「どう?王様業務は?」
秘喪が明けたある日、ベルは母に誘われて中庭を歩いていた。
唐突な問いに、すぐには言葉が出てこない。
長かったような、短かったような。
森で暮らしていた頃の一か月とは、まるで濃さが違った。
レオンハルトの『毒』。
フロリアンの『依存』。
コンスタンティンの『冤罪』。
ルーペルトの『怒り』。
カシミールの『真名』。
ヨアヒムの『結び』。
ジークムントの『傷』。
一つ一つ思い返すたび、胸の奥に少しずつ重みが積もる。
それを『王の重み』と呼ぶには、まだベルは若すぎる気がした。
「慣れないことだらけ。森が恋しいよ」
「そう」
母は短く相槌を打った。
その顔が、どこか困ったように見えて、ベルは少し不思議になる。
周囲から見れば、伝説とまで呼ばれた西の魔女。
国王がただ一人、心から愛した女性。
それでもベルにとっては、ただ一人の、少し秘密の多い母だ。
「お父さんを、どうやって選んだの?」
「選んだ?」
「お母さんはお父さんに『真名』を渡してもいいって、どうやって決めたの」
アーデはすぐには答えなかった。
考えているというより、懐かしいものを手のひらに乗せて見つめているような顔。
「難しいことを聞くのね」
「今さら?」
「今さらね」
アーデは小さく笑った。
「最初から、この人だって分かったわけじゃないわ」
「そうなの?」
「ええ。むしろ、絶対に違うと思ってた」
ベルは思わず目を丸くする。
「でも、偶然よ。……いえ、必然だったのかもしれない」
母は遠くを見た。
寂しそうで、でもそれだけじゃない。
それは魔女の顔じゃなく、一人の女の人の顔に見えた。
噴水の音が遠くで続いている。
春の終わりの風はやわらかいのに、そこだけ冷たい。
「王様は、たくさんのものを持っているように見えるでしょう。でも、本当にほしいものが一番手に入らないこともある」
「……」
「最初は、絶対に巻き込みたくなかった」
ベルは自分の胸の奥が、ちくりと痛むのを感じた。
『巻き込みたくない』。
その感覚は、もう他人事じゃない。
「二十年以上前に知り合って。好きになってしまった」
「『真名』もその時に?」
「いいえ。魔女の縛りは強力なの。相手は王様だったし、『真名』を伝えるつもりなんてなかった」
カシミールが話した通りだ。
いや、きっとあれよりもっと重く、もっと現実的なものだったのだろう。
血と魔力に縛られた、ほとんど呪いみたいなもの。
アーデは続けた。
「あの人は何度も来た。断っても来た。怒っても来た。隠れても見つけた」
「しつこい」
「しつこかったわね。なのに、時間ができるとすぐ来てね」
「王様のくせに?」
「ええ。王様のくせに」
アーデはくすっと笑った。
その笑いが少しだけ若くて、ベルもつられそうになる。
「けれど、最後に決めたのはしつこさじゃないの」
「じゃあ、何?」
「私が『選べる』って、最後まで信じてくれたこと」
アーデはベルを見る。
「そして『この先の人生、僕にください』って言われちゃったの」
「え、ちょろくない?」
思わず出てしまった言葉に、母は声を立てて笑った。
その笑顔が、一瞬だけ若い女の人の顔に戻る。
けれど、きっと母のことだ。
その一言だけで決めたわけじゃないことくらい、ベルにも分かる。
「『真名』はね、渡す側にとっても怖いの。だって、相手を自分の生涯に巻き込むから。自由を奪うかもしれないから。だから怖くて当たり前。迷って当たり前」
「……うん」
「でも、その怖さごと、あなたが決めていいって言ってくれる人なら」
アーデはそこで言葉を切り、ベルの手をそっと取った。
薬草の匂いがした。懐かしい匂い。
「その人になら、渡してもいい。渡したあとで泣くことになっても、自分で選んだと思えるから」
