校外学習の翌日。教室の空気はどこかまだ遠足の余韻を引きずっていた。
昨日撮った写真を見せ合う声、港の店で買った土産の袋、班行動の話で盛り上がるグループ。
そんなざわつきの中で、時任だけがどうにも落ち着かなかった。
昨日の帰り道に言われた言葉が、頭のどこかにずっと残っている。
(裏アカの写真より。こういう、ちょっと疲れてる時任の方が、俺は好きかも)
あの瞬間の早見の目を思い出すたび、胸の奥が変にざわついた。あれは軽口じゃなかった。いつもの調子で薄めたわけでもなく、ちゃんと、まっすぐだった。
だから困る。時任はノートを開いたまま、何度目か分からないため息を飲み込んだ。
「時任」
不意に横から声がして、肩が揺れる。今村だった。昨日と同じように明るい顔をしているのに、その目だけが少しだけ笑っていない気がした。
「……何」
「いや。ちょっと気になって」
「何が」
今村は時任の机に軽く手をついて、少しだけ身をかがめた。
「昨日さ。琉生の襟、直してたじゃん」
時任の指先が止まる。やはり見られていた。
「……別に直しただけ。たまたま、気づいたから」
「ふーん」
今村はそれ以上すぐには追及しなかった。ただ、面白がるようでも、責めるようでもない顔で続ける。
「自然すぎて、ちょっとびっくりした。なんかさ、ああいうのって普段からやってないと出なくね? ……ちょっと彼女っぽかったなって」
「意味分かんない。ただ服が変だったから直しただけでしょ」
できるだけ平坦な声を作った。今村は軽く笑ったが、そのまますぐには離れなかった。
「でもさ。時任って、ほんとはもっといろいろ見えてるやつなんだなって思った。服も、人も……。別に言いふらしたりしないから、そこは安心して」
今村が席へ戻ったあとも、時任はしばらく動けなかった。確信を持たれたわけじゃない。でも、確実に何かを感じ取られている。その事実が、じわじわと首元を締めつけるみたいだった。
***
帰宅後。部屋の鏡の前に座っても、何も手につかなかった。
スマホを開けば、裏アカには遊園地の写真への称賛が並んでいる。けれど今日は、どれを見ても妙に薄い。画面の向こうの知らない誰かに褒められるより、昨日、まっすぐ見られたあの一瞬の方が、ずっと重かった。
その時、スマホが震えた。早見からだった。
『今日、彰人に何か言われた?』
見透かされている。時任は少し迷ってから返した。
『少しだけ。襟のこと。あと、服だけじゃないって』
すぐに既読がつき、返信が来る。
『そっか。ごめん』
『早見が全部悪いわけじゃないし』
やり取りが途切れた数秒後、次に来たのは一文だけだった。
『会いたい』
冗談じゃない。絵文字もない。ただそれだけ。だから余計にまずい。
『何で』
少し時間を置いて送ると、すぐに返ってくる。
『文字だとうまく言えない。少しだけ通話していい?』
通話。その文字を見ただけで、喉の奥が乾いた。
出る必要なんてない。そう思うのに、断る文を打とうとすると指が止まった。結局、短く「少しだけ」と返してしまう。
数秒後、着信画面が開いた。耳に当てる。いつもは教室や廊下で聞く声が、こんなふうに耳元で響くのが妙に変だった。
「……もしもし」
『もしもし』
返ってきた琉生の声は、対面のときより少し低くて、近い。
『急にごめん』
「ほんとにね」
そう返すと、電話の向こうで少しだけ笑う気配がした。
『でも、声聞きたかった』
「……そういうの、さらっと言わないで」
『ごめん。気をつける』
「絶対気をつけないやつでしょ」
そう言いながらも、少しだけ肩の力が抜ける。声だけの距離なのに、むしろ変に近く感じるのが困った。
『彰人が何となく気づいてるのは、たぶんそうだと思う。でも、俺は別に隠しきれなくなってもいいやって、ちょっと思い始めてる』
「……は?」
『裏アカとか、女装のことまで全部って意味じゃない。そこはちゃんと守りたい。でも、お前と仲いいのとか、特別なのとか、それを隠すためにお前がずっとびくびくしてるの見てると、それ、何か違うなって思った』
