付き合い始めてからしばらく経った、湿り気を帯びた六月のある休日。琉生は初めて、鴎の部屋を訪れていた。
深い意味はない。たまたま姉の翼芽が昼から出かけ、両親も仕事で遅くなるという条件が重なり、琉生が「一度行ってみたい」と零しただけだ。
けれど、そんな気まぐれな好奇心に限って、ろくな事態を招かないことを鴎は予感していた。
「……で。わざわざ人の部屋に来て、何しに来たわけ」
ベッドの端に座り、所在なげに問いかける鴎に対し、琉生は部屋の細部を観察しながら、案外素直なトーンで答えた。
「時任の部屋、ちゃんと見たかったんだよ。……あと」
「あと?」
「女装するところ、近くで見たい」
鴎は無言で、手元にあったクッションを琉生の顔面に叩きつけた。
「っぶな。いや、だって気になるだろ。普段どういう魔法でああなってんのか」
「“魔法”とか言うな。……それに、見せるわけないでしょ」
鴎は突き放したが、琉生の瞳は純粋な好奇心に輝いていて、それが逆にタチが悪かった。変な下心があるわけではなく、本気でその「工程」に興味があるのだ。
結局、根負けした鴎は「少しだけ、静かにしてること」を条件に、メイクを披露することになった。
鴎が鏡の前に座り、琉生はその斜め後ろ、ベッドの端で固唾を呑んで見守る。
鴎の手つきは迷いがない。下地で肌の質感を整え、シャドウで彫りの深さを絶妙にコントロールし、眉のラインをミリ単位で書き換えていく。鏡の中で、見慣れた「時任鴎」の顔が、少しずつ別の輪郭を帯びていく。
「……すげえな」
後ろから、ぽつりと感嘆の声が漏れた。
「何が」
「いや、普通に。どんどん変わってくの分かる。思ってたよりずっと細かいんだな」
からかいのない、純粋な称賛。鴎は少しだけ、強張っていた肩の力を抜いた。
続いて鴎がクローゼットから服を選び始めると、琉生の熱視線はさらに加速した。
「その色の合わせ方、やっぱいいな。シンプルなのに、ちゃんと女の子っぽく見える」
「……褒めすぎ。気持ち悪い」
「じゃあ控えめに言う。……かなり可愛い」
鴎は手に持っていたブラウスを投げつけそうになったが、ぐっと堪えた。
やがて、ウィッグを整え、完璧に「彼女」の姿になった鴎が鏡の前に立つ。琉生は本気で息を呑み、吸い寄せられるように近づいてきた。
「近くで見ると、余計に完成度高いな。……これってさ」
「何」
「スカートの中とか、どうなってんの? 構造的に、男子の体型をどう隠してんのかなって」
鴎は冷ややかな目で振り返った。
「……死ぬ?」
「いや、違うって。学術的な興味っていうか」
「うるさい直撃。黙って」
即座にシャットアウトしたが、琉生の目はまだ「謎を解きたい」という光を失っていない。そこで鴎の胸中に、意地悪な閃きが浮かんだ。
「へえ。そんなに“構造”が気になるんだ」
「……まあ。ちょっとだけ」
「じゃあ、自分で試してみればいいじゃん。言い出したの、そっちなんだから」
そこからの展開は、文字通りの強制収容だった。
「座って。動かない。文句言わない」
「はい……」
さっきまで好き勝手言っていたイケメンモデルが、鏡の前で借りてきた猫のように丸まっている。鴎は、少しだけ機嫌を直してパレットを手に取った。
しかし、いざ筆を当ててみると、すぐに壁にぶち当たった。
「……何なの、この主張の塊」
「何がだよ」
「全部。眉も、鼻筋も、輪郭も。無言で“俺は男です”って主張してるじゃん」
「そんなこと言われても」
鴎は意地になってメイクを施した。柔らかな曲線を描き、目元に彩りを添える。だが、やればやるほど「メイクの濃い超絶イケメン」が出来上がっていく。
さらに、無理やりクローゼットから出したスカートを履かせた時、鴎はついに沈黙した。
顔はいい。メイクも技術的には完璧だ。
なのに、全体で見ると絶望的に「違う」のだ。肩幅が、脚の長さが、隠しきれない雄弁な骨格が、可愛い服と喧嘩をしている。
「……なんか、思ってたのと違う」
「だから何なんだよそれ」
