翌朝、食卓に二人は向かいあわせに座っている。
陽介がコーヒーを淹れて、拓実はパンをトースターで焼いている。仕事前の簡単な朝食は、そんな風に役割分担が自然と出来てきていた。
「コーヒーどうぞ」——机にカップを置く。
「お、サンキュ」と言いながら、拓実はトーストを皿に置く。
陽介はなんとなく拓実に視線を向けてしまって、拓実と視線が絡んだ。
「ん? なんかついてる?」
「あ、いえ、なんでも……」
「さあ、早く食べちゃって今日もお仕事がんばろうや」
「は、はい。そうですね」
もぐもぐとトーストを咀嚼する音だけがひびく食卓、仕事前の家での時間はあまりにも短かった。
そして今日も、並んで通勤する二人の姿があった。
「あ、今日、夜ちょっと遅くなるかも」
何気ない一言だった。
「また、接待ですか?」
「いや、仕事終わりに飲み。営業の連中と」
「……そうですか」
ただそれだけの会話、それなのに陽介の胸の奥がざわつく。理由はわからない。だが、昨夜のレンジのチンとなる音が聞こえたような気がした。
昼休み。
いつものように、陽介は一人で社員食堂の隅に座って食事をしていた。
今日も、特に話す相手もいない。
向こうのテーブルでは、今日も営業部の輪ができていて、賑やかだ。
その中心にいるのは、やはり拓実だった。
「木崎さん、昨日の話なんですけど——」
「ああ、あれさ——」
とても声がよく通り、笑いの輪が、周囲を引き寄せる。
女性社員が自然に距離を詰めていくのが見えた。肩が触れるほど近くで笑っている。
——ああ、そういう人なんだ。
頭では分かっていた。
拓実は、誰とでも自然に距離を縮められる人だ。
自分も、ただその中の一人だった。それだけのことだ。
だが胸の奥に、昨日までなかった重さが溜まっていくのを陽介は感じていた。
フォークを持つ手が鈍くなり、食事が進まなくなった。
『別に、何でもない、いつものことだ』
そう思おうとするほど、意識は、向こうの賑やかな席から離れず、そこに向かい続けていた。
その日の夜。
先に帰宅した陽介は、シャワーを浴びてから部屋着に着替えていた。
キッチンには、拓実が朝使ったままのマグカップが置いてある。
洗ってしまおうか、一瞬迷って、結局そのままにした。
時計を見る。
まだ、帰ってくる気配はない。
昨日買った本を開くが、文字が頭に入ってこない。
しばらくして、玄関の鍵が開く音がした。
「ただいまー」
少し弾んだ声。
「……おかえりなさい」
拓実はネクタイを緩めながらリビングに入ってくる。
ほのかに、酒と香水の混じった匂いがした。
「今日は結構飲んだな……」
そう言ってソファに腰を下ろす拓実を、陽介は立ったまま見ていた。
言いたいことが、あるような気がする。
でも、それが何なのか、分からない。
「陽介?」
「……」——陽介はだまったまま、拓実を見ていた。
拓実は首をかしげるが、それ以上は何も言わない。
その沈黙が、静かに部屋に落ち、広がった。
陽介は初めて思った。
——この人が、どこで、誰と、何をしているのか。
それが、自分には分からないのだと。
そしてその事実が、何故だか心を締め付け続けていた。
ふたりの沈黙は、そのまま長く続いた。
拓実はソファに深く腰を下ろし、天井を仰いで小さく息を吐いた。
「……今日は」
拓実が、やっとぽつりと口を開いた。
「実は正直なところ、ただ疲れただけだった」
それは陽介には意外な言葉で、思わず視線を上げて、拓実を見た。
「え?」
「仕事は上手くいったし、周りは盛り上がってた。でも、なんか……とても疲れた」
拓実はそう言うと、片手で目元を覆い、また深く息を吐く。
昼間見た、あの賑やかな輪の中心にいた姿と、今のくたびれた姿が、同じ人物には思えない。
「……無理、してるんですか?」
陽介が自分でも驚くほど、そんな言葉が自然に口をついた。
拓実は軽く目を細めると、陽介の目を見つめた。
「無理、ってほどのことでもないけど。みんなの期待する俺をやってる……そんな感じ、かな?」
そう言うと、拓実は軽く笑った。その笑いはどこか薄く力がない。
「家に帰ってきたら、いつもの静けさが優しくてさ。——それだけで、ちょっと楽に感じたんだ」
その言葉が、ほっと胸の奥に落ちついた。
——楽になる、場所。
それを、拓実が「家」だと言った。
その言葉が、陽介の中で静かに広がっていく。
陽介は、少し迷い、思い切って口を開いた。
