その夜。
ベルはわざと、草案の束をルーペルトの机の上へ戻した。
書き換えられた文言も、そのまま残す。
見つけた側が腹を立てるくらい露骨な文だったが、だからこそいい。
犯人は『まだバレていない』と思いたいはずだ。
そして、レオンハルトの命令で配置された衛兵が、書記局の廊下の影に立つ。
ベルはその影の向こう側——外からは見えない位置に身を置く。
灯りは絞られている。喪布越しの夜は暗く、廊下の石床は冷たかった。
呼吸の音一つが浮きそうで、ベルは喉の奥まで静かにした。
少し時間が経って、足音がした。
忍び足。慣れている足音。書記局に慣れた人間の足音だ。
物を盗みに来る足ではない。何かを『戻しに来る』つもりの足音。
扉が開き、誰かが入る。
ランプの火が揺れ、紙が擦れる音がした。
机の上の束を確かめるように、指先で紙をめくる音。
一枚ではない。二枚、三枚。探っている。
ベルは息を止めた次の瞬間、紙の束をめくる音が止まった。
代わりに、誰かが小さく舌打ちしたのが聞こえた。
(……バレてないと思ってたのに、思ったより見られてる)
その苛立ちが、音になる。
人は焦ると、静かにしているつもりでも雑になる。
ベルは影の中で、レオンハルトの方を見る。
彼は無言で頷いた。
今、動く。
「そこまでだ」
レオンハルトの声が落ちる。
低いのに、夜気を裂くみたいによく通った。
衛兵が扉を塞ぐと、部屋の中の人物が振り向く。
——執事長補佐。
ベルが見たことのある男。
年齢は四十前後。身なりは整っている。普段は目立たない顔。
目立たないまま、誰かの横で帳面を抱え、鍵や紙を受け渡すような人間。
こういう人が、いちばん長く影にいられる。
男の顔色が変わる。
だが怯えではない。計算が外れた顔。
逃げ道を探そうとして、まだ探しきれずにいる顔だ。
「殿下、これは——」
「言い訳は後だ」
レオンハルトが冷たく言う。
「今夜、なぜここにいる。なぜ草案に触れた」
「私はただ、ルーペルト殿下の指示で——」
「ルーペルトは指示していない」
ベルが静かに言うと、男の視線がベルへ刺さる。
その一瞬で分かった。
この人は、私を外したい。
書類を直したいんじゃない。
ベルを『合議の外』へ置きたい。その意図が先にある。
補佐が口元を歪めた。
「……ベル様は、お優しい。だから余計なことをなさる」
「優しいんじゃない。しつこいだけです」
「しつこい方は厄介です」
「そうでしょうね」
ベルが言い返すと、レオンハルトの目が一瞬だけ細くなる。
笑いを堪えた目。
補佐はそれを見て、わずかに表情を変えた。
ベル個人を揺らすつもりが、逆にこの場の距離を見せつけられたのだろう。
補佐は視線を逸らし、急に態度を変えた。
「殿下。私は命令に従っただけです。上からの——」
「上は誰だ」
レオンハルトが問う。
補佐は、口を開きかけて閉じた。
沈黙。
その沈黙が答え。
『影』はまだ名を出さない。
出さないからこそ、怖い。
名が出ない限り、疑いはいつでも別の形へ流せる。
レオンハルトが低く命じた。
「拘束はしない。ただし監視を付ける。書記局への出入りは禁止。今夜の行動は記録しろ」
「かしこまりました」
衛兵が補佐を連れていく。
最後まで男は取り乱さなかった。だが、去り際に一度だけベルを見た。
恨みとも軽蔑とも取れる目。
あの目は、まだ終わっていない目だとベルは思う。
扉が閉まり、書記局に静けさが戻る。
戻ったはずなのに、さっきより静けさが重い。
ベルはようやく息を吐いた。
でも、胸の奥は軽くならない。
「殿下」
ベルが言うと、レオンハルトがこちらを見た。
「まだ終わってないですね」
「終わらない。だが、線は見えた」
「補佐の上に、まだいる」
「ああ」
レオンハルトは一歩だけ近づき、声を落とした。
「ベル。囮にしたくはない」
「さっき囮にするって言いましたよ」
「……言った」
レオンハルトは短く認めた。
認め方が妙に素直で、ベルは少しだけ返事に困る。
