朝の支度をする音が、部屋の中でゆるやかなに流れている。
拓実はシャワーを終え、ネクタイを締めながらスマートフォンの画面を眺めている。
陽介はキッチンで湯を沸かし、二人分のマグカップを並べたあと、自分のでない片方を手に取ると、一瞬動きを止めた。
「……今日は、帰り遅くなりますか?」
陽介がそう尋ねると、拓実は少し間を置いてから答えた。
「たぶん。昨日言ってた件、まだ片付いてなくてさ」
「そう、ですか」
それ以上、続く言葉は出なかった。
つい先日まで、「気をつけてください」とか、「夕飯はどうします?」とか、自然に出ていた言葉が、今は何故か喉の奥で止まったまま出てこなくなった。
そして拓実もまた、何か言いかけてとまったまま、視線を逸らした。
「じゃ、先行くな」
「……はい、いってらっしゃい」
ドアが閉まる音を、陽介は静かに聞いていた。
——近づいたはずなのに、縮められなくなった距離がむしろはっきりしてきている。
そんな見えない境界線が、確かにそこにある、そう思えた。
その日の昼休み。
経理課の先輩に誘われ、珍しく陽介は複数人で昼食をとっていた。
仕事の話、他愛ない雑談。その流れで、ふと話題が変わる。
「新川くん、今どこに住んでるんだっけ?」
「え……本社近くの社宅です」
「へえ、じゃあ通勤楽でいいね」
そのとき、別の社員が思い出したように口を挟む。
「確か手違いで、営業の木崎と一緒に住んでるってほんと?」
一瞬、空気が止まった。
「……はい。今は、事情があって一緒です」
言葉にした途端、その意味がはっきり輪郭を持つ。
「とんだ災難だね。」
「男同士とはいえ、他人と同居とか大変でしょ?」
「昔は、社宅に二段ベッドがあって、一部屋に四人暮らすとかあったんだぞ?」
「ええ?」
そんな話が、周りを流れていっていたが、陽介はぼんやりと聞き流していた。
自分たちの関係は、外から見れば「ただの同居」だ。
だが、ただそれだけで片付けてしまっていいのか——。
昼休みが終わり、席に戻る途中、遠くに拓実の姿が見えた。
営業部の誰かと話しながら、いつものように笑っている。
——この人と、同じ部屋で暮らしている。
その事実が、急に現実味を帯びて迫ってきた。
その夜、特に拓実の帰りは遅かった。
陽介は先に風呂を済ませ、リビングで本を読んでいたが、ページはめくる手がほとんど進んでいない。
玄関の扉が開く音がして、思わず陽介が時計を見る。もう日付が変わる少し前だった。
「ただいま」
「……おかえりなさい」
拓実はネクタイを外しながら、疲れた顔でソファに腰を下ろす。
「今日さ……ちょっと変なこと言われて」
ぽつりと拓実が言った。
「変なこと?」
「同居のこと。会社で噂になってるみたいでさ」
陽介の心臓が、強く脈を打つ。
「……すみません」
思わず出た言葉だった。
「いや、陽介のせいじゃない」
拓実はそう言いながらも、どこか言葉を選んでいる。
「ただ……その、誤解されるのも面倒だなって思って」
「そうですね、総務課のミスで、ひと月だけの同居をしなきゃいけなくなっただけ……ですものね」
そう、自分たちの関係はあと少し、5月には終わるはずの関係でしかない。そのことをあらためて意識する陽介だった。
しばらくだまったまま、考えごとをしていた拓実が、唐突に陽介を見つめると、話し始めた。
「陽介……、あのな」
「はい?」
「俺のせいなんだ」
思ってもいなかった言葉に、陽介は顔を上げる。
「俺が……変に目立つからだ。昔さ、ちょっと噂になったことあって」
拓実は自嘲気味に笑う。
「男に本気になったことがあるって。まあ、事実なんだけどな」
空気が、静まり返った。
陽介は言葉を失った。
「それで、いろいろ勝手に言われてさ。今回の同居も、面白がられてるんだろうなって」
拓実は視線を逸らしたまま続ける。
「陽介は、関係ないのに」
——負い目。
その色が、はっきりと見えた。
陽介は、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じる。
