翌朝。
ベルは廊下を歩きながら、足音に敏感になっている自分に気づいた。
角の向こう。階段の下。扉の内側。誰かが近づくたび、無意識に肩が強張る。
カシミールの言葉が、まだ刺さったまま。
——君を『決める』やつが出てくる。
静かな王宮ほど、その言葉は嫌に響く。
誰もいない廊下でさえ、見えない手がどこかから伸びてきそうな気がした。
角を曲がった先で、レオンハルトと鉢合わせた。
布手袋。疲れの影。けれど目だけは鋭い。
昨夜も眠っていないのだろうと、見た瞬間に分かる顔。
「ベル」
「……殿下」
「顔色が悪い」
即断だった。
迷いも遠慮もない言い方に、ベルは一瞬だけ答えを失う。
「眠れなかっただけです」
「嘘だな。お前は嘘が下手だ」
レオンハルトが淡々と言う。
ベルは口を噤んだ。
『真名』のことは言えない。誰にも言わない。自分で決める。
そう決めたばかりなのに、この人の前に立つと、隠しているものが薄くなる気がした。
「何があった」
「……古い話を思い出しただけ」
「カシミールか」
「……」
ベルは驚きで目を見開いた。
レオンハルトは、その反応で確信したように、視線を逸らさず続ける。
「お前の視線が一度だけ、書庫の方へ行った。……嫌な癖だな、俺も」
「相変わらず、過保護ですね」
「弟たちには過保護かもしれない」
レオンハルトは淡々と返し、それから少しだけ声を落とす。
「ただ、お前に対しては説明できない」
ベルは胸の奥が騒ぐのを感じて、視線を逸らした。
言えない。決められない。まだ。
それでもレオンハルトは、いつもの一言で空気を変える。
「ベル。用がないと来てはダメなのか」
「……はぁ?」
「用はある。お前が無事か確認する用だ」
短いのに、妙にまっすぐな言葉。
ベルは返事を探し、結局、仕事に逃げた。
「……私は無事です。たぶん」
「たぶん、は要らない」
「殿下こそ、寝てください」
「寝る」
「嘘ですね」
「失礼だな」
「顔に書いてあります」
レオンハルトの口元が、ほんのわずかに動く。
笑いかけて、やめた顔。
嘘だ、とベルは思った。
でも、その嘘に乗ってやるのが、今はまだ一番安全だとも分かっている。
ベルは一礼して、その場を離れた。
背中に、レオンハルトの視線が残る。
『真名』は、まだ誰にも渡さない。
決めるのは自分。
——それなのに。
カシミールの言葉だけが、しつこく耳に残る。
『候補はもういるってことだよね』
ベルは月の葉の匂いが染みた指先を握りしめ、歩幅を少しだけ速めた。
秘喪の王宮は静かだ。
静かなほど、鍵の音がよく響く。
そして今、ベルの中では、誰にも聞かせていないその音だけが、いちばん大きかった。
喪布のかかった窓から差す光は、祈りの場の光に似ていた。
強くない。眩しくない。けれど、逃げ道を作らない明るさ。
東棟の回廊を歩いていたベルを、石壁の影から現れたヨアヒムが呼び止めた。
黒に近い濃紺の上着。首元まできちんと留められた襟。何より、目が真面目だった。
「ベル。少し時間をもらえるか」
「……何ですか」
案内されたのは、礼拝堂脇の小さな控え室。
椅子が二つと小卓だけの、香の匂いが薄い部屋。
扉が閉まると、ヨアヒムは小さな白い布袋を取り出す。
「君に渡したいものがある。贈り物ではない。護りだ」
「護り?」
「結び紐の護符だ。母が聖職者だった。よく言っていた。言葉が通じない相手には、結び目が必要だと」
ベルは布袋を見た。
細い紐で、きつく結ばれている。その結び方自体に意味がありそうに見える。
「これ、重い意味がありますよね」
「ある。だが、今の王宮には軽いものでは足りない」
「誰に渡すものなんですか」
「血縁か、守ると誓った者。母は『誓いは言葉ではなく、結び目に残る』と言っていた」
ヨアヒムの声が少しだけ低くなる。
ベルは小さく息を吐いた。
「私は、そんな誓いを受け取る立場じゃない」
「受け取ってほしい。縛るためじゃない。護るためだ」
「縛るつもりがない人ほど、結び目を渡します」
そう言うと、ヨアヒムはほんの少しだけ苦い顔をした。
でも否定はしない。
「……身に着けるかどうかは、君が決めていい」
「分かりました。受け取るだけなら」
控え室を出た瞬間から、空気が変わった。
