七人の訳あり王子と、八番目の薬草姫

ベルは続ける。

「殿下。今すぐ治療を始めないと、戻りにくくなります」
「脅しか」
「事実です」
「どれくらい急ぐ」
「今です。今夜のうちに」
「……」

ジークムントの顎がわずかに固くなる。
認めたくない。でも、無視もできない。そういう沈黙。
ベルは声を落とした。

「聞こえにくいだけで済むとは限りません。早く手を打つ方がいいです。今なら、まだ戻せる可能性がある」
「可能性、か」
「はい。だから急ぎます」

ベルは淡々と言った。
淡々と言うしかない。感情で説得する相手ではないからだ。
相手が冷たくなるほど、こちらは熱を引かせなければならない。そうしないと、この場では言葉が負ける。
レオンハルトはそのやり取りを黙って聞いていたが、ここで短く命じる。

「医師、必要な処置をすぐ始めろ。記録も残せ。ベル、お前も残れ」
「はい」
「医師は何と言っている」
「耳の炎症か、疲労かと」

宮廷医師が答えた。
言い方が曖昧だ。
断定を避け、責任も避ける言い方。
いちばん危ない時に、いちばん役に立たない種類の慎重さ。

ベルは医師を見る。

「『突発性難聴』の可能性は?」
「それは……」

医師が言い淀む。
その瞬間、ジークムントが冷たく言った。

「ベル。お前の『薬草師の勘』で騒ぎを大きくするな」
「勘じゃない。症状です」
「症状で政治は止まらない」
「止めるのは政治じゃなくて、悪化です」

ベルは息を吸った。
ここで引いたら、彼はこのまま悪化する。
悪化すれば、彼はそれすら武器にするかもしれない。
聞こえないままでも平然と座り、合議の場で自分を削る。そういう人に見えた。
それが最悪だ。

ベルは一歩だけ近づく。
詰め寄るのではなく、逃がさない距離まで。

「政治が止まらなくても、殿下の耳は止まります」
「……」

ジークムントの目が細くなる。
怒りではない。刺された目。
一番触れられたくない場所を、正確に突かれた人の目だ。

ベルは続けた。

「殿下が今、聞こえない側の席に誰かが座ったら——あなたは会話の半分を落とします。聞き返すか、聞こえたふりをするか、その二つしかなくなる」
「……」
「どちらを選んでも、合議では不利です。判断が遅れる。反応がずれる。合議をする資格が削れます。だからこそ、今治療です」

ジークムントの喉が動いた。
言い返したいのに、言い返せない。事実だからだ。
そして、彼自身ももう気づいているのだろう。
左から入る音が薄く、世界の片側がぼやけていることに。

レオンハルトが低く命じた。

「ジークムント。治療を受けろ。これは命令だ」
「兄上」
「命令だ」

短い。第一王子の命令。
逃げ道を塞ぐための、最短の言葉。

ジークムントは少しだけ固まり、次に薄く笑った。

「……命令で治るなら苦労はない」
「命令で『治療を開始させる』」

レオンハルトは淡々と言い返す。
その淡々が、強い。
感情で押していないから、押し返せない強さだ。

ベルは医師へ向き直す。

「今すぐできることを。まず安静。音を遮断。次に、急性期の治療を開始してください。できないなら、できる者を呼んで」
「……承知しました」

医師が頭を下げる。
ベルはさらに付け足した。

「耳の血流を落とさない。冷やしすぎない。余計な刺激は避ける。薬はすぐ。できれば今夜のうちに投与を始めて」
「分かっております」

医師は言ったが、目が泳ぐ。
ベルは内心で舌打ちした。
王宮の医師は『責任』を避ける。失敗した時に首が飛ぶ。
だから判断が遅れる。遅れてから、誰にも責任がない顔をする。
ジークムントが低い声で言う。

「ベル。お前は、そんなふうに命令する立場じゃない」
「命令してません。治療の手順を言ってるだけです」
「同じだ」
「違います。命令は責任を伴う。私は責任を取ります。耳が戻らなければ、私は恨まれていい」

ベルは言い切った。
言い切った瞬間、自分の声が少し震えたことに気づく。
怖いのは、ジークムントではない。『間に合わない』こと。
ここで見誤って、あとから『あの時すぐ動けば』になることの方が、ずっと怖い。

ジークムントは一瞬だけ、言葉を失った。
そして、冷たく視線を逸らす。

「……好きにしろ」

負けた時の言い方。
負けを認めない負け方。
だが、拒み続けるほどの余力はもうない。そういう響きでもあった。

レオンハルトが医師に命じる。

「必要な薬と処置を。今日の会合は延期。ジークムントは安静。異論は認めない」
「兄上」

ジークムントが言いかけると、レオンハルトは遮った。

「耳を失うな。失ったら、取り返しがつかない。政治は取り返せる」
「……」

ジークムントの顎が固くなる。
屈辱だ。彼にとっては。
優先順位を他人に決められること自体が、もう屈辱なのだとベルにも分かった。

ベルはソファの横の小机に湯を用意させ、月の葉ではなく、刺激の少ない鎮静の茶葉を取り出す。
匂いを確かめる。香りは柔らかい。眠りを助けるが、頭は鈍らせない。
今のジークムントに必要なのは、意識を落とすことではなく、神経の張りを少しだけ緩めること。

