君の影が溶ける前に。〜理系委員長と呪われた大型犬の、不合理な延命プロトコル〜

 昨夜の失態。
 いや、あの鯨岡流言葉の誤用による羞恥にまみれた事件を、僕はまだ整理しきれずにいた。
 一睡もできぬまま迎えた翌朝。
 重い足取りで校門をくぐった僕の前に、眩しすぎる笑顔を浮かべた瀬名が立ちはだかった。

「おはよー、玲央! 俺の、フィ・ア・ン・セ」

「ぶっ、なっ、大声で、何を、抜かして!」

 周囲の登校中の生徒たちが、一斉にこちらを振り返る。
 だが、瀬名はそんな視線など微塵も気にせず、懐から小さな革袋を取り出した。

「これ、昨日の夜、寝ないで作ったんだ。俺たちの『誓い』の証」

「は? 誓い? 僕はそんなもの——」

 言いかける僕の言葉を無視して、瀬名の大きな手が僕の首筋に伸びた。
 ガチッ、と硬質な音がして、冷たい感触が喉元を締め付ける。

「っ、な、なんだ、これは」

「シルバー製の特製チョーカー! 玲央に似合うように細身に削った。で、こっちが俺の分。お揃い、最高だろ?」

 ちらりとシャツに指をかけて、こちらに見せ付けてくる瀬名の首にも、同じ意匠の、けれど彼のがっしりとした首に合わせて太めに作られた銀の輪が光っていた。

(ななななな、なぜ男同士で、しかも登校早々、こんな首輪のようなものを付けられねばならないんだ!!)

 引きちぎろうと指をかけた、その時だった。
 熱さが指先で弾けた。
 リングと、首元のチョーカーが共鳴するようにキインと高い音で鳴る。

 すると、瀬名の胸ポケットに潜り込んでいたまめたが「きゅうぅん」と、これまでにないほど満足げな声を上げて、僕と瀬名の首元を交互にスリスリし始めた。

(なんだ、これは。導電率の急激な上昇か!? まさか、シルバーを通じて、僕たちの生気らしき何かが、通常充電の何倍もの速度で流れ込んできて!?)

 まめたが、現在進行形で、瀬名の影を食っている速度よりも、この銀の輪を通じた何かの方が明らかに上回っている感覚がする。
 冷静な思考が、僕の羞恥心を一瞬だけ上回った。

「もしかして、仮に瀬名から、引きはがされているのが生気だと仮定して。僕から供給される代替エネルギーらしきものの伝達効率を、人為的に上げている?」

「え、何? 難しすぎて、何言ってるのか、まーったくわかんないけど、玲央と繋がってる感じがして、俺、今すっげー元気! ほら、もっと近くに来てよ、玲央」

 瀬名が僕の腰を引き寄せ、お揃いの首輪を見せびらかすように笑う。
 
(こんな破廉恥なものを甘んじて受け入れるなど。だが、こいつの影が確かに、今日はずっと濃い。検証の余地はある)

「一週間だけ、この『実験器具』の装着を許可してやる」

「えー! 一生じゃないの!? ……まぁいいや、一週間、玲央を独り占めだ!」

 校内放送のチャイムが鳴る中、僕は首元の冷たくて熱い銀の首輪に、一生抗えない予感を抱きながら、顔を真っ赤にして足早に教室へと逃げ込んだ。


 
 期末テストを無事に仕留めた翌週。
 僕と瀬名は、相変わらず、瀬名の家の土倉を漁っていた。
 夜に沈む瀬名の家は、時を止めた博物館のようだ。
 展示棚に並ぶ無数の石たちが、月の光を浴びてひっそりと息づいている。
 
 僕は、首元の銀のチョーカーを指でなぞった。
 銀を通じて僕の脈と混ざり合う、何か。
 隣では、瀬名が祖父から譲り受けたという古い鉱石標本を広げ、眺めていた。

「ねえ、玲央。宮澤賢治って知ってる?」

「一般常識レベルの知識ならある。『銀河鉄道の夜』だろう。それがどうした」

「いやー、俺のじいちゃん地学博士だったからさ、小さい頃、この家来るたびに、よく読み聞かせてもらってたんだ。……『楢ノ木大学士の野宿(ならのきだいがくしののじゅく)』って話、知ってる?」