廊下の端で侍女が二人、ベルとヨアヒムを見て、すぐに目を逸らす。
言葉にしないぶんだけ、噂は早い。
昼を過ぎた頃には、噂はもう形になっていた。
『第六王子がベルへ護りを渡した』
そんなふうに、事実と解釈が気持ちよく混ざった形で。
「ヨアヒム殿下が、ベル様に『結び紐』を……」
「それって、あの……」
「ええ、あの……」
『あの』で済ませるのが、王宮の噂の怖さだ。
言葉にしないぶん、都合のいい想像だけが勝手に膨らむ。
ベルはそういう視線を背中で感じながら、東棟の自室へ戻った。
部屋に入ると、レオンハルトが机の前にいた。
視線がすぐにベルが持つ布袋へ落ちる。
「……それは」
「ヨアヒム殿下からです。護衛の補助として」
「補助、か」
声が短い。
短いほど温度が下がる。
「過保護ですね」
「弟たちには理由がある」
「またそれですか」
「……お前に対しては説明できない」
ベルはため息をつき、布袋を机に置く。
「護符の確認、します?確認するなら、先に私が開けます」
「分かった」
結び目は固い。
丁寧すぎるくらい丁寧に結ばれていて、ほどくのに少し時間がかかる。
ようやく開いた袋の中から出てきたのは、木札ではなく薄い紙片。
紙片の端に、黄金色の欠片が貼りついている。
封蝋の欠片に見える。
その時点で、ベルの指先が冷えた。
「……嫌なやつ」
「偽封蝋か」
「匂いを嗅げば分かります」
紙片を鼻先に近づける。
甘い。だが蜂蜜の澄んだ甘さじゃない。香料の甘さ。
油の匂いも混じる。焦げの早い、あの煙臭さ。
「偽物です。コンスタンティンの偽蜜蝋と同じ系統」
「……」
紙片に書かれていたのは短い文。
『ベルを隔離せよ』
『『真名』を確認せよ』
『合議の妨げとなる』
レオンハルトの目が細くなる。
「……『真名』とはなんだ?」
ベルは即座に言った。
「罠です。ヨアヒム殿下を捏造犯にして、私を隔離して、合議を割るための」
「ヨアヒムを呼ぶ」
「ここで呼ぶと噂が確定します」
ベルは首を振った。
「礼拝堂で呼びましょう。渡した場所に近い方が、動線も追えます」
「……分かった」
ほどなくして礼拝堂の控え室に来たヨアヒムは、紙片を見た瞬間に顔色を変えた。
「……これは」
「殿下が入れたんじゃないんですか?」
「違う。誓って違う」
「誓いを軽く使わないでください」
ベルが言うと、ヨアヒムは躊躇いながら口を開く。
「僕の護符が、悪用された」
「渡す前に袋は開けましたか」
「開けていない。結び目は母の作法だ。ほどかない」
「なら、混入したのは保管中です」
ベルは紙片の端を指す。
「匂いが新しい。封蝋の切り口も新しい。今日か昨日です。この甘さ、香料庫の基材と同じです」
「……書記局の改竄と同じ棚か」
「はい。同じ棚です」
ヨアヒムはしばらく黙っていたが、やがてベルを見た。
「君を縛るつもりはなかった」
「分かってます」
「でも結果的に、君の自由を奪う形になった。……すまない」
「私は何も奪われてないです。決めるのは私なので」
ベルの淡々としたその言葉に、ヨアヒムの表情が少しだけほどけた。
横からレオンハルトが言う。
「二度と、こういうものをベルに渡すな」
「兄上」
「渡すなら、俺を通せ」
ヨアヒムが困ったように眉を寄せる。
ベルは呆れたように言った。
「過保護ですね」
「なんとでも言え」
「……兄上、分かりやすすぎる」
「黙れ」
そこでようやく、ヨアヒムが小さく笑った。
ベルはその響きを聞いて、言葉を失う。
過保護、という言葉で片づけるには、少し温度が違う。
もっと近くて、もっと説明しにくいものの匂いがした。
「護符はいいとして、噂は——」
「俺が切る」
レオンハルトが即答すると、ベルは眉を上げた。
「どうやって」
「噂は『怖い方』に流れる。『偽封蝋が混入した』という事実だけを、必要な者にだけ落とす。そうすれば噂は『陰謀』へ流れる」
「……雑すぎません?」
「雑でいい。相手は雑に刺してきている」
レオンハルトの冷たい声に、ベルは少しだけ唇を尖らせた。
正しい。たぶん正しい。
正しいのに、納得してしまうのが悔しい。
「殿下、たまに荒っぽい」
「お前がいると荒っぽくなる」
レオンハルトがぽつりと言った。
言ってから、自分でも余計だったと思ったのか、ほんのわずかに視線を逸らした。