「……僕は、逆ですね」
「逆?」
「会社にいるときの方が、何も考えなくていい。家に帰ると……」
言葉が、うまく続かない。
そんな陽介を、拓実は急かさず、黙って待ってくれている。
「……一人だと、色々考えてしまうんです」
それは、今まで誰にも言ったことのない感覚だった。
「誰かが帰ってくるかもしれない、そう思うことで、それだけで落ち着かなくなるというか……」
陽介はそう言ってから、はっとした。
今のは、言い過ぎだったのかもしれない。
だが拓実は、そんな陽介の告白を、からかうでもなく、ただ静かに頷いて聞いていた。
「……そっか」
少し間をおいてから、拓実は立ち上がる。
「シャワー、浴びてくるよ。その間に、陽介も少し休めよ」
「……はい」
拓実はそれ以上何も言わずに、シャワーに向かった。
リビングにひとりきり残された陽介は、胸の奥に残るものの正体を、まだ言葉として形にできずにいた。
シャワーの水音が、一定のリズムで聞こえてくる。
陽介はキッチンに立つと、無意識にマグカップを二つ並べていた。
——もうふたりぶん、用意するのが当たり前になっている、そう思う。
その事実に、ふと手が止まり、息が詰まる。
慣れというものは、こんなにも静かに進むものなのだろうか。
水音が止まり、しばらくして拓実が戻って来た。
「悪い、待たせたな」
「いえ……」
拓実はまたソファに腰掛けると、さっきよりも幾分すっきりした顔をしているように、陽介には見えた。
「なあ、陽介」
「はい」
「今の、この感じ……嫌じゃない……よな?」
唐突な問いかけ、だが、その答えは陽介の中で当たり前になっていた。
「……嫌じゃ、ないです」
むしろ、その逆だ。
拓実は小さく笑うと、背もたれに身体を深く預けて、陽介を見つめる。
「よかった」
それだけ言うと、そのまま目を閉じた。
部屋には、さっきまでの重たい沈黙ではなく、名前のつかない、優しい静けさに満ちていくように感じた。
陽介は、ふと考えた。
——この距離に、慣れてしまっていってもいいのだろうか?
その自問自答に、まだ答えは出せなかった。
けれど、今はただ、この人がここにいるという事実だけが、今は心に深く落ちついていた。
陽介がコーヒーを淹れて、拓実はパンをトースターで焼いている。仕事前の簡単な朝食は、そんな風に役割分担が自然と出来てきていた。
「コーヒーどうぞ」——机にカップを置く。
「お、サンキュ」と言いながら、拓実はトーストを皿に置く。
陽介はなんとなく拓実に視線を向けてしまって、拓実と視線が絡んだ。
「ん? なんかついてる?」
「あ、いえ、なんでも……」
「さあ、早く食べちゃって今日もお仕事がんばろうや」
「は、はい。そうですね」
もぐもぐとトーストを咀嚼する音だけがひびく食卓、仕事前の家での時間はあまりにも短かった。
そして今日も、並んで通勤する二人の姿があった。
「あ、今日、夜ちょっと遅くなるかも」
何気ない一言だった。
「また、接待ですか?」
「いや、仕事終わりに飲み。営業の連中と」
「……そうですか」
ただそれだけの会話、それなのに陽介の胸の奥がざわつく。理由はわからない。だが、昨夜のレンジのチンとなる音が聞こえたような気がした。
昼休み。
いつものように、陽介は一人で社員食堂の隅に座って食事をしていた。
今日も、特に話す相手もいない。
向こうのテーブルでは、今日も営業部の輪ができていて、賑やかだ。
その中心にいるのは、やはり拓実だった。
「木崎さん、昨日の話なんですけど——」
「ああ、あれさ——」
とても声がよく通り、笑いの輪が、周囲を引き寄せる。
女性社員が自然に距離を詰めていくのが見えた。肩が触れるほど近くで笑っている。
——ああ、そういう人なんだ。
頭では分かっていた。
拓実は、誰とでも自然に距離を縮められる人だ。
自分も、ただその中の一人だった。それだけのことだ。
だが胸の奥に、昨日までなかった重さが溜まっていくのを陽介は感じていた。
フォークを持つ手が鈍くなり、食事が進まなくなった。
『別に、何でもない、いつものことだ』
そう思おうとするほど、意識は、向こうの賑やかな席から離れず、そこに向かい続けていた。
その日の夜。
先に帰宅した陽介は、シャワーを浴びてから部屋着に着替えていた。
キッチンには、拓実が朝使ったままのマグカップが置いてある。
洗ってしまおうか、一瞬迷って、結局そのままにした。