「殿下。飲めますか」
「……要らない」

ジークムントが拒む。
ベルは頷いた。

「要る要らないじゃなくて、飲め」
「言い方が変わったな」
「早く効かせたいので」
「随分と強気だ」
「間に合わないよりいいです」

ベルが水差しを差し出すと、ジークムントは渋々受け取った。
指先が少しだけ震えている。
怒りか、耳鳴りの不快か、どちらもだろう。

それでも受け取った。
その事実だけで、今夜はまだ間に合うかもしれないと、ベルは思った。

医師が薬を用意し始める。
瓶の蓋が開く音。紙が擦れる音。水差しが小机の上でかすかに鳴る音。
その一つ一つの小さな音すら、今のジークムントには刺さっているかもしれない。
ベルはそっと言った。

「音、辛いなら布を」
「……黙れ」

ジークムントの声は鋭い。
でも、怒りの鋭さではなく、弱みを見せたくない鋭さ。
聞こえないことも、辛いことも、全部『少し』で済ませたい人の声。

ベルは黙って、カーテンを少しだけ閉め、部屋の音を減らした。
人の声は低く。足音は消す。水の音も控える。
椅子を引く音さえ立てないよう、侍従へ手で合図する。
薬草師ができる最初の治療は、環境だ。
薬の前に、神経をこれ以上逆撫でしない空間を作ること。それだけで救われる身体もある。

レオンハルトがベルの横へ来た。
二人きりの声で言う。

「……間に合うか」
「間に合わせます」

ベルは即答したけれど、胸の奥は冷たい。
突発は、間に合っても残ることがある、戻る人もいる、戻りきらない人もいる。
それを口にするのは、まだ早い。
今ここで必要なのは可能性の話ではなく、手を止めないことだ。

レオンハルトの目がわずかに細くなる。

「残る可能性は」
「……あります」

ベルは正直に言った。
誤魔化しても、この人には意味がない。
レオンハルトが一瞬だけ目を閉じ、すぐに開く。
その一瞬に、兄としての感情を押し込めたのだとベルにも分かった。

「ジークムントに言うな」
「言いません。今は治療の邪魔になる」
「そうだ」

レオンハルトが頷いた。
そして、ジークムントへ向き直る。

「ジークムント。今日は終わりだ。眠れ」
「眠れるか」
「眠れ」

命令の形。
でもそれは、兄の祈りに近かった。
眠ってしまえば少しは楽になるかもしれないと、言葉にできないまま押しつける声。

ジークムントは返事をしなかった。
ただ、聞こえる側の耳をレオンハルトへ向けるように、顔をわずかに傾けた。
それが屈辱であり、現実の証拠でもある。
片側へ世界を寄せないと、人の声が届かない。その事実だけで、この人には十分屈辱なのだろう。

ベルはその仕草を見て、胸の奥が痛んだ。
ジークムントは、この屈辱を忘れない。
忘れないから、強くなる。
強くなる方向が、よいとは限らない。
今日の痛みを、いつか冷たい刃に変える人かもしれない。

処置が始まり、時間が流れる。
ベルは医師の手元を見ながら、必要な指示だけを短く挟む。
過剰に口を出さない。
薬の量。水の温度。灯りの位置。横にならせる角度。
小さなことばかりなのに、小さなことほど今は外せなかった。

夜が更け、ジークムントの顔色が少し落ち着いた頃、レオンハルトがベルへ目配せした。
部屋を出る合図。

廊下へ出た瞬間、ベルはようやく息を吐いた。
石壁の冷たさが、背中へ貼りつく。
部屋の中で張りつめていたものが、外へ出た途端にどっと重くなる。

レオンハルトが低い声で言う。

「……よくやった」
「仕事です」
「仕事でも、助かった」

ベルは返事をしなかった。
返事をすると、心が揺れる。
助かった、と言われると、少しだけ救われた気になるから危ない。

レオンハルトは続ける。

「ジークムントは、これを武器にする」
「ええ」
「弱みとして隠すだけじゃない。使える形に変える」
「そう思います」
「だから、お前は狙われる」
「分かってます」

ベルは頷いた。
分かっている。
分かっていても、止められない。
見た以上、嗅いだ以上、分かったことを言わずにはいられない。
それが面倒の種だとしても、今さら変えられなかった。

ベルが廊下の角を曲がろうとした時、背後からジークムントの声が聞こえた気がした。
幻聴ではない。
彼の声は、まだ耳の奥に残っている。

——好きにしろ。

好きにする。
あの言い方は、引いたようでいて引いていない。
受け入れたようでいて、受け入れた借りを忘れない声。

その言葉を、ジークムントはいつか別の形で返してくる。
恩か、刃か、それはまだ分からない。
分からないまま、ベルは冷えた廊下を歩き出した。