裏アカ彼女は、クラスの地味男子

​ 数日後。彰人は、予告通り軽い足取りで鴎のデスクにやってきた。
「時任、今度の校外学習の日だけでも相談乗ってよ」
​ 朝のホームルーム前。鴎がプリントに目を落としていると、彰人がいつもの屈託のない笑顔で横に立っていた。私服校であるこの学校において、行事は絶好の「見せ場」だ。
​「……何で。校外学習なんて、動きやすい格好なら何でもいいでしょ」
「何でもよくないって。せっかく班行動で外出るし、写真も撮るだろ? ちょっとくらいシュッとしたいんだよね。最近、琉生ばっかずるいし」
「ずるいって何」
「だってお前、絶対琉生のことだけ『特別』に見てるじゃん」
​ 半分は冗談、半分は様子見。その眼差しに射す鋭さに、鴎は心臓が跳ねるのを自覚した。
「……別に。本当に、別にだから」
「その『別に』、便利だよね。じゃあ俺にも一回くらい、いいじゃん。校外学習のコーデ組んでよ」
​ 断りたい。けれど、ここで過剰に拒絶すれば、かえって「特別」であることを認めるようなものだ。鴎が返答に窮していると、後ろから椅子を引く鋭い音が響いた。
​「彰人。……しつこいって」
 琉生だった。その声には、前日よりも隠しきれない不機嫌が滲んでいる。
「何だよ琉生、また邪魔すんの?」
「邪魔っていうか、嫌がってんの分かるだろ」
「分かるけどさあ。……そこまでお前が言うの、やっぱ変じゃね?」
​ 彰人の目が、獲物を特定するように細められる。琉生は一瞬だけ沈黙を置いたあと、吐き捨てるように言った。
「変でいいよ。俺が嫌なだけなんだから」
​ 教内の空気が一瞬、氷結した。あまりにもストレートな独占欲の表出に、彰人も毒気を抜かれたように肩をすくめる。
「……へえ。分かったよ、今日は引くわ。お熱いねえ」
 彰人は薄く笑い、自分の席へと戻っていった。完全に納得したわけではない、確信めいたものを瞳に宿したまま。
​ ***
​ 放課後。駅の向こうにある、少し古びた喫茶店。
 木目のテーブルに落ち着いた照明。ここなら学校の生徒と鉢合わせる心配もなさそうだった。
 先に着いた鴎が隅の席で水を一口飲んだところで、入り口のベルが鳴った。
​「待った?」
「今来たとこ」
「絶対嘘。……まあいいや」
 琉生が向かいに座る。それだけで、張り詰めていた肩の力がふっと抜けるのが分かった。
​「……何の話。わざわざ場所変えてまで」
「まずは彰人のこと。あいつ、半分はマジで校外学習の服の相談したいだけだろうけど、半分は俺らのこと探ってるな」
「……やっぱり、そう思う?」
「思う。あいつ、ああ見えて勘だけは無駄に鋭いから」
​ 鴎は小さく溜息をつき、アイスティーのストローを指先でいじった。
「めんどくさい……」
「わるい。今日、俺もかなり余計なこと言ったのは反省してる。……でも、あいつがお前にプロデュース頼もうとしてるの見てるの、正直耐えられなかった」
​「……何でそんなに嫌なの」
 無意識に、ずっと喉の奥に引っかかっていた問いが零れ落ちる。
​ 琉生はすぐには答えなかった。アイスコーヒーの水滴を指先でなぞり、言葉を選ぶように視線を落とす。
「まだ、ちゃんとは分かんないけど。……お前が他のやつのところに行くの、面白くないんだよね。服のことだけじゃなくて、普通に」
​ 店内を流れるジャズの音が、遠く感じる。
「……なにそれ、結構重いよ」
「だよね。……というか、俺も実際ちょっと緊張してるんだけど」
 琉生は笑っていなかった。ただ、剥き出しの真実を差し出すような顔をしていた。
​「遊園地のあとから、ずっと変でさ。学校でお前を見つけると安心するし、返信がないと気になる。今村みたいに距離詰めてくるやつがいると、思ったよりイライラしたし」
 琉生は小さく肩をすくめる。「たぶん、だいぶきてる」
​「……知らない。急に言われても困る」
「分かってる。答えろとかじゃない。ただ、今日はちゃんと話したかっただけ」
​ その素直さが、一番の毒だ。逃げ場を塞ぐような強引さはないのに、鴎の心の内側を静かに、けれど確実に侵食していく。
「……俺は」
 自分でも何を言おうとしているのか分からないまま、声が出た。
「早見といるの、別に嫌じゃない。……むしろ、思ってたより居心地悪くない、し」
​ 結局、そんな中途半端な言い方しかできなかった。
 けれど琉生は、今日一番の柔らかい笑みを浮かべた。
「それ、時任の中では最大級の褒め言葉だろ。……うれしい」
​ ***
​ 一時間だけの約束通り、店を出た。
 駅までの道を並んで歩く時間は、先ほどまでの重い空気とは違う、凪のような静けさがあった。
​「今日はありがと。……あと、さっきの話。急に重くしてごめん」
「本当だよ。……そこは黙っててよかったのに」
「無理。……本音だったから」
​ 琉生は笑って、改札へと消えていった。
 一人残された鴎は、少しだけ火照った顔を夜風に晒しながら、自分の心臓がいつもより饒舌になっていることに気づいていた。
​ 帰宅してベッドに倒れ込むと、スマホが震えた。
『今日は普通に会えてよかった』
​ 短い一文。特別な女装も、作戦も、フィルターもない。
 ただの「時任鴎」として会っただけなのに、今日の方がずっと、何かが決定的に近かった気がする。
​ 鴎はしばらく迷った末、指先を震わせながら短く返した。
『……俺も』
​ 送信したあと、すぐにスマホを伏せる。
 もう戻れない。そんな予感に、鴎はそっと目を閉じた。