 瀬名が標本の中から、一片の白く輝く花崗岩(かこうがん)を取り出した。

「楢ノ木大学士が石切り場で、野宿するとさ、石たちの声が聞こえてくるんだって。石英はキリキリって鳴いて、長石は低く唸って、雲母が硬くきらきらって笑う。石たちが、喧嘩したり論争したりする声。不思議で、面白いよね。ロマンチックだし」

 瀬名はヘラヘラと笑いながら、その石を僕の耳元に寄せた。

「僕には、そんな非科学的な音は聞こえない。石は、ただの鉱物の集合体だ。でもまあ、鉱石ラジオなるものも存在するし、確かに空気中の電波を受信した電力だけで鳴らせることも可能だな。方鉛鉱、黄鉄鉱、紅亜鉛鉱に硫砒銅鉱、自然砒」

「あはは、玲央は相変わらずだな。そういうのじゃなくて、俺には、聞こえるんだよね。石の音。――あの日から、さ」

 瀬名の笑顔が、一瞬だけ、夜の闇に溶けるように淡くなった。

「両親が交通事故にあった山道。車が落ちた峡谷の下に流れてる川の近くで、すんげえ綺麗な、緑色の石を拾ったんだ。翡翠だったら、ラッキーとか思って。んで、その夜に石がさ、すっごく悲しそうに鳴いてたんだよ。キィィ、って。で俺、じいちゃんの読んでくれた話をふと思い出して。石が奏でる音、石が鳴く声って、本当にあるんだなーって」

(こいつ)

 僕は言葉を失った。
 チャラ男だ、アホの子だと見下していた男の背負う、重すぎる過去。
 ご両親を亡くした現場で、彼はたった一人、石の悲鳴を聞いていたというのか。
 
 瀬名が作ったシルバーアクセ。
 繊細で、儚いあの造形は、石の声を聴き取って宥めようとした結果だったとでも?

「だからさ、玲央。俺の作ったアクセ、リングでもチョーカーでも、もしも石が鳴ってたら教えてよ。俺、玲央には、綺麗な音だけ聞いててほしいんだ。悲しい音じゃなくて、きらきらーって綺麗な音」

 瀬名が僕の首筋に指を滑らせ、銀の首輪に触れた。
 その瞬間、チョーカーを通じて、瀬名の孤独と悲哀が、津波のように僕の胸に流れ込んできた。
 
(胸の奥が、締め付けられて、息ができない。僕は、お前のそんな、泣きそうな音を聞きたくないのに!)

「いや、何も、聞こえないぞ。だが。お前が一人で泣くなら、僕が止めてやる。だから、勝手に一人で、石の声なんて聴いてるな。……バカ」

 静寂の中で、チョーカーにはまっている青金石(ラピスラズリ)とリングの黒曜石が、反応して、キリキリと論争を始めたような気がした。
 
 瀬名は僕の肩に額を預け、深い懊悩を隠しもせず、眉根を寄せていた。
 影の欠損は日に日に深刻さを増し、今のこいつは『充電』なしでは立ち上がることもままならない。

「あたま、いたい」

「弱りすぎているせいだ。いいから、もっと寄れ」

 僕は舌打ちをしながら、瀬名の手を掴み掌を合わせる。
 
 その瞬間だった。

 ――キリッ……、キリキリキリッ……!
 ――ポーン、……きらきらきら……っ。

 脳内に直接、鋭い火花を散らすような音の雨が刺さる。
 反射的に目を閉じると、暗闇の中に、無数の光の粒が踊っているのが見えた。
 標本箱にある水晶が高い声で笑い、長石が重低音で独り言を呟き、雲母が硬質な音で論争を繰り広げている。

 だが、その音はあまりにも鮮明で。
 瀬名の耳に届けられるようになったという、石たちの鳴く声。

「今、聞こえる? 俺たち、今、同じ世界にいる。はあー、あたま、いて」

 瀬名が顔を上げ、儚い微笑みを浮かべた。
 
 瞬間、僕は理解してしまった。
 この美しすぎる音の洪水は、裏を返せば、瀬名を「あっち側」へ引きずり込もうとする死の旋律なのだと。

(同じ世界なんて、冗談じゃないそ。お前の聴いている世界は、こんなにも美しくて、残酷だったのか)

