週明けの朝。教室に入ってきた早見琉生を見て、鴎は思わず目を止めた。
土曜日に一緒に選んだ服だ。
余計な飾りはないのに、不思議と目を引く。肩の力が抜けているのに、だらしなくはない。
茶髪やピアスともしっくり馴染んでいて、彼の持つ軽やかさとスタイルの良さが、これ以上ないほど綺麗に引き出されていた。
(……やっぱり、似合ってる)
自分で選んだのだから当然なのに、いざ教室という日常の中で見ると、妙に落ち着かない。
「早見、今日やばくない?」
「え、待って、めっちゃいいじゃん。その服どこの?」
「似合ってるね、いつもより大人っぽい」
案の定、朝から絶賛の声が飛ぶ。
琉生はいつも通り、気負わない顔で笑っていた。けれど鴎には分かった。あいつ、今はかなり機嫌がいい。
派手にはしゃいではいないが、口角の上がり方が少しだけ甘いのだ。
そのまま、緩やかに一日が過ぎていく。
授業を受け、板書を写す。視界の端で琉生を見つけるたび、どうしても服のバランスを確認してしまう自分がいた。
***
昼休み。購買でパンを買い、教室へ戻る途中だった。
廊下の角を曲がった瞬間、向こうから勢いよく現れた影とぶつかる。
「うわ、ごめん!」
反射的に一歩よろけた。パンは死守したが、ポケットに入れていた小さな「手鏡」が床に滑り落ちた。
からん、と軽い音が響く。
しまった、と思った時にはもう遅かった。
ぶつかった相手――今村彰人が、先にそれを拾い上げる。
「え、なにこれ」
彰人の明るい声に、嫌な予感が背筋を走る。
彼の手のひらには、淡い色味に小さな花模様があしらわれた、可愛いデザインの手鏡。鴎が密かに気に入って使っているものだ。
「かわいすぎだろ、これ」
やっぱり、そう言われた。
鴎の心臓が冷たく跳ねる。
「……返して」
「時任、こういうの使うんだ。意外だなあ」
彰人に悪気がないのは分かっている。からかうつもりなどなく、ただ珍しいものを見つけて面白がっているだけ。
けれど、その「軽いノリ」こそが一番厄介で、広まりやすい。
鴎が手を伸ばしかけた、その時。
「あ、それ。俺が貸してたやつ」
横から、聞き慣れた声が割って入った。
振り向くと、琉生が何でもない顔でこちらへ歩いてくるところだった。
「妹からもらったやつなんだけどさ。時任が鏡忘れたって言うから」
さらっと嘘を吐き、彰人の手から鏡を回収する。
「へえ、早見の私物かよ」
「そう。妹がこういうの好きなんだよね」
「なんだ、びっくりした。じゃ、悪かったな」
彰人は深く追及することもなく、軽く手を振って去っていった。
その背中を見送ってから、鴎はようやく止めていた息を吐き出す。
琉生が手鏡を差し出してきた。「はい」
「……ありがと」
小さく受け取ると、琉生は少しだけ肩をすくめた。
「焦りすぎ。……まあ、あれはちょっとな」
「……」
「可愛かったし」
最後の一言に、鴎はじろりと睨みを利かせる。
琉生はそれを軽くいなすように、いたずらっぽく笑った。
「冗談。でも、助かっただろ?」
「……それは、まあ」
認めるしかない。もし彼がいなかったら、今ごろ変な噂が広まっていたかもしれないのだ。
鴎は鏡をポケットの奥にしまい、視線を逸らしたまま言った。
「本当に……ありがと」
今度は、ちゃんと聞こえる声で。
すると琉生は一瞬だけ目を丸くして、それからごく自然に微笑んだ。
「どういたしまして」
それだけなのに、胸のあたりが妙にざわついて仕方がなかった。
***
放課後。
窓の外には、いつの間にか重たい雨雲が広がっていた。予報に反して、下校時間にはしとしとと雨が落ち始める。
昇降口には、足を止めて空を見上げる生徒が何人もいた。
鴎は念のために持ってきていた傘を広げる。ふと見ると、少し離れた場所に琉生が立っていた。
土曜日に買ったばかりの服。その上に薄手の羽織りを着ているが、傘は持っていないらしい。
「うわ……最悪」
困ったように眉を寄せ、雨の幕を眺めている。彼は諦めたように息をつくと、鞄を抱えて雨の中へ飛び出そうとした。
(……濡れる気か)
一瞬、迷った。
放っておいてもいい。走れば駅まですぐだし、どこかで雨宿りもできるだろう。
でも――あの服は、自分が選んだ服だ。
せっかく似合っているのに。買ったばかりなのに。
雨で台無しになるのは、どうしても耐えがたかった。
「……駅まで行くけど」
気づけば、声をかけていた。
琉生が振り向く。目が合った瞬間、今さらながら心臓がうるさくなる。
「……入る?」
一拍置いて、琉生の顔に驚きが広がった。
「え、いいの?」
「別に、駅までだし。……昼間のお礼」
言いながら、鴎は顔を見ないまま傘を開いた。