ベルは母の手の温かさを感じながら、ゆっくり息を吐く。
答えはまだ出ない。
でも、急がなくていいのだと、少しだけ思えた。
「……お母さん、やっぱりちょろいかも」
「失礼ね。ちゃんと、たくさん迷ったわよ」
アーデは風に髪を揺らしながら、穏やかに言った。
「きっと、渡して大丈夫よ」
ベルは唇を噛む。
その言葉が、まっすぐ胸の真ん中に落ちる。
慰めの言葉というより、もうずっと先まで見通した人の確信みたいで、余計に胸がざわついた。
「……お母さんは、怖くなかった?」
「怖かったわ」
「それでも?」
「それでも」
アーデは静かに頷く。
「怖いまま、選んだの」
ベルはそれ以上、何も言えなかった。
母の言葉の中に、自分がこれからやることの形が、もうはっきりとあったからだ。
「ベル。あなた、森が恋しいんでしょう?」
「うん」
「なら、王様になっても恋しがりなさい」
「え?」
「王様だからって、何もかも捨てなくていいの。森を恋しがるあなたのままでいい。恋しがる心を持ったまま決めるから、きっと人を切り捨てすぎない」
ベルは少し笑った。
その言い方は、母らしいと思う。
強くあれとは言わない。ただ、自分のままでいろと言うのだ。
「お母さんが一か月前に隠れたのも、私を守るため?」
「そう。余計な心配だった?」
「ううん。助かった」
ベルと二人で、西の森で隠れるように暮らしていたこと。
お互いの存在が、お互いにとっての弱点になる。
それを予見して、あの日まで母は身を隠した。
一度も父に会ったことがないことさえ。
それら全部が、父と母がベルを守るために選んだ形だったのだと、今なら分かる。
「その顔は、もう決めたんでしょ?」
「なんで分かるの!?」
「魔女だからかしら?」
母の顔はどこまでも優しい。
ベルの決めたことを、最初から受け入れている顔。
「嘘よ。あなたのお母さんだからよ」
その言葉に、ベルはこみあげてくるものを隠せなかった。
困惑するベルへ、母の手がそっと伸び、頬を包む。
ずっと見てきた、ほんのりと薬草の香りのする優しい手。
幼い頃から熱を測られ、傷を見られ、涙を拭われてきた手。
「大丈夫。あなたは私とお父さんの子。善き魔女になるわ。保証する」
「……私も魔法使えるの?」
「使いたいの?」
「今は、別に」
「そう思うってことは、今以上の魔法はベルには必要ないってことよ」
「今以上?」
「気が付いてないなら、それでいいのよ」
その言葉で、不思議とベルの心は落ち着いた。
迷いが消えるわけじゃない。
けれど、迷ったままでも進めるのだと、気持ちが少しずつ強くなっていく。
「お母さん。今、会いに行こうと思う」
「そう。でも、もう向こうから来ているみたいよ?」
「えっ?」
母の言葉のすぐあと、近づく足音で分かってしまう。
もう、この足音を聞き間違えない。
「ベル」
声をかけられ、振り向く。
「じゃあ、私はそろそろ森に帰ろうかしら」
「帰っちゃうの?」
「いつでも家に帰ってくるといいわ」
「うん……」
「殿下もよかったら」
「お母さん!」
母のその言葉に、ベルは慌てて遮る。
「ああ、折を見て。ベルと一緒に、この度の礼を」
レオンハルトのその言葉を聞いたアーデは、満足そうに微笑んだ。
そして振り返った、その刹那。
庭園の花びらが舞う中、小さい旋風の中、一瞬で母の姿が消える。
目の前で初めて見た母の魔法。
伝説の西の魔女なのだということが、ベルの中で急に現実味を帯びてくる。
「すまない。邪魔しただろうか?」
その言葉に、ベルはふいっと目を逸らした。
邪魔なんて、と言いたいのに、口が思うように動かない。
次の瞬間、風が吹いた。
花びらが一枚、二枚と舞う。
母の言葉を反芻する。
『真名』を伝えることは、相手を強制的に自らの番にすること。