ベルは廊下を歩きながら、足音に敏感になっている自分に気づいた。
角の向こう。階段の下。扉の内側。誰かが近づくたび、無意識に肩が強張る。
カシミールの言葉が、まだ刺さったまま。
——君を『決める』やつが出てくる。
静かな王宮ほど、その言葉は嫌に響く。
誰もいない廊下でさえ、見えない手がどこかから伸びてきそうな気がした。
角を曲がった先で、レオンハルトと鉢合わせた。
布手袋。疲れの影。けれど目だけは鋭い。
昨夜も眠っていないのだろうと、見た瞬間に分かる顔。
「ベル」
「……殿下」
「顔色が悪い」
即断だった。
迷いも遠慮もない言い方に、ベルは一瞬だけ答えを失う。
「眠れなかっただけです」
「嘘だな。お前は嘘が下手だ」
レオンハルトが淡々と言う。
ベルは口を噤んだ。
『真名』のことは言えない。誰にも言わない。自分で決める。
そう決めたばかりなのに、この人の前に立つと、隠しているものが薄くなる気がした。
「何があった」
「……古い話を思い出しただけ」
「カシミールか」
「……」
ベルは驚きで目を見開いた。
レオンハルトは、その反応で確信したように、視線を逸らさず続ける。
「お前の視線が一度だけ、書庫の方へ行った。……嫌な癖だな、俺も」
「相変わらず、過保護ですね」
「弟たちには過保護かもしれない」
レオンハルトは淡々と返し、それから少しだけ声を落とす。
「ただ、お前に対しては説明できない」
ベルは胸の奥が騒ぐのを感じて、視線を逸らした。
言えない。決められない。まだ。
それでもレオンハルトは、いつもの一言で空気を変える。
「ベル。用がないと来てはダメなのか」
「……はぁ?」
「用はある。お前が無事か確認する用だ」
短いのに、妙にまっすぐな言葉。
ベルは返事を探し、結局、仕事に逃げた。
「……私は無事です。たぶん」
「たぶん、は要らない」
「殿下こそ、寝てください」
「寝る」
「嘘ですね」
「失礼だな」
「顔に書いてあります」
レオンハルトの口元が、ほんのわずかに動く。
笑いかけて、やめた顔。
嘘だ、とベルは思った。
でも、その嘘に乗ってやるのが、今はまだ一番安全だとも分かっている。
ベルは一礼して、その場を離れた。
背中に、レオンハルトの視線が残る。
『真名』は、まだ誰にも渡さない。
決めるのは自分。
——それなのに。
カシミールの言葉だけが、しつこく耳に残る。
『候補はもういるってことだよね』
ベルは月の葉の匂いが染みた指先を握りしめ、歩幅を少しだけ速めた。
秘喪の王宮は静かだ。
静かなほど、鍵の音がよく響く。
そして今、ベルの中では、誰にも聞かせていないその音だけが、いちばん大きかった。
喪布のかかった窓から差す光は、祈りの場の光に似ていた。
強くない。眩しくない。けれど、逃げ道を作らない明るさ。
東棟の回廊を歩いていたベルを、石壁の影から現れたヨアヒムが呼び止めた。
黒に近い濃紺の上着。首元まできちんと留められた襟。何より、目が真面目だった。
「ベル。少し時間をもらえるか」
「……何ですか」
案内されたのは、礼拝堂脇の小さな控え室。
椅子が二つと小卓だけの、香の匂いが薄い部屋。
扉が閉まると、ヨアヒムは小さな白い布袋を取り出す。
「君に渡したいものがある。贈り物ではない。護りだ」
「護り?」
「結び紐の護符だ。母が聖職者だった。よく言っていた。言葉が通じない相手には、結び目が必要だと」
ベルは布袋を見た。
細い紐で、きつく結ばれている。その結び方自体に意味がありそうに見える。
「これ、重い意味がありますよね」
「ある。だが、今の王宮には軽いものでは足りない」
「誰に渡すものなんですか」
「血縁か、守ると誓った者。母は『誓いは言葉ではなく、結び目に残る』と言っていた」
ヨアヒムの声が少しだけ低くなる。
ベルは小さく息を吐いた。
「私は、そんな誓いを受け取る立場じゃない」
「受け取ってほしい。縛るためじゃない。護るためだ」
「縛るつもりがない人ほど、結び目を渡します」
そう言うと、ヨアヒムはほんの少しだけ苦い顔をした。
でも否定はしない。
「……身に着けるかどうかは、君が決めていい」
「分かりました。受け取るだけなら」
控え室を出た瞬間から、空気が変わった。
廊下の端で侍女が二人、ベルとヨアヒムを見て、すぐに目を逸らす。
