教室の隅は、だいたい静かだ。
昼休みのような喧騒も、窓際のいちばん後ろに近いこの席までは、熱が薄まって届く。
遠くで響く笑い声や、机を引く音。誰かが誰かを呼ぶ声。
すべてが、薄い膜を隔てた向こう側の出来事のように思える。
それが、時任鴎にはちょうどよかった。
ひとりが好きなわけじゃない。誰かと話すのが苦手すぎるわけでもない。
ただ、中心に立つのが向いていないだけだ。
目立つと、落ち着かない。見られると、息が詰まる。
だから、教室ではいつも「気配の薄い場所」を選んでいた。
私服校であることも、鴎にとっては厄介だった。
服を選ぶこと自体は嫌いじゃない。むしろ、そこだけ切り取れば得意な方だと思う。
けれど、その「得意」を誰かに見せたいわけではなかった。
何も考えていないように見える服。無難で、地味で、印象に残らない色。
サイズもシルエットも、本当はもっと整えられるのに、あえて少しだけ外す。
「頑張っていないように見せる」ための微調整。それは案外、難しい作業だ。
黒のパーカー。少しだけくすんだグレーのインナー。
靴も、決して悪目立ちしないものを。
姉の翼芽が見たら、間違いなくため息をつくだろう。
「あんた、ほんともったいない着方するよね」
呆れ顔で言われる光景が、簡単に想像できた。
幼い頃から、姉の買い物には散々付き合わされてきた。
最初はただの荷物持ちだったが、何年も繰り返すうちに、嫌でも「分かって」しまった。
どの丈なら脚がすっきり見えるか。どの色を合わせれば顔色が明るくなるか。
知ろうとしたわけではない。勝手に目に入り、勝手に理解できるようになっただけだ。
だからこそ、学校では隠したかった。
そんな「センス」を持っていると知られたら、面倒なことになる。
おしゃれだと思われることも、目立つことも、鴎は避けたかった。
……でも。
誰にも見られたくないくせに、誰かに見てほしい自分がいる。
その矛盾も、鴎はちゃんと自覚していた。
放課後、自室の鏡の前に立つときだけ、ようやく深く息ができる。
そこには教室も、他人の視線もない。選ぶ服も、学校用とはまるで違う。
柔らかい色。肩の落ちるカーディガン。足首をきれいに見せる丈。
丸い顔立ちに合わせた髪型と、ほんの少しのメイク。
鏡の中にいるのは、普段の自分より、ずっと好きになれる自分だった。
角度を変えて写真を撮り、色味を整え、お気に入りの一枚を裏アカにアップする。
しばらくすると、通知が届く。
『可愛い』『センス好き』『コーデの参考になる』
画面の向こうの誰かがくれる短い言葉を、鴎は何度も見返した。
誰にも知られていないから、続けられる。
それが、鴎にとっての「いちばん安全な秘密」だった。
――少なくとも、つい昨日までは。
「時任」
不意に名前を呼ばれ、鴎は顔を上げた。
プリントを配っていたクラス委員が、こちらを見ている。
「これ、後ろに回して」
「あ、うん」
受け取って後ろに渡す。
視界の端。教室の中心で笑うグループの中に、早見琉生がいた。
茶髪、耳のピアス、高い身長。立っているだけで目を引く、華やかな存在。
鴎とは、住む世界が違う。
ただ、彼を見るたびに、気になることがあった。
(……もったいないな)
顔も体型もいいのに、絶妙に「外して」いる。
色の合わせが雑だったり、アクセが過剰だったり。
素材が良い分、その粗が目立ってしまう。
(ジャケットを変えるか、どこか一箇所抜けばいいのに……)
そこまで考えて、鴎は小さく首を振った。
自分には関係ない。そのまま卒業まで、一言も交わさずに終わる相手のはずだった。
***
放課後。教室に残っているのは、自分ひとりだと思っていた。
鴎は鞄からタブレットを取り出し、机の影に隠すようにして広げた。
昨夜撮った写真を、投稿前に大きな画面で確認したかったのだ。
AirDropを開く。
送信先の一覧に、自分のタブレットが表示される。その隣に――もうひとつ、見慣れない端末名が出た。
気にせず、鴎は送信ボタンをタップした。
次の瞬間。
少し離れた席から、聞き覚えのない通知音が鳴り響いた。
鴎の指先が凍りつく。
顔を上げると、教室の中央付近。机に足を投げ出すように座っていた早見琉生が、自分のスマホを覗き込んでいた。
視線が、合った。
琉生のスマホには、見覚えのあるサムネイルがはっきりと映し出されている。
鴎は反射的に立ち上がった。椅子がガタンと大きな音を立てる。
「あ……っ、それ……」
喉が張り付いて、声が出ない。
なのに琉生は、鴎を見つめたまま、ゆっくりと画面をタップした。
画面いっぱいに広がる、白いブラウスとカーディガン。
学校では絶対に見せない表情。絶対にしない格好。
「……これ」
琉生の声は、驚くほど平坦だった。
「お前?」
「……っ」
否定なんてできない。鴎は消え入りそうな声で絞り出した。
「……消して」
琉生が顔を上げる。その目が、写真ではなく「鴎本人」を捉えた。
教室の隅で、地味な服を着て息を潜めている時任鴎。その視線が、突き刺さるように痛い。
「……へえ」
短い声。琉生はほんの少しだけ口元を緩め、楽しげに目を細める。
「可愛い、より先に思ったんだけど」
「……は?」
「服の合わせ、めちゃくちゃ上手くない?」
意味が分からず、鴎は固まった。
「なあ、時任。これ、ちょっと詳しく話そ」
その声音は、どこまでも軽かった。
けれど鴎には、それが逃げ場を塞ぐ「宣告」のように聞こえた。