それは相手に自分しか見るなと言う、魔女による嫉妬深い呪いみたいなもの。
好きだからこそ、怖い。
渡した瞬間に、自分の人生だけじゃなく、相手の人生まで巻き込んでしまうから。
「殿下。あの時の言葉は、今も変わりありませんか?」
幾度となくレオンハルトに告げられた、好意の言葉。
けれど今は、その重みが前とは違って聞こえる。
「変わらない」
たった一言。
一言だからこそ、余計に彼の想いが変わらない証拠でもあった。
「ああ、強いて言うなら」
「強いて言うなら?」
聞き返すと、レオンハルトはベルの手を取った。
あの毒に侵され、震え、手袋で隠されていた手。
今では節の赤みも、発疹も、もうない。
長身の身体が、ベルの目の前に跪く。
二人の間をふわっと花の香りと風が通り抜け、髪が大きく揺れた。
「ベル。この先の人生を、俺にくれないだろうか」
その声は低く、けれど揺れなかった。
王としてではなく、一人の男として差し出された言葉だと、ベルにも分かった。
風が止み、庭園の音だけが二人のあいだに残る。
王と血の繋がらないはずのこの人が、王の娘に向かって、父と同じ言葉を口にする。
『偶然よ。いえ、必然だったのかも』
母の言葉が、頭の中で静かに繰り返される。
何度も。何度も。
花の香りの混じる風の中で、その一言だけが妙に鮮やかだった。
「殿下……私の『真名』は、あなたの人生を縛ります。それでも……」
「構わない。ベルのこの先の人生、ともに生きるんだ。何も変わらない」
レオンハルトは、少しもためらわずに言った。
迷いのない声。
だからこそ、ベルの胸は強く鳴る。
軽く口にした言葉ではないのだと、その一言だけで分かってしまう。
ベルは大きく息を吐き、ゆっくりとレオンハルトの右耳へ顔を寄せた。
近づくたび、もう後戻りできない気がして、指先がかすかに冷える。
「西の魔女の娘の『真名』、『ベルフレア』。——それを、あなたに」
ただ一人にだけ聞こえる、小さな声で伝える。
「ベルフレア」
その瞬間、レオンハルトの指先がぴくりと動いた。
握っていたベルの手が、ほんの少しだけ強く握り返される。
けれど力はすぐに緩んだ。
縛らないように、意識してほどいたのだと分かる。
その慎重さが、ベルにはたまらなく優しかった。
「……あなたしか知らないというのは、なんだか、照れます」
「よい名だ」
レオンハルトはそう言って、目を伏せた。
伏せたまま、しばらく言葉が出ない。
いつもなら一言で切る人が、黙る。
黙ったまま、呼吸を整えている。
ベルは小さく呼んだ。
「殿下?」
「……すまない」
レオンハルトが、まるで負けを認めるみたいに言った。
「今、言葉にすると……きっと強くなる」
「強く?」
「お前を縛る言葉になる」
ベルは胸の奥が熱くなるのを感じて、視線を逸らした。
嬉しいのに、怖い。
好きだと言われることより、好きだからこそ縛りたくないと分かってしまうことの方が、ずっと深く刺さる。
レオンハルトは顔を上げ、ベルの手の甲に唇を落とした。
触れるだけ。熱を残すだけ。それ以上はしない。
奪わないための口づけだと、ベルには分かった。
「返事は?」
聞きたいはずなのに、その声は強くない。
急かさない声。
待てる人の声だ。
ベルは小さく笑ってしまった。
「……ずるい」
「ずるくない」
「ずるいです。跪いて、そんな声で聞くのは」
「……では、聞かない」
レオンハルトはすぐに引いた。
その引き際が、妙に切ない。
本当に聞かないままでいそうで、ベルは慌てて言った。
「聞かないで、とは言ってないです」
「なら」
「……答えます」
ベルは、ゆっくり頷いた。
頷いた瞬間、自分の胸の奥の結び目が、ふっとほどけた気がした。
怖さが消えたわけじゃない。
それでも、もう言えると思った。
「レオンハルト殿下。いえ、レオ。——私は、あなたが好きです」
