ひと月だけの同居人

 久しぶりの東京の電車に揺られ、本社へ向かう。
 電車の窓硝子には、ぱっとしない男の顔が映っている。
 懐をさぐって、転勤辞令の用紙を確認する。

 新川陽介・4月1日より、本社経理課勤務を命ず。
 
 この一枚の紙切れで、陽介は東京に戻る事になった。
 
 送別会で、向こうの課長に、以前話した『昔の恋人』のことを持ち出され、会って来いよと冗談めかして言われた。その時、陽介は笑って誤魔化した。
 そもそも恋人なんて、東京に置いてきていない。
 恋の仕方を知らない自分が、少しだけ恥ずかしくなった。

 今日、本社で社宅の鍵を受け取る。
 週明けには、もう新しい部署で働き始める。
 午後には引っ越しの荷物が届く予定なので、急いで鍵を受け取ったら、社宅に行かないとそう思って、急ぎ足で駅から、本社ビルに向かった。


 本社の総務課に行くと、先客がいた。
 
「なんだって? 俺と新川陽介とやらが同じ部屋になっている?」
 
 突然、自分の名前が聞こえてきて、胸が跳ねた。
 呼ばれるはずのない場所で呼ばれると、人はどうしてこんなに動揺するのか、陽介には分からなかった。
  
「あの、新川陽介は僕ですが、何か?」
 
「あんたか、ちょうど良かった。俺は木崎拓実、あんたと俺の社宅が同じ住所の同じ部屋が割り当てられてるんだよ」
 
 長身で黒いコート、二十代後半の社交的な雰囲気は、営業職だろうか。その男はとんでもない事を言ってきた。

「え? いったいなぜ?」

 総務課の職員が、申し訳なさそうに説明した。
 
「本当に申し訳ありません、システムのミスでして。急にもう一部屋準備することもできず、何とか4月中の一ヶ月だけ相部屋をお願いできないでしょうか?」
 
「一ヶ月なら、……その、ホテルとか……空いてたりしないんでしょうか?」
 
 陽介がそう尋ねると、更に頭を下げながら総務課の職員が言った。

「あの、ご存じだと思いますが、ちょうどあの国際的イベントがありまして……、この近辺のホテルなど空きをみつけることができませんでした。通勤に2時間弱かかる遠方とかなら何とかなりますが、どちらかそれで大丈夫でしょうか?」

「あ、ああ、そうか、そうだね」
 
 部屋がみつからない事には納得せざるを得ない。
 
「俺は2時間とかごめんこうむるよ、君、いけるかい?」
 
 そう拓実が聞いてくる。
 
「いや、流石に、僕もそれは困ります」
 
 拓実は、頭を掻いた。
 
「しょうがない、一ヶ月なら、いける……かな?」——そう軽く言ったが、言葉の後ろに小さな『間』があった。
 軽く表情は笑っているように見える——しかし、目が笑っていない気がした。

 陽介も頷くしかなかった。このまま今夜路頭に迷うわけにもいかなかった。
 
「……よろしくお願いします」
 
 少し言葉を震わせながら、何とか返事をした。
 
 拓実が陽介を見る、その視線に何故か優しさを感じて、心が少しほどけたような気がした。
 
「寝具の方は、発注してますので、夕方には届くかと思います、あ、こちら鍵、一つずつお渡ししておきます」 
 
 そう言って、二人に鍵を渡すと、話は終わったとばかりに総務職員は逃げるように自席に戻っていった。


 社宅は、本社から徒歩十五分ほどのところにある、築浅のマンションだった。
 玄関をあけると、瀟洒な壁紙の小ぎれいな都会の部屋がそこにあった。

「綺麗なとこじゃんか」——拓実が先に靴を脱いで入っていく。

「とりあえず間取りを確認しようか」
 
 そう言って、拓実は部屋を見て回る、陽介も慌ててついていった。
 
 玄関から、洗面所とバスルーム、トイレもちゃんと別にある。
 小さいがキッチンがついたダイニングと、リビング、そして、寝室が一つ。
 中にはシングルベッドが一つ置いてあった。

「そりゃ、まあ、一つだよな」——拓実が頷きながら言った。

 陽介は言葉を失った。
  
 ちょうどその時、部屋のインターホンが来客を告げた。
 総務の言ってた荷物が届いた。そこには来客用に使うような簡単な布団のセットが一つ。

 更に少しして、二人の私物の入った段ボールがいくつか届いた。
 
「布団とベッドとどっちが好き?」
 
 拓実が、探るように問いかける。
 
「えっと僕はどちらでも……」
 
「一ヶ月、一緒に暮らすんだぜ、遠慮なんかすんなよ? 言いたい事があればちゃんと言っておかないと、お互い結局息が詰まるぞ?」
 
 そう拓実が言って、ニコリと微笑んできた。

「じゃ、じゃあ布団でいいですか? 慣れないベッドのスプリングは苦手なことがあって」
 
 陽介がそういうと、拓実はベッドを見つめて、微妙に曖昧な表情を浮かべ、ほんの一瞬寂しそうな目になると、すぐに笑顔をつくり、ニコリと大げさに笑いながら言った。
 
「じゃあ、俺は、ベッド使わせてもらうよ。さて、じゃあ荷物片付けようか、さっさと片付けて、生活の準備をしよう」

 拓実は持っていたコートをベッドに放り投げると、振り返ってリビングに向かう。
 
 陽介は、拓実のコートから、何かが落ちたのに気付いた。それは大事に使われて、すり切れた革製のキーホルダー、お洒落な拓実には不似合いだな? そう思いながら拾おうと手を伸ばすと、さっと横合いから拓実の手が伸びてきて拾い上げた。
 
 じっと拓実は手元のそれを見つめたが、何事でもなかったように、しかし、それを丁寧にズボンのポケットに仕舞い直した。
 
 その様子に、胸の奥がわけもなくざわついた。