校外学習を数日後に控えた教室は、浮き足立った空気に包まれていた。
行き先は、古い洋館と現代的なショップが混在する、港の見える丘エリア。私服校であるこの学校において、校外行事は絶好の「見せ場」だった。
「時任、マジで一言だけでいいからさ」
休み時間、今村がまたしても時任の席にやってきた。手元のスマホには、いくつかのコーデ案が並んでいる。
「……しつこい。動きやすければ何でもいいって言ったでしょ」
「そうだけどさ。このジャケット、色が強すぎるかな? 班写真、変に浮きたくないんだよね」
時任は眉を寄せた。断るべきだ。けれど、画面に映るあまりにチグハグな配色が、プロデューサーとしての性分を刺激してしまう。
「……その青、今村の肌の色だと顔色が悪く見える。着るなら、こっちの彩度を落としたネイビーにしなよ。靴はスニーカーでいいから」
「おお、マジ? やっぱ時任に聞いて正解だわ。サンキュ!」
今村が満足げに去っていく。時任は小さく溜息をついたが、その直後、背後から突き刺さるような視線を感じて肩を震わせた。
振り返ると、早見が自分の席で頬杖をつき、冷めた目でこちらを見ていた。
「……何」
「別に」
早見は短く答えると、そのまま窓の外へ目を向けた。前みたいに露骨に割って入りはしなかったが、その「我慢している」沈黙の方が、かえって重苦しく時任の胸にのしかかった。
***
当日。港町は、潮風と春の陽光に満ちていた。
班行動のため、時任と早見は別々のグループに分かれた。時任の班には今村がいて、道中、何かと「これ、時任のアドバイス通りにして良かったわ」と周囲に吹聴している。
時任はそれを適当に聞き流しながらも、無意識に雑踏の中から「ある背中」を探していた。
レンガ造りの建物の前、アイスクリーム屋の行列、展望台の階段。
ふとした瞬間に、少し離れた場所を歩く早見の姿が目に飛び込んでくる。早見もまた、こちらを見ている。目が合うたびに、心臓が変なリズムを刻んだ。
自由時間。集合場所の公園へと続く、人通りの少ない裏路地。
時任が自販機で飲み物を買おうとしていると、背後から不意に足音が近づいた。
「……彰人の、結局見たんだな」
低い、少しだけ尖った声。振り向くと、そこには少し髪を乱した早見が立っていた。
「……少しだけ。今村があまりにうるさかったから、一言言っただけだよ」
「ふーん。一言ね」
早見は自販機の横に寄りかかり、視線を落とした。
「あいつ、今日、機嫌良さそうに歩いてる。……時任に選んでもらったのが、そんなに嬉しいのかよ」
怒っているわけではない。けれど、隠しきれない不機嫌さが、独占欲として空気に溶け出している。
時任はその反応に戸惑いながらも、心のどこかで熱い塊が膨らむのを感じていた。
「……早見だって、今日、似合ってる。……俺が選んだやつ」
消え入りそうな声で言うと、早見は一瞬だけ目を見開き、それから深く溜息をついた。
「……お前、そういうこと無自覚に言うの、マジで反則だから」
***
集合場所の広場で、各班の集合写真を撮ることになった。
「時任、こっち来なよ! 真ん中空いてるぞ」
今村が明るく時任を呼ぶ。その声に反応して一歩踏み出そうとした時、すぐ近くを通りかかった早見の班と鉢合わせた。
「時任、こっち」
早見が、当然のような顔で時任の腕を軽く引いた。
「え、あ……」
今村と早見。二人の視線が時任の上で交差する。
「なんだよ琉生。時任はうちの班だぞ」
「移動の相談。すぐ終わるから」
周囲から見れば、ただの友人同士のやり取りに過ぎない。けれど、時任の腕に残る早見の指の熱は、あまりにも「特別」を主張していた。
その時。時任は、早見のパーカーの襟が内側に折れ曲がっているのに気づいた。
「……ちょっと。襟、変」
それは、放課後の誰もいない教室や、あの遊園地で、早見の服の乱れを直していた時の手癖だった。
時任は自然に手を伸ばし、早見の襟元を整えた。指先が、早見の首筋に微かに触れる。
早見の喉仏が、大きく動く。
時任もハッとして手を引っ込めたが、遅かった。
その迷いのない仕草に宿る、言葉を超えた親密さ。その光景を、少し離れた場所から今村がじっと見つめていた。今村の瞳に、確信めいた光が宿ったのを時任はまだ知らなかった。
***
解散後。駅へと向かう帰り道。
校外学習の疲れがどっと出たのか、時任は少しだけ足取りが重かった。
「疲れたか?」
いつの間にか隣を歩いていた早見が、覗き込むように聞いてくる。
「……少しだけ。歩き回ったから」
時任は今日、裏アカ用の「勝負服」ではない、学校用の落ち着いた私服を着ていた。
「……裏アカの写真よりさ」
早見が、ぽつりと零した。
「こういう、ちょっと疲れてる時任の方が、俺は好きかも」
「……は?」
驚いて顔を上げると、夕日に照らされた早見は、照れる様子もなく真っ直ぐに時任を見ていた。
「女装して完璧にキメてるお前もいいけど。……今のお前の方が、俺はお前っぽくていいって思う」
心臓が痛いほど脈打つ。
早見が惹かれているのは、自分が作り上げた虚像ではなく、今ここにいる「時任鴎」そのものなのだ。その事実が、決定的な重さを持って時任の中に突き刺さった。
「……変なこと言わないで」
それだけ返すのが精一杯だった。
けれど、繋いでもいない手のひらが、なぜか熱くて仕方なかった。