「似合わないわけじゃないけど……ジャンルが違う。でかい美人としか言いようがない」
不毛な言い合いを始めようとした、その時だった。
玄関で、ガチャリと鍵の回る音が響いた。
「ただいまー。鴎、いる?」
翼芽の声だ。二人は石のように固まった。
「……っ、姉ちゃん帰ってきた!」
「え、待って。俺この格好でどうすんの?」
「知らないよ! 早く着替えて!」
焦る二人のもとへ、無慈悲にもドアが開かれる。
「鴎ー? 何で返事……」
部屋の惨状を視界に入れた翼芽は、三秒ほどフリーズし、次の瞬間、腹を抱えて爆笑した。
「っ、あはははは! ちょっと、何これ! 何であのイケメンくんが、そんな無茶苦茶なことになってんの!?」
「姉ちゃん、笑いすぎ!」
「だって無理でしょ! 似合ってるのか似合ってないのか絶妙なラインだし、何より鴎、絶対これ途中で本気で可愛くしようと試行錯誤したでしょ!」
「してない!」
ベッドに崩れ落ちて笑う姉の横で、琉生はフリルのついたスカートを握りしめ、この世の終わりみたいな顔で項垂れていた。
「……もう二度とやらない」
「そうして。俺も、自分の限界知ったから」
「素材のせいにすんなよ」
「事実でしょ」
そこへ、涙を拭きながら翼芽がスマホを構えた。
「でも、記念に一枚撮っていい?」
「絶対嫌」
「それだけは無理」
珍しくぴたりと揃った拒絶に、翼芽はまた「あんたたちほんと飽きないわね」と吹き出した。
鏡の中には、女装姿がちぐはぐな琉生と、その隣で呆れ果てた顔の鴎。
外から見れば、滑稽極まりない光景だろう。
それでも、こんな馬鹿げたことで騒いで、笑って、ぐだぐだになれる時間は、案外悪くないと思えた。
琉生が鏡越しに、消え入るような声で零す。
「……やっぱ、見てるだけで満足しとけばよかった」
「遅い。……でも、構造は分かったでしょ?」
「……身をもって知ったわ」
溜息をつく琉生の姿に、鴎は小さく笑った。
こういう不器用で、どうしようもない時間も、きっとこれから好きになっていくのだと確信しながら。
深い意味はない。たまたま姉の翼芽が昼から出かけ、両親も仕事で遅くなるという条件が重なり、琉生が「一度行ってみたい」と零しただけだ。
けれど、そんな気まぐれな好奇心に限って、ろくな事態を招かないことを鴎は予感していた。
「……で。わざわざ人の部屋に来て、何しに来たわけ」
ベッドの端に座り、所在なげに問いかける鴎に対し、琉生は部屋の細部を観察しながら、案外素直なトーンで答えた。
「時任の部屋、ちゃんと見たかったんだよ。……あと」
「あと?」
「女装するところ、近くで見たい」
鴎は無言で、手元にあったクッションを琉生の顔面に叩きつけた。
「っぶな。いや、だって気になるだろ。普段どういう魔法でああなってんのか」
「“魔法”とか言うな。……それに、見せるわけないでしょ」
鴎は突き放したが、琉生の瞳は純粋な好奇心に輝いていて、それが逆にタチが悪かった。変な下心があるわけではなく、本気でその「工程」に興味があるのだ。
結局、根負けした鴎は「少しだけ、静かにしてること」を条件に、メイクを披露することになった。
鴎が鏡の前に座り、琉生はその斜め後ろ、ベッドの端で固唾を呑んで見守る。
鴎の手つきは迷いがない。下地で肌の質感を整え、シャドウで彫りの深さを絶妙にコントロールし、眉のラインをミリ単位で書き換えていく。鏡の中で、見慣れた「時任鴎」の顔が、少しずつ別の輪郭を帯びていく。
「……すげえな」
後ろから、ぽつりと感嘆の声が漏れた。
「何が」
「いや、普通に。どんどん変わってくの分かる。思ってたよりずっと細かいんだな」
からかいのない、純粋な称賛。鴎は少しだけ、強張っていた肩の力を抜いた。
続いて鴎がクローゼットから服を選び始めると、琉生の熱視線はさらに加速した。
「その色の合わせ方、やっぱいいな。シンプルなのに、ちゃんと女の子っぽく見える」
「……褒めすぎ。気持ち悪い」
「じゃあ控えめに言う。……かなり可愛い」