スマホを持つ手に少しだけ力が入る。声だけだから顔は見えない。それなのに、琉生がどんな顔でそれを言っているのか、妙に想像できてしまうのが嫌だった。
「……俺は、まだ無理」
『うん。分かってる』
返事が早い。押しつける気がないのが分かるから、余計に逃げにくい。
「でも……早見が、そう思ってるっていうのは、嫌じゃなかった」
言ってしまってから、すぐに後悔する。電話の向こうが、一瞬だけ静かになった。
『……それ、十分』
「十分って何」
『今の時任にしては、かなり』
「うるさい」
『もうひとつだけ。今度は、偽装とかじゃなくて。ほんとに普通に、どっか行かない?』
「……普通って何」
『女装じゃない。作戦もない。ただ俺がお前と出かけたいだけ』
「……急すぎる。そういうの、ちゃんと考える時間ほしい」
『うん。でも考えてはくれるんだろ』
「……たぶん」
『じゃあ、それで十分』
勝手に納得して、勝手に受け取る。そのくせ押しすぎないから、本当はずるい。
電話越しの沈黙は、対面より不思議だった。顔が見えないぶん、相手の気配だけが濃密に届く。
『今日はありがと。出てくれて』
「……別に」
『またそれ』
「うるさい」
『でも好き』
「は?」
反射的に飛び出した声が、自分でも驚くくらい素だった。電話の向こうで、琉生が少しだけ息をこぼす。
『その返し、ちょっと見たかっただけ』
「……最悪」
『ごめん』
「ほんとに最悪」
そう言いながらも、頬が熱いのが分かる。
『今日はもう寝ろよ。たぶんお前、今かなり顔赤いし』
「見えてないのに決めつけないで」
『見えてなくても分かる』
「……うるさい」
そのまま、少しだけ他愛のないやり取りをして、通話は切れた。
通話終了の表示を見つめながら、時任はしばらく動けなかった。声だけの方が、余計に近い。
スマホを胸の上に置いて、天井を見る。山積みの問題は何も解決していない。
それなのに、耳の奥にはまだ琉生の声が残っていた。
(次はちゃんと普通に誘うから)
その約束が、心地いい余韻となって消えない。時任は枕に顔を埋めた。明日を少しだけ待ってしまう自分がいる。それがいちばん、どうしようもなかった。
昨日撮った写真を見せ合う声、港の店で買った土産の袋、班行動の話で盛り上がるグループ。
そんなざわつきの中で、時任だけがどうにも落ち着かなかった。
昨日の帰り道に言われた言葉が、頭のどこかにずっと残っている。
(裏アカの写真より。こういう、ちょっと疲れてる時任の方が、俺は好きかも)
あの瞬間の早見の目を思い出すたび、胸の奥が変にざわついた。あれは軽口じゃなかった。いつもの調子で薄めたわけでもなく、ちゃんと、まっすぐだった。
だから困る。時任はノートを開いたまま、何度目か分からないため息を飲み込んだ。
「時任」
不意に横から声がして、肩が揺れる。今村だった。昨日と同じように明るい顔をしているのに、その目だけが少しだけ笑っていない気がした。
「……何」
「いや。ちょっと気になって」
「何が」
今村は時任の机に軽く手をついて、少しだけ身をかがめた。
「昨日さ。琉生の襟、直してたじゃん」
時任の指先が止まる。やはり見られていた。
「……別に直しただけ。たまたま、気づいたから」
「ふーん」
今村はそれ以上すぐには追及しなかった。ただ、面白がるようでも、責めるようでもない顔で続ける。
「自然すぎて、ちょっとびっくりした。なんかさ、ああいうのって普段からやってないと出なくね? ……ちょっと彼女っぽかったなって」
「意味分かんない。ただ服が変だったから直しただけでしょ」
できるだけ平坦な声を作った。今村は軽く笑ったが、そのまますぐには離れなかった。
「でもさ。時任って、ほんとはもっといろいろ見えてるやつなんだなって思った。服も、人も……。別に言いふらしたりしないから、そこは安心して」
今村が席へ戻ったあとも、時任はしばらく動けなかった。確信を持たれたわけじゃない。でも、確実に何かを感じ取られている。その事実が、じわじわと首元を締めつけるみたいだった。
***
帰宅後。部屋の鏡の前に座っても、何も手につかなかった。