行き先は、古い洋館と現代的なショップが混在する、港の見える丘エリア。私服校であるこの学校において、校外行事は絶好の「見せ場」だった。
「時任、マジで一言だけでいいからさ」
休み時間、今村がまたしても時任の席にやってきた。手元のスマホには、いくつかのコーデ案が並んでいる。
「……しつこい。動きやすければ何でもいいって言ったでしょ」
「そうだけどさ。このジャケット、色が強すぎるかな? 班写真、変に浮きたくないんだよね」
時任は眉を寄せた。断るべきだ。けれど、画面に映るあまりにチグハグな配色が、プロデューサーとしての性分を刺激してしまう。
「……その青、今村の肌の色だと顔色が悪く見える。着るなら、こっちの彩度を落としたネイビーにしなよ。靴はスニーカーでいいから」
「おお、マジ? やっぱ時任に聞いて正解だわ。サンキュ!」
今村が満足げに去っていく。時任は小さく溜息をついたが、その直後、背後から突き刺さるような視線を感じて肩を震わせた。
振り返ると、早見が自分の席で頬杖をつき、冷めた目でこちらを見ていた。
「……何」
「別に」
早見は短く答えると、そのまま窓の外へ目を向けた。前みたいに露骨に割って入りはしなかったが、その「我慢している」沈黙の方が、かえって重苦しく時任の胸にのしかかった。
***
当日。港町は、潮風と春の陽光に満ちていた。
班行動のため、時任と早見は別々のグループに分かれた。時任の班には今村がいて、道中、何かと「これ、時任のアドバイス通りにして良かったわ」と周囲に吹聴している。
時任はそれを適当に聞き流しながらも、無意識に雑踏の中から「ある背中」を探していた。
レンガ造りの建物の前、アイスクリーム屋の行列、展望台の階段。
ふとした瞬間に、少し離れた場所を歩く早見の姿が目に飛び込んでくる。早見もまた、こちらを見ている。目が合うたびに、心臓が変なリズムを刻んだ。
自由時間。集合場所の公園へと続く、人通りの少ない裏路地。
時任が自販機で飲み物を買おうとしていると、背後から不意に足音が近づいた。
「……彰人の、結局見たんだな」
低い、少しだけ尖った声。振り向くと、そこには少し髪を乱した早見が立っていた。
「……少しだけ。今村があまりにうるさかったから、一言言っただけだよ」
「ふーん。一言ね」
早見は自販機の横に寄りかかり、視線を落とした。
「あいつ、今日、機嫌良さそうに歩いてる。……時任に選んでもらったのが、そんなに嬉しいのかよ」
怒っているわけではない。けれど、隠しきれない不機嫌さが、独占欲として空気に溶け出している。
時任はその反応に戸惑いながらも、心のどこかで熱い塊が膨らむのを感じていた。
「……早見だって、今日、似合ってる。……俺が選んだやつ」
消え入りそうな声で言うと、早見は一瞬だけ目を見開き、それから深く溜息をついた。
「……お前、そういうこと無自覚に言うの、マジで反則だから」
***
集合場所の広場で、各班の集合写真を撮ることになった。
「時任、こっち来なよ! 真ん中空いてるぞ」
今村が明るく時任を呼ぶ。その声に反応して一歩踏み出そうとした時、すぐ近くを通りかかった早見の班と鉢合わせた。
「時任、こっち」
早見が、当然のような顔で時任の腕を軽く引いた。
「え、あ……」
今村と早見。二人の視線が時任の上で交差する。
「なんだよ琉生。時任はうちの班だぞ」
「移動の相談。すぐ終わるから」
周囲から見れば、ただの友人同士のやり取りに過ぎない。けれど、時任の腕に残る早見の指の熱は、あまりにも「特別」を主張していた。
その時。時任は、早見のパーカーの襟が内側に折れ曲がっているのに気づいた。
「……ちょっと。襟、変」
それは、放課後の誰もいない教室や、あの遊園地で、早見の服の乱れを直していた時の手癖だった。
時任は自然に手を伸ばし、早見の襟元を整えた。指先が、早見の首筋に微かに触れる。
早見の喉仏が、大きく動く。
時任もハッとして手を引っ込めたが、遅かった。
その迷いのない仕草に宿る、言葉を超えた親密さ。その光景を、少し離れた場所から今村がじっと見つめていた。今村の瞳に、確信めいた光が宿ったのを時任はまだ知らなかった。
***
解散後。駅へと向かう帰り道。
校外学習の疲れがどっと出たのか、時任は少しだけ足取りが重かった。
「疲れたか?」
いつの間にか隣を歩いていた早見が、覗き込むように聞いてくる。
「……少しだけ。歩き回ったから」
時任は今日、裏アカ用の「勝負服」ではない、学校用の落ち着いた私服を着ていた。
「……裏アカの写真よりさ」
早見が、ぽつりと零した。
「こういう、ちょっと疲れてる時任の方が、俺は好きかも」
「……は?」
驚いて顔を上げると、夕日に照らされた早見は、照れる様子もなく真っ直ぐに時任を見ていた。
「女装して完璧にキメてるお前もいいけど。……今のお前の方が、俺はお前っぽくていいって思う」
心臓が痛いほど脈打つ。
早見が惹かれているのは、自分が作り上げた虚像ではなく、今ここにいる「時任鴎」そのものなのだ。その事実が、決定的な重さを持って時任の中に突き刺さった。
「……変なこと言わないで」
それだけ返すのが精一杯だった。
けれど、繋いでもいない手のひらが、なぜか熱くて仕方なかった。