「弟たちなら理由がある。だが、お前に対しては——」
「説明できない、ですよね」
「そうだ。だから、余計に苛立つ」
「殿下が?」
「俺が」
レオンハルトは視線を逸らし、すぐ戻しながら淡々と言った。
「お前を守る理由が、責任では片付かない。……それが分かっているのに、まだ名前が付いてない」
「名前が付いたら困るんですか」
「困る」
「そうですか」
「そうだ」
ベルは返せなかった。
返したら、場が壊れる。
今は壊していい場面じゃない。だから、仕事へ逃げる。
「殿下。次は、封蝋です。偽蜜蝋と、同じ棚に手が伸びている」
「……ああ」
「補佐が口を割らないなら、物の方を追った方が早い」
「香料庫と封蝋庫、両方だな」
「はい」
ベルは胸の奥が騒がしくなるのを感じて、咄嗟にさらに仕事へ逃げた。
レオンハルトは頷きながら、ベルを見た。
「ベル。用がないと来てはダメなのか」
「今それ言うんですか」
「用はある」
レオンハルトは短く言い、そして付け足した。
「お前が無事か確認する用だ」
ベルは一瞬、言葉を失った。
王子の言葉としてはあまりに素直で、だからこそ怖い。
こういう言葉は、受け取った瞬間に形を持つ。
形を持ったものは、あとで無かったことにできない。
ベルは結局、いつもの結論に逃げるしかない。
「……過保護ですね」
「弟たちには過保護かもしれない。ただ、お前に対しては、やはり説明できない」
「便利ですね、その言い方」
「便利だ。今はそれでいい」
「よくないです」
「知っている」
レオンハルトは言い切り、先に歩き出した。
その背中は迷いがないのに、歩幅だけが少し速い。
ベルはその背中を追いながら思う。
書類の改竄は止めた。
けれど『影』は残った。
残ったまま、たぶん次の手を考えている。
そして、その影はきっと——封蝋のところで笑う。
コンスタンティンの偽蜜蝋は、まだ解決していない。
あれを作れた手が、まだ王宮のどこかで動いている。
ベルはわざと、草案の束をルーペルトの机の上へ戻した。
書き換えられた文言も、そのまま残す。
見つけた側が腹を立てるくらい露骨な文だったが、だからこそいい。
犯人は『まだバレていない』と思いたいはずだ。
そして、レオンハルトの命令で配置された衛兵が、書記局の廊下の影に立つ。
ベルはその影の向こう側——外からは見えない位置に身を置く。
灯りは絞られている。喪布越しの夜は暗く、廊下の石床は冷たかった。
呼吸の音一つが浮きそうで、ベルは喉の奥まで静かにした。
少し時間が経って、足音がした。
忍び足。慣れている足音。書記局に慣れた人間の足音だ。
物を盗みに来る足ではない。何かを『戻しに来る』つもりの足音。
扉が開き、誰かが入る。
ランプの火が揺れ、紙が擦れる音がした。
机の上の束を確かめるように、指先で紙をめくる音。
一枚ではない。二枚、三枚。探っている。
ベルは息を止めた次の瞬間、紙の束をめくる音が止まった。
代わりに、誰かが小さく舌打ちしたのが聞こえた。
(……バレてないと思ってたのに、思ったより見られてる)
その苛立ちが、音になる。
人は焦ると、静かにしているつもりでも雑になる。
ベルは影の中で、レオンハルトの方を見る。
彼は無言で頷いた。
今、動く。
「そこまでだ」
レオンハルトの声が落ちる。
低いのに、夜気を裂くみたいによく通った。
衛兵が扉を塞ぐと、部屋の中の人物が振り向く。
——執事長補佐。
ベルが見たことのある男。
年齢は四十前後。身なりは整っている。普段は目立たない顔。
目立たないまま、誰かの横で帳面を抱え、鍵や紙を受け渡すような人間。
こういう人が、いちばん長く影にいられる。
男の顔色が変わる。
だが怯えではない。計算が外れた顔。
逃げ道を探そうとして、まだ探しきれずにいる顔だ。
「殿下、これは——」
「言い訳は後だ」
レオンハルトが冷たく言う。
「今夜、なぜここにいる。なぜ草案に触れた」
「私はただ、ルーペルト殿下の指示で——」