スマホを開けば、裏アカには遊園地の写真への称賛が並んでいる。けれど今日は、どれを見ても妙に薄い。画面の向こうの知らない誰かに褒められるより、昨日、まっすぐ見られたあの一瞬の方が、ずっと重かった。
その時、スマホが震えた。早見からだった。
『今日、彰人に何か言われた?』
見透かされている。時任は少し迷ってから返した。
『少しだけ。襟のこと。あと、服だけじゃないって』
すぐに既読がつき、返信が来る。
『そっか。ごめん』
『早見が全部悪いわけじゃないし』
やり取りが途切れた数秒後、次に来たのは一文だけだった。
『会いたい』
冗談じゃない。絵文字もない。ただそれだけ。だから余計にまずい。
『何で』
少し時間を置いて送ると、すぐに返ってくる。
『文字だとうまく言えない。少しだけ通話していい?』
通話。その文字を見ただけで、喉の奥が乾いた。
出る必要なんてない。そう思うのに、断る文を打とうとすると指が止まった。結局、短く「少しだけ」と返してしまう。
数秒後、着信画面が開いた。耳に当てる。いつもは教室や廊下で聞く声が、こんなふうに耳元で響くのが妙に変だった。
「……もしもし」
『もしもし』
返ってきた琉生の声は、対面のときより少し低くて、近い。
『急にごめん』
「ほんとにね」
そう返すと、電話の向こうで少しだけ笑う気配がした。
『でも、声聞きたかった』
「……そういうの、さらっと言わないで」
『ごめん。気をつける』
「絶対気をつけないやつでしょ」
そう言いながらも、少しだけ肩の力が抜ける。声だけの距離なのに、むしろ変に近く感じるのが困った。
『彰人が何となく気づいてるのは、たぶんそうだと思う。でも、俺は別に隠しきれなくなってもいいやって、ちょっと思い始めてる』
「……は?」
『裏アカとか、女装のことまで全部って意味じゃない。そこはちゃんと守りたい。でも、お前と仲いいのとか、特別なのとか、それを隠すためにお前がずっとびくびくしてるの見てると、それ、何か違うなって思った』
スマホを持つ手に少しだけ力が入る。声だけだから顔は見えない。それなのに、琉生がどんな顔でそれを言っているのか、妙に想像できてしまうのが嫌だった。
「……俺は、まだ無理」
『うん。分かってる』
返事が早い。押しつける気がないのが分かるから、余計に逃げにくい。
「でも……早見が、そう思ってるっていうのは、嫌じゃなかった」
言ってしまってから、すぐに後悔する。電話の向こうが、一瞬だけ静かになった。
『……それ、十分』
「十分って何」
『今の時任にしては、かなり』
「うるさい」
『もうひとつだけ。今度は、偽装とかじゃなくて。ほんとに普通に、どっか行かない?』
「……普通って何」
『女装じゃない。作戦もない。ただ俺がお前と出かけたいだけ』
「……急すぎる。そういうの、ちゃんと考える時間ほしい」
『うん。でも考えてはくれるんだろ』
「……たぶん」
『じゃあ、それで十分』
勝手に納得して、勝手に受け取る。そのくせ押しすぎないから、本当はずるい。
電話越しの沈黙は、対面より不思議だった。顔が見えないぶん、相手の気配だけが濃密に届く。
『今日はありがと。出てくれて』
「……別に」
『またそれ』
「うるさい」
『でも好き』
「は?」
反射的に飛び出した声が、自分でも驚くくらい素だった。電話の向こうで、琉生が少しだけ息をこぼす。
『その返し、ちょっと見たかっただけ』
「……最悪」
『ごめん』
「ほんとに最悪」
そう言いながらも、頬が熱いのが分かる。
『今日はもう寝ろよ。たぶんお前、今かなり顔赤いし』
「見えてないのに決めつけないで」
『見えてなくても分かる』
「……うるさい」
そのまま、少しだけ他愛のないやり取りをして、通話は切れた。
通話終了の表示を見つめながら、時任はしばらく動けなかった。声だけの方が、余計に近い。
スマホを胸の上に置いて、天井を見る。山積みの問題は何も解決していない。
それなのに、耳の奥にはまだ琉生の声が残っていた。
(次はちゃんと普通に誘うから)
その約束が、心地いい余韻となって消えない。時任は枕に顔を埋めた。明日を少しだけ待ってしまう自分がいる。それがいちばん、どうしようもなかった。