時計を見る。
まだ、帰ってくる気配はない。
昨日買った本を開くが、文字が頭に入ってこない。
しばらくして、玄関の鍵が開く音がした。
「ただいまー」
少し弾んだ声。
「……おかえりなさい」
拓実はネクタイを緩めながらリビングに入ってくる。
ほのかに、酒と香水の混じった匂いがした。
「今日は結構飲んだな……」
そう言ってソファに腰を下ろす拓実を、陽介は立ったまま見ていた。
言いたいことが、あるような気がする。
でも、それが何なのか、分からない。
「陽介?」
「……」——陽介はだまったまま、拓実を見ていた。
拓実は首をかしげるが、それ以上は何も言わない。
その沈黙が、静かに部屋に落ち、広がった。
陽介は初めて思った。
——この人が、どこで、誰と、何をしているのか。
それが、自分には分からないのだと。
そしてその事実が、何故だか心を締め付け続けていた。
ふたりの沈黙は、そのまま長く続いた。
拓実はソファに深く腰を下ろし、天井を仰いで小さく息を吐いた。
「……今日は」
拓実が、やっとぽつりと口を開いた。
「実は正直なところ、ただ疲れただけだった」
それは陽介には意外な言葉で、思わず視線を上げて、拓実を見た。
「え?」
「仕事は上手くいったし、周りは盛り上がってた。でも、なんか……とても疲れた」
拓実はそう言うと、片手で目元を覆い、また深く息を吐く。
昼間見た、あの賑やかな輪の中心にいた姿と、今のくたびれた姿が、同じ人物には思えない。
「……無理、してるんですか?」
陽介が自分でも驚くほど、そんな言葉が自然に口をついた。
拓実は軽く目を細めると、陽介の目を見つめた。
「無理、ってほどのことでもないけど。みんなの期待する俺をやってる……そんな感じ、かな?」
そう言うと、拓実は軽く笑った。その笑いはどこか薄く力がない。
「家に帰ってきたら、いつもの静けさが優しくてさ。——それだけで、ちょっと楽に感じたんだ」
その言葉が、ほっと胸の奥に落ちついた。
——楽になる、場所。
それを、拓実が「家」だと言った。
その言葉が、陽介の中で静かに広がっていく。
陽介は、少し迷い、思い切って口を開いた。
「……僕は、逆ですね」
「逆?」
「会社にいるときの方が、何も考えなくていい。家に帰ると……」
言葉が、うまく続かない。
そんな陽介を、拓実は急かさず、黙って待ってくれている。
「……一人だと、色々考えてしまうんです」
それは、今まで誰にも言ったことのない感覚だった。
「誰かが帰ってくるかもしれない、そう思うことで、それだけで落ち着かなくなるというか……」
陽介はそう言ってから、はっとした。
今のは、言い過ぎだったのかもしれない。
だが拓実は、そんな陽介の告白を、からかうでもなく、ただ静かに頷いて聞いていた。
「……そっか」
少し間をおいてから、拓実は立ち上がる。
「シャワー、浴びてくるよ。その間に、陽介も少し休めよ」
「……はい」
拓実はそれ以上何も言わずに、シャワーに向かった。
リビングにひとりきり残された陽介は、胸の奥に残るものの正体を、まだ言葉として形にできずにいた。
シャワーの水音が、一定のリズムで聞こえてくる。
陽介はキッチンに立つと、無意識にマグカップを二つ並べていた。
——もうふたりぶん、用意するのが当たり前になっている、そう思う。
その事実に、ふと手が止まり、息が詰まる。
慣れというものは、こんなにも静かに進むものなのだろうか。
水音が止まり、しばらくして拓実が戻って来た。
「悪い、待たせたな」
「いえ……」
拓実はまたソファに腰掛けると、さっきよりも幾分すっきりした顔をしているように、陽介には見えた。
「なあ、陽介」
「はい」
「今の、この感じ……嫌じゃない……よな?」
唐突な問いかけ、だが、その答えは陽介の中で当たり前になっていた。
「……嫌じゃ、ないです」
むしろ、その逆だ。
拓実は小さく笑うと、背もたれに身体を深く預けて、陽介を見つめる。
「よかった」
それだけ言うと、そのまま目を閉じた。
部屋には、さっきまでの重たい沈黙ではなく、名前のつかない、優しい静けさに満ちていくように感じた。
陽介は、ふと考えた。
——この距離に、慣れてしまっていってもいいのだろうか?
その自問自答に、まだ答えは出せなかった。
けれど、今はただ、この人がここにいるという事実だけが、今は心に深く落ちついていた。