言い切ると、喉の奥が震えた。
王宮の静けさが、いっそう大きくなる。
風の音も、花びらの擦れる気配も、全部が遠のいたみたいだった。
レオンハルトは、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
それから、まっすぐベルを見る。
「……ありがとう」
ただそれだけ。
けれどその言葉は、感謝の形を借りて、ベルの選択を大切に抱きしめるみたいに。
そして、同じくらい静かに続ける。
「ベルフレア。俺はお前の自由を奪わない。お前が王でいる間も、森を恋しがる夜も、全部、お前のままでいていい」
ベルは言葉が出ず、ただ頷いた。
頷くだけで精一杯だった。
レオンハルトが立ち上がると、背の高い影がベルを包む。
でも抱きしめない。
抱きしめたら、ベルが『選ばれる側』になってしまう気がしたのだろう。
代わりに、レオンハルトはベルの額に、そっと自分の額を当てた。
近いのに、優しい距離。
触れているのに、奪われる感じが少しもしない。
「……今後は用がなくても堂々と訪ねられる」
「今それ言いますか?」
「用はある」
レオンハルトの声が、少しだけ笑っている。
「お前の隣にいる用だ。——今日から、正式にな」
ベルは目を閉じると、花の香りが風に混じる。
胸の奥で、さっきほどけた結び目が、今度はやわらかく結び直されていくような気がした。
一月前に父が死んだ。
母に父からの書簡を渡され、七人の王子と出会った。
偽りに揺らされ、火に脅され、言葉に傷ついた。
それでも最後に、自分で選ぶ余白だけは守り抜いた。
どこからが偶然だったのだろう。
それとも、母の言葉通り、すべてが必然だったのかもしれない。
けれど、これだけは確かだ。
——この先の未来は、誰にも決められない。
ベルフレアとレオンハルトだけが、選んで、紡いでいく。
秘喪が明けたある日、ベルは母に誘われて中庭を歩いていた。
唐突な問いに、すぐには言葉が出てこない。
長かったような、短かったような。
森で暮らしていた頃の一か月とは、まるで濃さが違った。
レオンハルトの『毒』。
フロリアンの『依存』。
コンスタンティンの『冤罪』。
ルーペルトの『怒り』。
カシミールの『真名』。
ヨアヒムの『結び』。
ジークムントの『傷』。
一つ一つ思い返すたび、胸の奥に少しずつ重みが積もる。
それを『王の重み』と呼ぶには、まだベルは若すぎる気がした。
「慣れないことだらけ。森が恋しいよ」
「そう」
母は短く相槌を打った。
その顔が、どこか困ったように見えて、ベルは少し不思議になる。
周囲から見れば、伝説とまで呼ばれた西の魔女。
国王がただ一人、心から愛した女性。
それでもベルにとっては、ただ一人の、少し秘密の多い母だ。
「お父さんを、どうやって選んだの?」
「選んだ?」
「お母さんはお父さんに『真名』を渡してもいいって、どうやって決めたの」
アーデはすぐには答えなかった。
考えているというより、懐かしいものを手のひらに乗せて見つめているような顔。
「難しいことを聞くのね」
「今さら?」
「今さらね」
アーデは小さく笑った。
「最初から、この人だって分かったわけじゃないわ」
「そうなの?」
「ええ。むしろ、絶対に違うと思ってた」
ベルは思わず目を丸くする。
「でも、偶然よ。……いえ、必然だったのかもしれない」
母は遠くを見た。
寂しそうで、でもそれだけじゃない。
それは魔女の顔じゃなく、一人の女の人の顔に見えた。
噴水の音が遠くで続いている。
春の終わりの風はやわらかいのに、そこだけ冷たい。
「王様は、たくさんのものを持っているように見えるでしょう。でも、本当にほしいものが一番手に入らないこともある」
「……」