琉生がすぐ隣に入ってくる。
……近い。思っていたよりずっと、体温を感じる距離。
「サンキュ」
「……律儀だな」
「うるさい」
二人並ぶと、傘の中はひどく狭かった。
鴎はできるだけ距離を置こうとするが、体格差のせいで肩が触れそうになる。
「……っていうか、早見、デカすぎる」
「俺のせいかよ」
「半分くらいは」
琉生が低く笑う。それから、ふっと鴎の手元を見た。
「じゃあ、俺が持つわ」
「えっ」
返事をするより早く、琉生の手が伸びてきた。
傘の取っ手を握る鴎の手の上から、大きな温かい手が、包み込むように重なる。
一瞬、思考が止まった。
指先も、肩も、耳元に届く吐息も、全部が近すぎる。
「ちょ、ちょっと……」
「この方が高さ、合うだろ?」
確かにその通りだった。彼が持つと傘の位置が上がり、歩きやすくなる。
でも、そういう物理的な問題ではないのだ。
「なに。そんなに動揺してる?」
「してない」
「してる顔。……じゃあ、手、離せば?」
「……っ」
そう言われて、鴎は迷った。
けれど、ここで完全に手を離すのは、負けた感じがして癪だ。結局、彼の手に触れたままの中途半端な状態で歩くことになった。
琉生はそれを見て、満足げに笑った。
「サンキュ」
今度の声はさっきより低くて、どこか素直に響いた。
「……せっかくバイト代で買った服なんだから、大事にしろよ。濡らしたら、もったいないから」
「分かってるって」
「……あと。今日のやつ、普通に似合ってたし」
最後の一言は、余計だった。
言った直後に猛烈に後悔して、真横を向く。
けれど隣では、琉生が嬉しそうに気配を緩めていた。
「それ、今言うんだな」
「うるさい」
「嬉しいけど」
「聞いてない」
雨音が傘の布を細かく叩く。
駅までの道は短いはずなのに、意識すればするほど、ゴールが遠く感じられた。
でも、不思議と嫌ではなかった。
昼休みに秘密を守ってもらい、放課後に傘を貸す。
そんな小さな貸し借りを積み重ねるたび、二人の間の空気が、少しずつ、けれど確実に書き換えられていく。
駅の屋根が見えてきた頃、鴎はまだ自分の手の上に残る「他人の体温」に、どうしようもなく落ち着かない気持ちになっていた。
たぶん、今日のことは、家に帰ってからも何度も思い出す。
雨の匂いと、傘の狭さと、重ねられた手の熱を。
土曜日に一緒に選んだ服だ。
余計な飾りはないのに、不思議と目を引く。肩の力が抜けているのに、だらしなくはない。
茶髪やピアスともしっくり馴染んでいて、彼の持つ軽やかさとスタイルの良さが、これ以上ないほど綺麗に引き出されていた。
(……やっぱり、似合ってる)
自分で選んだのだから当然なのに、いざ教室という日常の中で見ると、妙に落ち着かない。
「早見、今日やばくない?」
「え、待って、めっちゃいいじゃん。その服どこの?」
「似合ってるね、いつもより大人っぽい」
案の定、朝から絶賛の声が飛ぶ。
琉生はいつも通り、気負わない顔で笑っていた。けれど鴎には分かった。あいつ、今はかなり機嫌がいい。
派手にはしゃいではいないが、口角の上がり方が少しだけ甘いのだ。
そのまま、緩やかに一日が過ぎていく。
授業を受け、板書を写す。視界の端で琉生を見つけるたび、どうしても服のバランスを確認してしまう自分がいた。
***
昼休み。購買でパンを買い、教室へ戻る途中だった。
廊下の角を曲がった瞬間、向こうから勢いよく現れた影とぶつかる。
「うわ、ごめん!」
反射的に一歩よろけた。パンは死守したが、ポケットに入れていた小さな「手鏡」が床に滑り落ちた。
からん、と軽い音が響く。
しまった、と思った時にはもう遅かった。
ぶつかった相手――今村彰人が、先にそれを拾い上げる。
「え、なにこれ」
彰人の明るい声に、嫌な予感が背筋を走る。
彼の手のひらには、淡い色味に小さな花模様があしらわれた、可愛いデザインの手鏡。鴎が密かに気に入って使っているものだ。
「かわいすぎだろ、これ」
やっぱり、そう言われた。
鴎の心臓が冷たく跳ねる。
「……返して」
「時任、こういうの使うんだ。意外だなあ」
彰人に悪気がないのは分かっている。からかうつもりなどなく、ただ珍しいものを見つけて面白がっているだけ。
けれど、その「軽いノリ」こそが一番厄介で、広まりやすい。
鴎が手を伸ばしかけた、その時。
「あ、それ。俺が貸してたやつ」
横から、聞き慣れた声が割って入った。
振り向くと、琉生が何でもない顔でこちらへ歩いてくるところだった。
「妹からもらったやつなんだけどさ。時任が鏡忘れたって言うから」
さらっと嘘を吐き、彰人の手から鏡を回収する。
