裏アカ彼女は、クラスの地味男子

​ 待ち合わせの駅前に着いたとき、時任はまだ少しだけ落ち着かなかった。
 今日は女装じゃない。偽装でもない。ただ、早見琉生と出かけるだけ。そのはずなのに、逆にそれがいちばん落ち着かなかった。
​ 鏡の前で散々迷って選んだ服は、学校でも着られる範囲のものだ。けれど、いつもより少しだけ色の合わせを整えて、サイズ感もかなり詰めて考えた。「気合いを入れた」と思われるのは(しゃく)で、でも「何も考えていない」ようには見せたくなくて。その中途半端な調整に、朝から無駄な時間を費やしてしまった。
​「おはよ」
 聞き慣れた声に振り向くと、早見が片手を上げながら近づいてきた。
 今日の服装はラフすぎず、でも適当でもない。白寄りのトップスに暗めの羽織り、細すぎないパンツ。前よりずっと自分に合うものを選べているのが一目で分かった。
​ そのくせ、早見は時任の姿を見た瞬間、ほんの一拍だけ目を止めた。
「……何」
「いや。なんか今日、いつもよりちゃんとしてるなと思って」
「普通だけど」
「うん。普通に見えて、ちゃんとしてる」
 そういう言い方をされると困る。気づかれたくないこだわりを、ピンポイントで射抜かれている気がするからだ。
​「早見も。……まあ、変じゃない」
「それ、褒めてる?」
「知らない」
 ぶっきらぼうに返して歩き出すと、早見が隣に並ぶ。その距離が近すぎないことに、少しだけ安堵した。
​ ***
​ 映画館は駅直結のビルにあった。上映中は、さすがに会話はない。
 けれど、暗い場内で隣に誰かがいるというだけで、なぜか普段より意識が散漫になった。たまに早見が姿勢を直す気配や、ドリンクの蓋に触れる小さな音。そんな些細なものが変に耳に入ってきて落ち着かなかった。
​ エンドロールが流れ始め、ロビーに出たところで早見が先に口を開いた。
「どうだった」
「……よかった」
「ざっくりだな」
「いや、でも。最後の台詞より、その前の沈黙の方がよかった」
 言った瞬間、早見が少しだけ目を細める。
「ほら、そういう見方する。お前、細かいとこ見そうだもんな」
「普通でしょ。あのシーンって前で言い切れなかった時間の方が大事じゃん」
「……ああ、なるほど。そういうとこ、やっぱ好きだな」
​「何でも『好き』に繋げないで」
「無理かも」
 さらっと返されて、時任は飲み物のストローを噛みそうになった。本当に、この男は油断するとすぐこういうことを言う。
​ ランチは、ビルから少し離れた場所にあるイタリアンに入った。
「時任ってさ」
 パスタを口に運んでいた早見が、少しだけ首を傾ける。
「学校だと、ほんと隠してるよな。服の見方とか、喋る感じとか。もっと出したらいいのに」
「……出さない方が楽だから。目立たないし、変に期待もされないし」
「そっか」
 早見の返事は短かった。けれど、その響きには少しだけ残念そうな色が混じっていた。
「俺は今のお前の方が好きだけど」
「……またそういうの」
「ほんとのことだし。拾わなくていいよ、俺が勝手に言ってるだけだから」
「それが疲れるって言ってるの」
 そう返すと、早見は声を立てずに笑った。その笑い方がどこか嬉しそうで、時任はまた心臓の鼓動を意識してしまう。
​ ***
​ その後、服屋が並ぶエリアへ向かった。
 今日は「コーデを考えなくていい日」という約束だったはずなのに、最初に入った店で早見がシャツを手に取った瞬間、時任の口は動いていた。
​「それはない」
「早」
「色はいいけど丈が中途半端。あとその素材、安っぽく見える」
「今日は考えなくていい日じゃなかったっけ?」
「考えてない。感想を言っただけ」
「十分見てるじゃん」
 早見がニヤッとする。時任はそれを睨みつけながらも、無意識に次のラックを物色していた。
​「……こっちの黒もいいけど、今日の早見ならこっち」
「結局選んでる」
「違う」
「違わないって」
 言い合いながらも、早見は素直に時任の勧めた服を手に取る。結局、今日もまた半分以上は「プロデューサー」をさせられていた。
​ 試しに一着だけと試着室に入り、出てきた早見の姿を見て、時任は一瞬だけ言葉を失った。
 シンプルなのに、前よりずっと似合っている。余計な装飾がないぶん、早見自身の顔立ちや空気が際立っていた。
​「どう」
「……似合う」
「その一言、前より重いな」
「意味分かんない」
「分かってるくせに」
 そう言われて、時任はそれ以上何も返せなくなった。
​ ***
​ 夕方が近づき、駅の方へ向かおうと大きな通りへ出たときだった。
 交差点の向こうに、見覚えのある顔があった。
 私服校である自分たちにとって、休日の私服姿は何の変哲もないはずだ。けれど、学校で見慣れたあの独特の明るいオーラと、今村らしい着こなしのシルエットを、時任は見逃さなかった。
(……っ。今村だ)
​ 喉の奥が詰まり、足が止まりかけたその一瞬。
「こっち」
 短く、鋭い声。
 次の瞬間、時任の手首は力強く掴まれていた。
「え……」
 問う間もなく、早見が半ば強引に時任を人の流れの中へと引き込む。ショッピングエリアの喧騒の中、人と人の隙間を縫うように進む。掴まれた手首が熱い。その熱が、周囲の混雑よりもずっと切実に時任を支配した。
​ 少し静かな横道に入ったところで、ようやく早見が足を止めた。
「……今の、今村いた」
「見えてた。だから逃げた」
 早見の返事は短かったが、その声には微かな緊張が残っていた。
「……手」
「え」
「離して」
​ 早見がハッとしたように指を緩める。離れた瞬間に、そこだけ空気が冷たくなった気がした。
「……悪い。反射で」
「別に」
 全然「別に」ではない。脈拍はまだうるさいし、掴まれていた場所にだけ熱がこびりついている。
「見られたくなかったんだ」
 早見が小さく呟いた。
「今日のお前。彰人にも、他のやつにも」
​ その響きには、秘密がバレるのを恐れる以上の、独占的な熱が混じっていた。
「……大げさ」
「そうかもな。でもそう思ったから」
 まっすぐに返され、時任は視線を落とすしかなかった。
​ ***
​ 改札の前。並んで歩く間も、お互い言葉が少なかった。
「……今日は、楽しかった」
 先に口を開いたのは早見だった。
「……そう」
「時任は?」
「別に。……でも、嫌じゃなかった」
「それ、かなり上出来」
「うるさい」
​ 早見は少しだけ笑った。でも、その笑い方はいつになく静かだった。
「じゃあ、また」
「……内容による」
「はいはい」
​ 改札を抜けてからも、時任の手首にはあの熱が残っていた。
 帰宅してベッドに座ると、スマホが震えた。
『今日はありがとう。あと、さっきはごめん』
 少し迷ってから、時任は打ち込む。
『……後半はちょっと心臓に悪かった』
 送った瞬間、何を言っているんだと自嘲したが、すぐに既読がついた。
『俺も』
​ その短い返信だけで、また頬が熱くなる。
 今村のこと、自分の気持ち、早見の眼差し。
 もう、ただの「普通のお出かけ」では済まなくなり始めていた。それを認めざるを得ないほどに、今日一日の記憶が鮮明すぎて、どうしようもなかった。