「……関係ない、わけじゃないです」
気づけば、言葉がこぼれていた。
拓実が顔を上げる。
「僕は——」
喉が詰まる。
だが、逃げたくなかった。
「二人の生活……家に誰かがいる生活が……楽しいと、そう思えるようになってしまっているんです。これがどういうことなのか、僕にはよくわかってはいないんですけどね」
言ってしまった。
空気が震える。
「陽介……」
「噂が立つのが嫌なんじゃないです」
手が震えている。
「終わる前提で話されることが、なんだか寂しいんです」
それは、ほとんど告白も同然だった。
拓実は、言葉を失ったように陽介を見つめている。
しばらくの沈黙のあと、拓実が静かに言う。
「……俺は」
その声は、いつもの軽さがなかった。
「陽介を、巻き込みたくない」
「巻き込まれてます」
思わず強く言ってしまう。
「最初から、同じ部屋に住んでる時点で」
小さな衝突。
だが怒りではない。
怖さと本音がぶつかった音だった。
拓実は目を閉じ、小さく息を吐いた。
「俺、また誰かを傷つけるのが怖いんだ」
その告白は、初めての弱さだった。
陽介は、そこで初めて理解する。
この人は、軽いのではない。
軽く振る舞っているだけだと。
——選ぶ。
陽介は、逃げないことを選ぶ。
「……傷つくかどうかは、僕が決めます」
静かな声だった。
だがその口調はまったく揺れていなかった。
「僕は、自分でここにいると決めてます」
それは、初めての主体的な言葉だった。
拓実の目が、はっきりと揺れる。
やがて、小さく笑った。
「……ずるいな」
「どっちがですか」
少しだけ空気が緩む。
けれど、今までとは違う。
逃げない空気。
「陽介」
「はい」
「もう少しだけ、この距離のままでいさせてくれ」
それは曖昧で、でも誠実な願いだった。
「……はい」
今は、それでいい。
はっきりとこの気持ちに名前はつけない。
けれど、ただの『手違い』ではもうない。
同じ部屋にいる理由に、自分の意思をのせた、そんな夜だった。
拓実はシャワーを終え、ネクタイを締めながらスマートフォンの画面を眺めている。
陽介はキッチンで湯を沸かし、二人分のマグカップを並べたあと、自分のでない片方を手に取ると、一瞬動きを止めた。
「……今日は、帰り遅くなりますか?」
陽介がそう尋ねると、拓実は少し間を置いてから答えた。
「たぶん。昨日言ってた件、まだ片付いてなくてさ」
「そう、ですか」
それ以上、続く言葉は出なかった。
つい先日まで、「気をつけてください」とか、「夕飯はどうします?」とか、自然に出ていた言葉が、今は何故か喉の奥で止まったまま出てこなくなった。
そして拓実もまた、何か言いかけてとまったまま、視線を逸らした。
「じゃ、先行くな」
「……はい、いってらっしゃい」
ドアが閉まる音を、陽介は静かに聞いていた。
——近づいたはずなのに、縮められなくなった距離がむしろはっきりしてきている。
そんな見えない境界線が、確かにそこにある、そう思えた。
その日の昼休み。
経理課の先輩に誘われ、珍しく陽介は複数人で昼食をとっていた。
仕事の話、他愛ない雑談。その流れで、ふと話題が変わる。
「新川くん、今どこに住んでるんだっけ?」
「え……本社近くの社宅です」
「へえ、じゃあ通勤楽でいいね」
そのとき、別の社員が思い出したように口を挟む。
「確か手違いで、営業の木崎と一緒に住んでるってほんと?」
一瞬、空気が止まった。
「……はい。今は、事情があって一緒です」
言葉にした途端、その意味がはっきり輪郭を持つ。
「とんだ災難だね。」
「男同士とはいえ、他人と同居とか大変でしょ?」
「昔は、社宅に二段ベッドがあって、一部屋に四人暮らすとかあったんだぞ?」
「ええ?」
そんな話が、周りを流れていっていたが、陽介はぼんやりと聞き流していた。
自分たちの関係は、外から見れば「ただの同居」だ。
だが、ただそれだけで片付けてしまっていいのか——。
昼休みが終わり、席に戻る途中、遠くに拓実の姿が見えた。