鴎は手に持っていたブラウスを投げつけそうになったが、ぐっと堪えた。
やがて、ウィッグを整え、完璧に「彼女」の姿になった鴎が鏡の前に立つ。琉生は本気で息を呑み、吸い寄せられるように近づいてきた。
「近くで見ると、余計に完成度高いな。……これってさ」
「何」
「スカートの中とか、どうなってんの? 構造的に、男子の体型をどう隠してんのかなって」
鴎は冷ややかな目で振り返った。
「……死ぬ?」
「いや、違うって。学術的な興味っていうか」
「うるさい直撃。黙って」
即座にシャットアウトしたが、琉生の目はまだ「謎を解きたい」という光を失っていない。そこで鴎の胸中に、意地悪な閃きが浮かんだ。
「へえ。そんなに“構造”が気になるんだ」
「……まあ。ちょっとだけ」
「じゃあ、自分で試してみればいいじゃん。言い出したの、そっちなんだから」
そこからの展開は、文字通りの強制収容だった。
「座って。動かない。文句言わない」
「はい……」
さっきまで好き勝手言っていたイケメンモデルが、鏡の前で借りてきた猫のように丸まっている。鴎は、少しだけ機嫌を直してパレットを手に取った。
しかし、いざ筆を当ててみると、すぐに壁にぶち当たった。
「……何なの、この主張の塊」
「何がだよ」
「全部。眉も、鼻筋も、輪郭も。無言で“俺は男です”って主張してるじゃん」
「そんなこと言われても」
鴎は意地になってメイクを施した。柔らかな曲線を描き、目元に彩りを添える。だが、やればやるほど「メイクの濃い超絶イケメン」が出来上がっていく。
さらに、無理やりクローゼットから出したスカートを履かせた時、鴎はついに沈黙した。
顔はいい。メイクも技術的には完璧だ。
なのに、全体で見ると絶望的に「違う」のだ。肩幅が、脚の長さが、隠しきれない雄弁な骨格が、可愛い服と喧嘩をしている。
「……なんか、思ってたのと違う」
「だから何なんだよそれ」
「似合わないわけじゃないけど……ジャンルが違う。でかい美人としか言いようがない」
不毛な言い合いを始めようとした、その時だった。
玄関で、ガチャリと鍵の回る音が響いた。
「ただいまー。鴎、いる?」
翼芽の声だ。二人は石のように固まった。
「……っ、姉ちゃん帰ってきた!」
「え、待って。俺この格好でどうすんの?」
「知らないよ! 早く着替えて!」
焦る二人のもとへ、無慈悲にもドアが開かれる。
「鴎ー? 何で返事……」
部屋の惨状を視界に入れた翼芽は、三秒ほどフリーズし、次の瞬間、腹を抱えて爆笑した。
「っ、あはははは! ちょっと、何これ! 何であのイケメンくんが、そんな無茶苦茶なことになってんの!?」
「姉ちゃん、笑いすぎ!」
「だって無理でしょ! 似合ってるのか似合ってないのか絶妙なラインだし、何より鴎、絶対これ途中で本気で可愛くしようと試行錯誤したでしょ!」
「してない!」
ベッドに崩れ落ちて笑う姉の横で、琉生はフリルのついたスカートを握りしめ、この世の終わりみたいな顔で項垂れていた。
「……もう二度とやらない」
「そうして。俺も、自分の限界知ったから」
「素材のせいにすんなよ」
「事実でしょ」
そこへ、涙を拭きながら翼芽がスマホを構えた。
「でも、記念に一枚撮っていい?」
「絶対嫌」
「それだけは無理」
珍しくぴたりと揃った拒絶に、翼芽はまた「あんたたちほんと飽きないわね」と吹き出した。
鏡の中には、女装姿がちぐはぐな琉生と、その隣で呆れ果てた顔の鴎。
外から見れば、滑稽極まりない光景だろう。
それでも、こんな馬鹿げたことで騒いで、笑って、ぐだぐだになれる時間は、案外悪くないと思えた。
琉生が鏡越しに、消え入るような声で零す。
「……やっぱ、見てるだけで満足しとけばよかった」
「遅い。……でも、構造は分かったでしょ?」
「……身をもって知ったわ」
溜息をつく琉生の姿に、鴎は小さく笑った。
こういう不器用で、どうしようもない時間も、きっとこれから好きになっていくのだと確信しながら。