「最初は、絶対に巻き込みたくなかった」
ベルは自分の胸の奥が、ちくりと痛むのを感じた。
『巻き込みたくない』。
その感覚は、もう他人事じゃない。
「二十年以上前に知り合って。好きになってしまった」
「『真名』もその時に?」
「いいえ。魔女の縛りは強力なの。相手は王様だったし、『真名』を伝えるつもりなんてなかった」
カシミールが話した通りだ。
いや、きっとあれよりもっと重く、もっと現実的なものだったのだろう。
血と魔力に縛られた、ほとんど呪いみたいなもの。
アーデは続けた。
「あの人は何度も来た。断っても来た。怒っても来た。隠れても見つけた」
「しつこい」
「しつこかったわね。なのに、時間ができるとすぐ来てね」
「王様のくせに?」
「ええ。王様のくせに」
アーデはくすっと笑った。
その笑いが少しだけ若くて、ベルもつられそうになる。
「けれど、最後に決めたのはしつこさじゃないの」
「じゃあ、何?」
「私が『選べる』って、最後まで信じてくれたこと」
アーデはベルを見る。
「そして『この先の人生、僕にください』って言われちゃったの」
「え、ちょろくない?」
思わず出てしまった言葉に、母は声を立てて笑った。
その笑顔が、一瞬だけ若い女の人の顔に戻る。
けれど、きっと母のことだ。
その一言だけで決めたわけじゃないことくらい、ベルにも分かる。
「『真名』はね、渡す側にとっても怖いの。だって、相手を自分の生涯に巻き込むから。自由を奪うかもしれないから。だから怖くて当たり前。迷って当たり前」
「……うん」
「でも、その怖さごと、あなたが決めていいって言ってくれる人なら」
アーデはそこで言葉を切り、ベルの手をそっと取った。
薬草の匂いがした。懐かしい匂い。
「その人になら、渡してもいい。渡したあとで泣くことになっても、自分で選んだと思えるから」
ベルは母の手の温かさを感じながら、ゆっくり息を吐く。
答えはまだ出ない。
でも、急がなくていいのだと、少しだけ思えた。
「……お母さん、やっぱりちょろいかも」
「失礼ね。ちゃんと、たくさん迷ったわよ」
アーデは風に髪を揺らしながら、穏やかに言った。
「きっと、渡して大丈夫よ」
ベルは唇を噛む。
その言葉が、まっすぐ胸の真ん中に落ちる。
慰めの言葉というより、もうずっと先まで見通した人の確信みたいで、余計に胸がざわついた。
「……お母さんは、怖くなかった?」
「怖かったわ」
「それでも?」
「それでも」
アーデは静かに頷く。
「怖いまま、選んだの」
ベルはそれ以上、何も言えなかった。
母の言葉の中に、自分がこれからやることの形が、もうはっきりとあったからだ。
「ベル。あなた、森が恋しいんでしょう?」
「うん」
「なら、王様になっても恋しがりなさい」
「え?」
「王様だからって、何もかも捨てなくていいの。森を恋しがるあなたのままでいい。恋しがる心を持ったまま決めるから、きっと人を切り捨てすぎない」
ベルは少し笑った。
その言い方は、母らしいと思う。
強くあれとは言わない。ただ、自分のままでいろと言うのだ。
「お母さんが一か月前に隠れたのも、私を守るため?」
「そう。余計な心配だった?」
「ううん。助かった」
ベルと二人で、西の森で隠れるように暮らしていたこと。
お互いの存在が、お互いにとっての弱点になる。
それを予見して、あの日まで母は身を隠した。
一度も父に会ったことがないことさえ。
それら全部が、父と母がベルを守るために選んだ形だったのだと、今なら分かる。
「その顔は、もう決めたんでしょ?」
「なんで分かるの!?」
「魔女だからかしら?」
母の顔はどこまでも優しい。
ベルの決めたことを、最初から受け入れている顔。
「嘘よ。あなたのお母さんだからよ」
その言葉に、ベルはこみあげてくるものを隠せなかった。