「へえ、早見の私物かよ」
「そう。妹がこういうの好きなんだよね」
「なんだ、びっくりした。じゃ、悪かったな」
彰人は深く追及することもなく、軽く手を振って去っていった。
その背中を見送ってから、鴎はようやく止めていた息を吐き出す。
琉生が手鏡を差し出してきた。「はい」
「……ありがと」
小さく受け取ると、琉生は少しだけ肩をすくめた。
「焦りすぎ。……まあ、あれはちょっとな」
「……」
「可愛かったし」
最後の一言に、鴎はじろりと睨みを利かせる。
琉生はそれを軽くいなすように、いたずらっぽく笑った。
「冗談。でも、助かっただろ?」
「……それは、まあ」
認めるしかない。もし彼がいなかったら、今ごろ変な噂が広まっていたかもしれないのだ。
鴎は鏡をポケットの奥にしまい、視線を逸らしたまま言った。
「本当に……ありがと」
今度は、ちゃんと聞こえる声で。
すると琉生は一瞬だけ目を丸くして、それからごく自然に微笑んだ。
「どういたしまして」
それだけなのに、胸のあたりが妙にざわついて仕方がなかった。
***
放課後。
窓の外には、いつの間にか重たい雨雲が広がっていた。予報に反して、下校時間にはしとしとと雨が落ち始める。
昇降口には、足を止めて空を見上げる生徒が何人もいた。
鴎は念のために持ってきていた傘を広げる。ふと見ると、少し離れた場所に琉生が立っていた。
土曜日に買ったばかりの服。その上に薄手の羽織りを着ているが、傘は持っていないらしい。
「うわ……最悪」
困ったように眉を寄せ、雨の幕を眺めている。彼は諦めたように息をつくと、鞄を抱えて雨の中へ飛び出そうとした。
(……濡れる気か)
一瞬、迷った。
放っておいてもいい。走れば駅まですぐだし、どこかで雨宿りもできるだろう。
でも――あの服は、自分が選んだ服だ。
せっかく似合っているのに。買ったばかりなのに。
雨で台無しになるのは、どうしても耐えがたかった。
「……駅まで行くけど」
気づけば、声をかけていた。
琉生が振り向く。目が合った瞬間、今さらながら心臓がうるさくなる。
「……入る?」
一拍置いて、琉生の顔に驚きが広がった。
「え、いいの?」
「別に、駅までだし。……昼間のお礼」
言いながら、鴎は顔を見ないまま傘を開いた。
琉生がすぐ隣に入ってくる。
……近い。思っていたよりずっと、体温を感じる距離。
「サンキュ」
「……律儀だな」
「うるさい」
二人並ぶと、傘の中はひどく狭かった。
鴎はできるだけ距離を置こうとするが、体格差のせいで肩が触れそうになる。
「……っていうか、早見、デカすぎる」
「俺のせいかよ」
「半分くらいは」
琉生が低く笑う。それから、ふっと鴎の手元を見た。
「じゃあ、俺が持つわ」
「えっ」
返事をするより早く、琉生の手が伸びてきた。
傘の取っ手を握る鴎の手の上から、大きな温かい手が、包み込むように重なる。
一瞬、思考が止まった。
指先も、肩も、耳元に届く吐息も、全部が近すぎる。
「ちょ、ちょっと……」
「この方が高さ、合うだろ?」
確かにその通りだった。彼が持つと傘の位置が上がり、歩きやすくなる。
でも、そういう物理的な問題ではないのだ。
「なに。そんなに動揺してる?」
「してない」
「してる顔。……じゃあ、手、離せば?」
「……っ」
そう言われて、鴎は迷った。
けれど、ここで完全に手を離すのは、負けた感じがして癪だ。結局、彼の手に触れたままの中途半端な状態で歩くことになった。
琉生はそれを見て、満足げに笑った。
「サンキュ」
今度の声はさっきより低くて、どこか素直に響いた。
「……せっかくバイト代で買った服なんだから、大事にしろよ。濡らしたら、もったいないから」
「分かってるって」
「……あと。今日のやつ、普通に似合ってたし」
最後の一言は、余計だった。
言った直後に猛烈に後悔して、真横を向く。
けれど隣では、琉生が嬉しそうに気配を緩めていた。
「それ、今言うんだな」
「うるさい」
「嬉しいけど」
「聞いてない」
雨音が傘の布を細かく叩く。
駅までの道は短いはずなのに、意識すればするほど、ゴールが遠く感じられた。
でも、不思議と嫌ではなかった。
昼休みに秘密を守ってもらい、放課後に傘を貸す。
そんな小さな貸し借りを積み重ねるたび、二人の間の空気が、少しずつ、けれど確実に書き換えられていく。
駅の屋根が見えてきた頃、鴎はまだ自分の手の上に残る「他人の体温」に、どうしようもなく落ち着かない気持ちになっていた。
たぶん、今日のことは、家に帰ってからも何度も思い出す。
雨の匂いと、傘の狭さと、重ねられた手の熱を。