営業部の誰かと話しながら、いつものように笑っている。
——この人と、同じ部屋で暮らしている。
その事実が、急に現実味を帯びて迫ってきた。
その夜、特に拓実の帰りは遅かった。
陽介は先に風呂を済ませ、リビングで本を読んでいたが、ページはめくる手がほとんど進んでいない。
玄関の扉が開く音がして、思わず陽介が時計を見る。もう日付が変わる少し前だった。
「ただいま」
「……おかえりなさい」
拓実はネクタイを外しながら、疲れた顔でソファに腰を下ろす。
「今日さ……ちょっと変なこと言われて」
ぽつりと拓実が言った。
「変なこと?」
「同居のこと。会社で噂になってるみたいでさ」
陽介の心臓が、強く脈を打つ。
「……すみません」
思わず出た言葉だった。
「いや、陽介のせいじゃない」
拓実はそう言いながらも、どこか言葉を選んでいる。
「ただ……その、誤解されるのも面倒だなって思って」
「そうですね、総務課のミスで、ひと月だけの同居をしなきゃいけなくなっただけ……ですものね」
そう、自分たちの関係はあと少し、5月には終わるはずの関係でしかない。そのことをあらためて意識する陽介だった。
しばらくだまったまま、考えごとをしていた拓実が、唐突に陽介を見つめると、話し始めた。
「陽介……、あのな」
「はい?」
「俺のせいなんだ」
思ってもいなかった言葉に、陽介は顔を上げる。
「俺が……変に目立つからだ。昔さ、ちょっと噂になったことあって」
拓実は自嘲気味に笑う。
「男に本気になったことがあるって。まあ、事実なんだけどな」
空気が、静まり返った。
陽介は言葉を失った。
「それで、いろいろ勝手に言われてさ。今回の同居も、面白がられてるんだろうなって」
拓実は視線を逸らしたまま続ける。
「陽介は、関係ないのに」
——負い目。
その色が、はっきりと見えた。
陽介は、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じる。
「……関係ない、わけじゃないです」
気づけば、言葉がこぼれていた。
拓実が顔を上げる。
「僕は——」
喉が詰まる。
だが、逃げたくなかった。
「二人の生活……家に誰かがいる生活が……楽しいと、そう思えるようになってしまっているんです。これがどういうことなのか、僕にはよくわかってはいないんですけどね」
言ってしまった。
空気が震える。
「陽介……」
「噂が立つのが嫌なんじゃないです」
手が震えている。
「終わる前提で話されることが、なんだか寂しいんです」
それは、ほとんど告白も同然だった。
拓実は、言葉を失ったように陽介を見つめている。
しばらくの沈黙のあと、拓実が静かに言う。
「……俺は」
その声は、いつもの軽さがなかった。
「陽介を、巻き込みたくない」
「巻き込まれてます」
思わず強く言ってしまう。
「最初から、同じ部屋に住んでる時点で」
小さな衝突。
だが怒りではない。
怖さと本音がぶつかった音だった。
拓実は目を閉じ、小さく息を吐いた。
「俺、また誰かを傷つけるのが怖いんだ」
その告白は、初めての弱さだった。
陽介は、そこで初めて理解する。
この人は、軽いのではない。
軽く振る舞っているだけだと。
——選ぶ。
陽介は、逃げないことを選ぶ。
「……傷つくかどうかは、僕が決めます」
静かな声だった。
だがその口調はまったく揺れていなかった。
「僕は、自分でここにいると決めてます」
それは、初めての主体的な言葉だった。
拓実の目が、はっきりと揺れる。
やがて、小さく笑った。
「……ずるいな」
「どっちがですか」
少しだけ空気が緩む。
けれど、今までとは違う。
逃げない空気。
「陽介」
「はい」
「もう少しだけ、この距離のままでいさせてくれ」
それは曖昧で、でも誠実な願いだった。
「……はい」
今は、それでいい。
はっきりとこの気持ちに名前はつけない。
けれど、ただの『手違い』ではもうない。
同じ部屋にいる理由に、自分の意思をのせた、そんな夜だった。