困惑するベルへ、母の手がそっと伸び、頬を包む。
ずっと見てきた、ほんのりと薬草の香りのする優しい手。
幼い頃から熱を測られ、傷を見られ、涙を拭われてきた手。
「大丈夫。あなたは私とお父さんの子。善き魔女になるわ。保証する」
「……私も魔法使えるの?」
「使いたいの?」
「今は、別に」
「そう思うってことは、今以上の魔法はベルには必要ないってことよ」
「今以上?」
「気が付いてないなら、それでいいのよ」
その言葉で、不思議とベルの心は落ち着いた。
迷いが消えるわけじゃない。
けれど、迷ったままでも進めるのだと、気持ちが少しずつ強くなっていく。
「お母さん。今、会いに行こうと思う」
「そう。でも、もう向こうから来ているみたいよ?」
「えっ?」
母の言葉のすぐあと、近づく足音で分かってしまう。
もう、この足音を聞き間違えない。
「ベル」
声をかけられ、振り向く。
「じゃあ、私はそろそろ森に帰ろうかしら」
「帰っちゃうの?」
「いつでも家に帰ってくるといいわ」
「うん……」
「殿下もよかったら」
「お母さん!」
母のその言葉に、ベルは慌てて遮る。
「ああ、折を見て。ベルと一緒に、この度の礼を」
レオンハルトのその言葉を聞いたアーデは、満足そうに微笑んだ。
そして振り返った、その刹那。
庭園の花びらが舞う中、小さい旋風の中、一瞬で母の姿が消える。
目の前で初めて見た母の魔法。
伝説の西の魔女なのだということが、ベルの中で急に現実味を帯びてくる。
「すまない。邪魔しただろうか?」
その言葉に、ベルはふいっと目を逸らした。
邪魔なんて、と言いたいのに、口が思うように動かない。
次の瞬間、風が吹いた。
花びらが一枚、二枚と舞う。
母の言葉を反芻する。
『真名』を伝えることは、相手を強制的に自らの番にすること。
それは相手に自分しか見るなと言う、魔女による嫉妬深い呪いみたいなもの。
好きだからこそ、怖い。
渡した瞬間に、自分の人生だけじゃなく、相手の人生まで巻き込んでしまうから。
「殿下。あの時の言葉は、今も変わりありませんか?」
幾度となくレオンハルトに告げられた、好意の言葉。
けれど今は、その重みが前とは違って聞こえる。
「変わらない」
たった一言。
一言だからこそ、余計に彼の想いが変わらない証拠でもあった。
「ああ、強いて言うなら」
「強いて言うなら?」
聞き返すと、レオンハルトはベルの手を取った。
あの毒に侵され、震え、手袋で隠されていた手。
今では節の赤みも、発疹も、もうない。
長身の身体が、ベルの目の前に跪く。
二人の間をふわっと花の香りと風が通り抜け、髪が大きく揺れた。
「ベル。この先の人生を、俺にくれないだろうか」
その声は低く、けれど揺れなかった。
王としてではなく、一人の男として差し出された言葉だと、ベルにも分かった。
風が止み、庭園の音だけが二人のあいだに残る。
王と血の繋がらないはずのこの人が、王の娘に向かって、父と同じ言葉を口にする。
『偶然よ。いえ、必然だったのかも』
母の言葉が、頭の中で静かに繰り返される。
何度も。何度も。
花の香りの混じる風の中で、その一言だけが妙に鮮やかだった。
「殿下……私の『真名』は、あなたの人生を縛ります。それでも……」
「構わない。ベルのこの先の人生、ともに生きるんだ。何も変わらない」
レオンハルトは、少しもためらわずに言った。
迷いのない声。
だからこそ、ベルの胸は強く鳴る。
軽く口にした言葉ではないのだと、その一言だけで分かってしまう。
ベルは大きく息を吐き、ゆっくりとレオンハルトの右耳へ顔を寄せた。
近づくたび、もう後戻りできない気がして、指先がかすかに冷える。
「西の魔女の娘の『真名』、『ベルフレア』。——それを、あなたに」
