。
闇の中から優雅に現れたのは、和装に身を包み、狸の耳と尻尾を持つ、絶世の美男子。
「……は?」
「……え?」
僕と瀬名が、間抜けな声を漏らす。
「貴様か。私の息子に『まめた』などという、あまりにも捻りのない名を付けた愚か者は」
人外イケメンの視線が瀬名を射抜いた。
僕は瀬名を庇うように、一歩前に出た。
「名前を付けたのは、こいつが、瀬名が優しすぎたからです。というか、命まで取ろうとするなんて、親の教育がなってないのでは」
「ほう、威勢がいい。だがな、小僧。名前とは呪いだ。一度『まめた』と呼ばれれば、この子は『まめた』として、世界に縛られ、役割を全うしようとする。それを解くにはそれ相応の代償が必要」
パパうえはまめたの頭をよしよしと撫で回しながら、呆れたように息を吐いた。
「人間の命を悪戯に吸って凶悪な呪物になっているかと思いきやなんだこの、全身から滲み出る甘ったるくて幸福な香り。ほう、人間の生気ではなく、睦み合いの気当てを喰ったのだな。えらいぞ、いい子だ。だが、無断外泊は許さん。ママうえが大層お怒りだぞ。私でも手におえん」
「きゅう。いおりんとれおーの愛しみ、超絶うまいぽん! パパうえ――ママうえにもおすそわけしたいんだぽん」
まめたを抱き上げられながら、パパうえに縋りつくようにして、甘えた声をあげている。
「そうかそうか。ならば、土産としてその余韻を持ち帰るとしよう」
「ママうえゆるしてくれるぽん?」
僕は恐る恐る、質問してみた。
「――あのう、僕の論理が完全に崩壊しかかっているのですが。もしかして、これで返品完了ですか?」
『否。まだ完了しておらぬ』
威厳に満ちた低い声が、森にビリビリと響き渡る。
パパうえは、腕の中でるんるんしているまめたの頭を撫でながら、黄金の瞳で僕たちを見据えた。
「どういうことですか。あなたがそのバケダヌキ――いや、息子さんを引き取ってくれるなら、瀬名の削られた影も、元に戻るはずでは」
『小僧、先ほど言ったであろう。名前とは呪いだ。この瀬名という若者が与えた『まめた』という真名は、すでに魂の根幹……もっとも深い『喪失の記憶』に根を張っておる』
「喪失の記憶……?」
『うむ。影を取り戻したくば、その根を断ち切らねばならぬ。だが、案ずるな。お前たちのその『睦み合いの気当て』の礼に、わしが直接、魂の境界へと案内してやろう』
「ちょ、待ってくださ——」
――パチン。
和装の美男子が、優雅に指を鳴らした。
その瞬間、僕の足元から重力が消え失せた。
「玲央っ!!」
瀬名が咄嗟に僕の腕を掴む。
だが、蓼科の森も、鳥居も、目の前の人外イケメンも、万華鏡のようにグニャリと歪み、視界が真っ白な光に包まれていく。
(論理的思考の限界だ。……空間転移? いや、意識の強制的なダイブか……!?)
平衡感覚を失い、深い水底へと沈んでいくような感覚。
僕が瀬名の腕を強く握り返した直後、ふっと、冷たい風が頬を撫でた。
「……っ、かはっ……!」
肺に急激に酸素が流れ込み、僕は激しく咳き込んだ。
目を開けると、そこはもう、長野の山奥ではなかった。
――ザァァァァァ……。
耳を劈くような、激しい水流の音。
視界に広がったのは、どこまでも続く、灰色の石が転がる荒涼とした河原だった。
空は赤黒く淀み、太陽も星も見えない。
「……ここは……」
僕は立ち上がり、周囲を見渡した。
そして、隣にいたはずの瀬名が、数メートル先の水際で、力なく立ち尽くしているのを見つけた。
「瀬名! おい、ここはどこだ! なぜ急に河原に……」
駆け寄ろうとした僕の足が、ピタリと止まる。
――キィィィ……。
――キリ、……キリキリッ……。
足元の石たちが、一斉に、悲鳴のような音を立てて鳴き始めたのだ。
「石が、鳴いている……?」
僕は、以前瀬名の家の土蔵で聞いた、あの美しくも恐ろしい「石の声」を思い出した。
瀬名のご両親が事故に遭った、あの河原。
と、すると、ここは瀬名の記憶が生み出した『精神世界』の中だろうか。
「……母さん、……父さん……」
水際に立つ瀬名が、虚ろな瞳で呟いた。
彼の足元には、影が全くない。
手には、青白く光る、一つの欠けた石が握られていた。
「瀬名!」
僕は彼の名を呼び、そのバカみたいに広くて、今はひどく小さく見える背中へと手を伸ばした。