 瀬名は今まで、たった一人で、この美しくも恐ろしい声を聞きながら、ご両親を亡くしたあの日から歩き続けてきたのか。
 
「聞こえる。うるさいほどにな。だから、……一人で聴いてるなんて、思うな」

 瀬名が満足げに目を閉じる。
 僕の足元では、まめたがじりじりと床を這いより、影の先を狙って、尾をぽわぽわ振っている。

「なんか、今日の石の声、優しい、玲央がいるからかな」

 瀬名が掠れた声で呟きゆっくりと顔を上げた。
 アイドル級の美貌は、今や陶器のように白く、血の気が完全に失われている。

 僕が目を剥いたのは、その足元だった。

「瀬名、お前、影が……」

 瀬名の足元には、影がほとんど残っていなかった。
 床に落ちているのは、まるで水たまりが干上がった後のような、薄汚れた染みだけだ。
 身体が、そこに存在しているという証明を、世界が拒絶し始めている。

「俺の影、どっか行っちゃってる。……あはは、これじゃ、透明人間、なっちゃう」

 瀬名が弱々しく笑おうとした、その時。

「ごふっ……!!」

 激しい咳き込みとともに、瀬名の口元から鮮血が飛んだ。
 棚に陳列されているアンモナイトの化石に、点々と赤い斑点が広がる。
 
「瀬名!!」

 僕は絶叫し、崩れ落ちる彼の身体を、力任せに抱きとめた。
 その筋肉の質量が、冷たい石像のように僕の腕にのしかかる。

「おい、しっかりしろ! 充電だ、もっと、僕の全部をやるから、……行くな!!」

 僕は瀬名の首筋に顔を埋め、チョーカーを握りしめ、自分でも驚くほどの力で彼の身体に縋り付いた。
 瀬名の体温は、僕がいくら熱を与えても、底の抜けた器のように逃げていく。

 と、同時に、まめたが、ゆっくりと立ち上がった。

「うまいぽん。最高に、うまみだぽん」
 
 まめたの言葉は、もはや囁きではなく、震わせるような、深い声になっている。
 姿も、いつの間にかマスコットサイズを超え、一回りも二回りも巨大化している。

 タイムリミットの足音が、石の声に紛れて静かに、確実に迫っていた。

「はー、満腹たぬき腹で、幸せいっぱいだぽん。もう、ご主人様のいのちー、たべつくしたいぽん」
 
 まめたが、ビーズのような瞳を怪しく光らせ、僕と瀬名を見下ろした。
 
「でも、パパうえにもおすそわけしたいぽん。お家に帰りたいぽん。れおー、いおりん」
 
(…………っ!!)

 まめたが、瀬名の首筋を短い前足でなぞった。
 瀬名は意識を失いかけており、何も感じていないようだった。
 
「ふざけるな、……この、化けタヌキめ!!」
 
 僕は叫び、瀬名を抱きかかえたまま、机の上にあったピンセットをまめたに向かって投げつけた。
 だが、まめたはそれを軽々とかわし「ものじゃないぽん、たぬたぬだぽん」と口を歪めて笑った。
 
「このままだと、いおりん死ぬだけだぽん。まいごのまめたを、おうちに帰してくれたら、あっさりお別れしてやるかもしれないぽん♡」
 
 良くわからぬ台詞を吐き捨てたまめたは、マスコットの形に戻って沈黙し、転がった。
 
 静寂が戻った土蔵。
 聞こえるのは、石たちの止まない葬送曲と、瀬名の微かな、途切れそうな呼吸音だけ。
 
 僕は、血に汚れた瀬名の頬を、震える手で何度も拭った。
 
(僕は、お前たちみたいなバカとは違うんだ。内申をもらったら、編入試験を受けて、こんな学校、さっさと出ていくつもりだったのにっ!)
 
 鼻の奥がツンと熱くなり、視界が滲む。
 第一志望に落ちて、人生に絶望していた僕の前に、ヘラヘラと現れた大型犬。
 僕をモバイルバッテリーなどという不当な扱いをし、圧倒的に質量をもった筋肉で絡みつき、俺の知らない美しいもの、石の鳴る美しい世界を教えてくれた男。
 
 こいつが消えるなんて。
 僕の世界から、この、うるさい熱がなくなるなんて――。
 
「絶対に、許さない」
 
 僕は、瀬名の耳元で、誓うように囁いた。