ただ一人にだけ聞こえる、小さな声で伝える。
「ベルフレア」
その瞬間、レオンハルトの指先がぴくりと動いた。
握っていたベルの手が、ほんの少しだけ強く握り返される。
けれど力はすぐに緩んだ。
縛らないように、意識してほどいたのだと分かる。
その慎重さが、ベルにはたまらなく優しかった。
「……あなたしか知らないというのは、なんだか、照れます」
「よい名だ」
レオンハルトはそう言って、目を伏せた。
伏せたまま、しばらく言葉が出ない。
いつもなら一言で切る人が、黙る。
黙ったまま、呼吸を整えている。
ベルは小さく呼んだ。
「殿下?」
「……すまない」
レオンハルトが、まるで負けを認めるみたいに言った。
「今、言葉にすると……きっと強くなる」
「強く?」
「お前を縛る言葉になる」
ベルは胸の奥が熱くなるのを感じて、視線を逸らした。
嬉しいのに、怖い。
好きだと言われることより、好きだからこそ縛りたくないと分かってしまうことの方が、ずっと深く刺さる。
レオンハルトは顔を上げ、ベルの手の甲に唇を落とした。
触れるだけ。熱を残すだけ。それ以上はしない。
奪わないための口づけだと、ベルには分かった。
「返事は?」
聞きたいはずなのに、その声は強くない。
急かさない声。
待てる人の声だ。
ベルは小さく笑ってしまった。
「……ずるい」
「ずるくない」
「ずるいです。跪いて、そんな声で聞くのは」
「……では、聞かない」
レオンハルトはすぐに引いた。
その引き際が、妙に切ない。
本当に聞かないままでいそうで、ベルは慌てて言った。
「聞かないで、とは言ってないです」
「なら」
「……答えます」
ベルは、ゆっくり頷いた。
頷いた瞬間、自分の胸の奥の結び目が、ふっとほどけた気がした。
怖さが消えたわけじゃない。
それでも、もう言えると思った。
「レオンハルト殿下。いえ、レオ。——私は、あなたが好きです」
言い切ると、喉の奥が震えた。
王宮の静けさが、いっそう大きくなる。
風の音も、花びらの擦れる気配も、全部が遠のいたみたいだった。
レオンハルトは、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
それから、まっすぐベルを見る。
「……ありがとう」
ただそれだけ。
けれどその言葉は、感謝の形を借りて、ベルの選択を大切に抱きしめるみたいに。
そして、同じくらい静かに続ける。
「ベルフレア。俺はお前の自由を奪わない。お前が王でいる間も、森を恋しがる夜も、全部、お前のままでいていい」
ベルは言葉が出ず、ただ頷いた。
頷くだけで精一杯だった。
レオンハルトが立ち上がると、背の高い影がベルを包む。
でも抱きしめない。
抱きしめたら、ベルが『選ばれる側』になってしまう気がしたのだろう。
代わりに、レオンハルトはベルの額に、そっと自分の額を当てた。
近いのに、優しい距離。
触れているのに、奪われる感じが少しもしない。
「……今後は用がなくても堂々と訪ねられる」
「今それ言いますか?」
「用はある」
レオンハルトの声が、少しだけ笑っている。
「お前の隣にいる用だ。——今日から、正式にな」
ベルは目を閉じると、花の香りが風に混じる。
胸の奥で、さっきほどけた結び目が、今度はやわらかく結び直されていくような気がした。
一月前に父が死んだ。
母に父からの書簡を渡され、七人の王子と出会った。
偽りに揺らされ、火に脅され、言葉に傷ついた。
それでも最後に、自分で選ぶ余白だけは守り抜いた。
どこからが偶然だったのだろう。
それとも、母の言葉通り、すべてが必然だったのかもしれない。
けれど、これだけは確かだ。
——この先の未来は、誰にも決められない。
ベルフレアとレオンハルトだけが、選んで、紡いでいく。