「ルーペルトは指示していない」
ベルが静かに言うと、男の視線がベルへ刺さる。
その一瞬で分かった。
この人は、私を外したい。
書類を直したいんじゃない。
ベルを『合議の外』へ置きたい。その意図が先にある。
補佐が口元を歪めた。
「……ベル様は、お優しい。だから余計なことをなさる」
「優しいんじゃない。しつこいだけです」
「しつこい方は厄介です」
「そうでしょうね」
ベルが言い返すと、レオンハルトの目が一瞬だけ細くなる。
笑いを堪えた目。
補佐はそれを見て、わずかに表情を変えた。
ベル個人を揺らすつもりが、逆にこの場の距離を見せつけられたのだろう。
補佐は視線を逸らし、急に態度を変えた。
「殿下。私は命令に従っただけです。上からの——」
「上は誰だ」
レオンハルトが問う。
補佐は、口を開きかけて閉じた。
沈黙。
その沈黙が答え。
『影』はまだ名を出さない。
出さないからこそ、怖い。
名が出ない限り、疑いはいつでも別の形へ流せる。
レオンハルトが低く命じた。
「拘束はしない。ただし監視を付ける。書記局への出入りは禁止。今夜の行動は記録しろ」
「かしこまりました」
衛兵が補佐を連れていく。
最後まで男は取り乱さなかった。だが、去り際に一度だけベルを見た。
恨みとも軽蔑とも取れる目。
あの目は、まだ終わっていない目だとベルは思う。
扉が閉まり、書記局に静けさが戻る。
戻ったはずなのに、さっきより静けさが重い。
ベルはようやく息を吐いた。
でも、胸の奥は軽くならない。
「殿下」
ベルが言うと、レオンハルトがこちらを見た。
「まだ終わってないですね」
「終わらない。だが、線は見えた」
「補佐の上に、まだいる」
「ああ」
レオンハルトは一歩だけ近づき、声を落とした。
「ベル。囮にしたくはない」
「さっき囮にするって言いましたよ」
「……言った」
レオンハルトは短く認めた。
認め方が妙に素直で、ベルは少しだけ返事に困る。
「弟たちなら理由がある。だが、お前に対しては——」
「説明できない、ですよね」
「そうだ。だから、余計に苛立つ」
「殿下が?」
「俺が」
レオンハルトは視線を逸らし、すぐ戻しながら淡々と言った。
「お前を守る理由が、責任では片付かない。……それが分かっているのに、まだ名前が付いてない」
「名前が付いたら困るんですか」
「困る」
「そうですか」
「そうだ」
ベルは返せなかった。
返したら、場が壊れる。
今は壊していい場面じゃない。だから、仕事へ逃げる。
「殿下。次は、封蝋です。偽蜜蝋と、同じ棚に手が伸びている」
「……ああ」
「補佐が口を割らないなら、物の方を追った方が早い」
「香料庫と封蝋庫、両方だな」
「はい」
ベルは胸の奥が騒がしくなるのを感じて、咄嗟にさらに仕事へ逃げた。
レオンハルトは頷きながら、ベルを見た。
「ベル。用がないと来てはダメなのか」
「今それ言うんですか」
「用はある」
レオンハルトは短く言い、そして付け足した。
「お前が無事か確認する用だ」
ベルは一瞬、言葉を失った。
王子の言葉としてはあまりに素直で、だからこそ怖い。
こういう言葉は、受け取った瞬間に形を持つ。
形を持ったものは、あとで無かったことにできない。
ベルは結局、いつもの結論に逃げるしかない。
「……過保護ですね」
「弟たちには過保護かもしれない。ただ、お前に対しては、やはり説明できない」
「便利ですね、その言い方」
「便利だ。今はそれでいい」
「よくないです」
「知っている」
レオンハルトは言い切り、先に歩き出した。
その背中は迷いがないのに、歩幅だけが少し速い。
ベルはその背中を追いながら思う。
書類の改竄は止めた。
けれど『影』は残った。
残ったまま、たぶん次の手を考えている。
そして、その影はきっと——封蝋のところで笑う。
コンスタンティンの偽蜜蝋は、まだ解決していない。
あれを作れた手が、まだ王宮のどこかで動いている。