昼休みのような喧騒も、窓際のいちばん後ろに近いこの席までは、熱が薄まって届く。
遠くで響く笑い声や、机を引く音。誰かが誰かを呼ぶ声。
すべてが、薄い膜を隔てた向こう側の出来事のように思える。
それが、時任鴎にはちょうどよかった。
ひとりが好きなわけじゃない。誰かと話すのが苦手すぎるわけでもない。
ただ、中心に立つのが向いていないだけだ。
目立つと、落ち着かない。見られると、息が詰まる。
だから、教室ではいつも「気配の薄い場所」を選んでいた。
私服校であることも、鴎にとっては厄介だった。
服を選ぶこと自体は嫌いじゃない。むしろ、そこだけ切り取れば得意な方だと思う。
けれど、その「得意」を誰かに見せたいわけではなかった。
何も考えていないように見える服。無難で、地味で、印象に残らない色。
サイズもシルエットも、本当はもっと整えられるのに、あえて少しだけ外す。
「頑張っていないように見せる」ための微調整。それは案外、難しい作業だ。
黒のパーカー。少しだけくすんだグレーのインナー。
靴も、決して悪目立ちしないものを。
姉の翼芽が見たら、間違いなくため息をつくだろう。
「あんた、ほんともったいない着方するよね」
呆れ顔で言われる光景が、簡単に想像できた。
幼い頃から、姉の買い物には散々付き合わされてきた。
最初はただの荷物持ちだったが、何年も繰り返すうちに、嫌でも「分かって」しまった。
どの丈なら脚がすっきり見えるか。どの色を合わせれば顔色が明るくなるか。
知ろうとしたわけではない。勝手に目に入り、勝手に理解できるようになっただけだ。
だからこそ、学校では隠したかった。
そんな「センス」を持っていると知られたら、面倒なことになる。
おしゃれだと思われることも、目立つことも、鴎は避けたかった。
……でも。
誰にも見られたくないくせに、誰かに見てほしい自分がいる。
その矛盾も、鴎はちゃんと自覚していた。
放課後、自室の鏡の前に立つときだけ、ようやく深く息ができる。
そこには教室も、他人の視線もない。選ぶ服も、学校用とはまるで違う。
柔らかい色。肩の落ちるカーディガン。足首をきれいに見せる丈。
丸い顔立ちに合わせた髪型と、ほんの少しのメイク。
鏡の中にいるのは、普段の自分より、ずっと好きになれる自分だった。
角度を変えて写真を撮り、色味を整え、お気に入りの一枚を裏アカにアップする。
しばらくすると、通知が届く。
『可愛い』『センス好き』『コーデの参考になる』
画面の向こうの誰かがくれる短い言葉を、鴎は何度も見返した。
誰にも知られていないから、続けられる。
それが、鴎にとっての「いちばん安全な秘密」だった。
――少なくとも、つい昨日までは。
「時任」
不意に名前を呼ばれ、鴎は顔を上げた。
プリントを配っていたクラス委員が、こちらを見ている。
「これ、後ろに回して」
「あ、うん」
受け取って後ろに渡す。
視界の端。教室の中心で笑うグループの中に、早見琉生がいた。
茶髪、耳のピアス、高い身長。立っているだけで目を引く、華やかな存在。
鴎とは、住む世界が違う。
ただ、彼を見るたびに、気になることがあった。
(……もったいないな)
顔も体型もいいのに、絶妙に「外して」いる。
色の合わせが雑だったり、アクセが過剰だったり。
素材が良い分、その粗が目立ってしまう。
(ジャケットを変えるか、どこか一箇所抜けばいいのに……)
そこまで考えて、鴎は小さく首を振った。
自分には関係ない。そのまま卒業まで、一言も交わさずに終わる相手のはずだった。
***
放課後。教室に残っているのは、自分ひとりだと思っていた。
鴎は鞄からタブレットを取り出し、机の影に隠すようにして広げた。
昨夜撮った写真を、投稿前に大きな画面で確認したかったのだ。
AirDropを開く。
送信先の一覧に、自分のタブレットが表示される。その隣に――もうひとつ、見慣れない端末名が出た。
気にせず、鴎は送信ボタンをタップした。
次の瞬間。
少し離れた席から、聞き覚えのない通知音が鳴り響いた。
鴎の指先が凍りつく。
顔を上げると、教室の中央付近。机に足を投げ出すように座っていた早見琉生が、自分のスマホを覗き込んでいた。
視線が、合った。
琉生のスマホには、見覚えのあるサムネイルがはっきりと映し出されている。
鴎は反射的に立ち上がった。椅子がガタンと大きな音を立てる。
「あ……っ、それ……」
喉が張り付いて、声が出ない。
なのに琉生は、鴎を見つめたまま、ゆっくりと画面をタップした。
画面いっぱいに広がる、白いブラウスとカーディガン。
学校では絶対に見せない表情。絶対にしない格好。
「……これ」
琉生の声は、驚くほど平坦だった。
「お前?」
「……っ」
否定なんてできない。鴎は消え入りそうな声で絞り出した。
「……消して」
琉生が顔を上げる。その目が、写真ではなく「鴎本人」を捉えた。
教室の隅で、地味な服を着て息を潜めている時任鴎。その視線が、突き刺さるように痛い。
「……へえ」
短い声。琉生はほんの少しだけ口元を緩め、楽しげに目を細める。
「可愛い、より先に思ったんだけど」
「……は?」
「服の合わせ、めちゃくちゃ上手くない?」
意味が分からず、鴎は固まった。
「なあ、時任。これ、ちょっと詳しく話そ」
その声音は、どこまでも軽かった。
けれど鴎には、それが逃げ場を塞ぐ「宣告」のように聞こえた。