言葉にしないぶんだけ、噂は早い。
昼を過ぎた頃には、噂はもう形になっていた。
『第六王子がベルへ護りを渡した』
そんなふうに、事実と解釈が気持ちよく混ざった形で。
「ヨアヒム殿下が、ベル様に『結び紐』を……」
「それって、あの……」
「ええ、あの……」
『あの』で済ませるのが、王宮の噂の怖さだ。
言葉にしないぶん、都合のいい想像だけが勝手に膨らむ。
ベルはそういう視線を背中で感じながら、東棟の自室へ戻った。
部屋に入ると、レオンハルトが机の前にいた。
視線がすぐにベルが持つ布袋へ落ちる。
「……それは」
「ヨアヒム殿下からです。護衛の補助として」
「補助、か」
声が短い。
短いほど温度が下がる。
「過保護ですね」
「弟たちには理由がある」
「またそれですか」
「……お前に対しては説明できない」
ベルはため息をつき、布袋を机に置く。
「護符の確認、します?確認するなら、先に私が開けます」
「分かった」
結び目は固い。
丁寧すぎるくらい丁寧に結ばれていて、ほどくのに少し時間がかかる。
ようやく開いた袋の中から出てきたのは、木札ではなく薄い紙片。
紙片の端に、黄金色の欠片が貼りついている。
封蝋の欠片に見える。
その時点で、ベルの指先が冷えた。
「……嫌なやつ」
「偽封蝋か」
「匂いを嗅げば分かります」
紙片を鼻先に近づける。
甘い。だが蜂蜜の澄んだ甘さじゃない。香料の甘さ。
油の匂いも混じる。焦げの早い、あの煙臭さ。
「偽物です。コンスタンティンの偽蜜蝋と同じ系統」
「……」
紙片に書かれていたのは短い文。
『ベルを隔離せよ』
『『真名』を確認せよ』
『合議の妨げとなる』
レオンハルトの目が細くなる。
「……『真名』とはなんだ?」
ベルは即座に言った。
「罠です。ヨアヒム殿下を捏造犯にして、私を隔離して、合議を割るための」
「ヨアヒムを呼ぶ」
「ここで呼ぶと噂が確定します」
ベルは首を振った。
「礼拝堂で呼びましょう。渡した場所に近い方が、動線も追えます」
「……分かった」
ほどなくして礼拝堂の控え室に来たヨアヒムは、紙片を見た瞬間に顔色を変えた。
「……これは」
「殿下が入れたんじゃないんですか?」
「違う。誓って違う」
「誓いを軽く使わないでください」
ベルが言うと、ヨアヒムは躊躇いながら口を開く。
「僕の護符が、悪用された」
「渡す前に袋は開けましたか」
「開けていない。結び目は母の作法だ。ほどかない」
「なら、混入したのは保管中です」
ベルは紙片の端を指す。
「匂いが新しい。封蝋の切り口も新しい。今日か昨日です。この甘さ、香料庫の基材と同じです」
「……書記局の改竄と同じ棚か」
「はい。同じ棚です」
ヨアヒムはしばらく黙っていたが、やがてベルを見た。
「君を縛るつもりはなかった」
「分かってます」
「でも結果的に、君の自由を奪う形になった。……すまない」
「私は何も奪われてないです。決めるのは私なので」
ベルの淡々としたその言葉に、ヨアヒムの表情が少しだけほどけた。
横からレオンハルトが言う。
「二度と、こういうものをベルに渡すな」
「兄上」
「渡すなら、俺を通せ」
ヨアヒムが困ったように眉を寄せる。
ベルは呆れたように言った。
「過保護ですね」
「なんとでも言え」
「……兄上、分かりやすすぎる」
「黙れ」
そこでようやく、ヨアヒムが小さく笑った。
ベルはその響きを聞いて、言葉を失う。
過保護、という言葉で片づけるには、少し温度が違う。
もっと近くて、もっと説明しにくいものの匂いがした。
「護符はいいとして、噂は——」
「俺が切る」
レオンハルトが即答すると、ベルは眉を上げた。
「どうやって」
「噂は『怖い方』に流れる。『偽封蝋が混入した』という事実だけを、必要な者にだけ落とす。そうすれば噂は『陰謀』へ流れる」
「……雑すぎません?」
「雑でいい。相手は雑に刺してきている」
レオンハルトの冷たい声に、ベルは少しだけ唇を尖らせた。
正しい。たぶん正しい。
正しいのに、納得してしまうのが悔しい。
「殿下、たまに荒っぽい」
「お前がいると荒っぽくなる」
レオンハルトがぽつりと言った。
言ってから、自分でも余計だったと思ったのか、ほんのわずかに視線を逸らした。



