次の日の放課後、詩歌は本を持って穏佳と共に旧校舎に向かった。
明倫学園は明治創立の歴史ある学校なので、古い建物も多い。
生徒が使用している場所で一番古いのが、この旧校舎だ。
次に古いのが男子寮にあたる。
旧校舎は主に倉庫や部室になっているが、人の出入りは基本的に少ない。
「大講堂は三階の東端だな」
穏佳がスマホで学校の見取図を確認する。
明倫高校の学生サイトからアクセスすれば、敷地の地図も閲覧できる。
「僕、旧校舎って入ったことないや」
「俺もだ。用がないからな」
扉に手をかけると、施錠はされていなかった。
そわりと、穏佳が詩歌を流し見た。
「昼間にしては薄暗いから。手を、繋いでおくか……詩歌」
遠慮がちに差し出された手を、詩歌は見詰めた。
「うん! 手を繋いでいきたい」
詩歌は迷いなく穏佳の手を握った。
階段を上り、大講堂を目指す。その途中で、ふと思った。
(あれ? さっき、京久野君が僕のこと、詩歌って呼んだかも)
とても小さな声だったから、気のせいかもしれない。
(でも、呼んでくれていたら、嬉しいな。僕も穏佳くんって呼んでみようかな)
心臓の鼓動がいつもより少し速い。
ワクワクした時とは違う速さだ。くすぐったい胸の内が、何だか心地良かった。
そんなことを考えて歩いているうちに、大講堂に着いた。
「外側からは、見えないよな」
穏佳が大講堂の入口を確認すると、扉の小窓を覗いた。
「中に入ってみようよ、穏佳くん」
「そうだな……え?」
穏佳が詩歌を大きく振り返った。
詩歌は大講堂の扉に手をかけた。
「開けるよ」
詩歌は、ごくりと息を飲んだ。
「あ、あぁ……えっと、今……え?」
狼狽えた風の穏佳の手を握って、扉を開ける。
「えぃ!」
勢いで瞑った目を、恐る恐る開く。
大講堂の中は、暗幕がかかって薄暗い。
広い講堂は閑散として、空気が張り詰めていた。
「入るか」
詩歌の手を穏佳が握り直す。
「うん」
二人は同時に、講堂の中に一歩を踏み込んだ。
中に入った瞬間、眩しい光が閃光のように二人を襲った。
光が強すぎて、目を開けていられない。
「詩歌!」
かろうじて聞こえた穏佳の声を頼りに、詩歌は手を伸ばした。
指先が絡まって、体を引き寄せられた。
穏佳の匂いと温もりに包まれる。
(穏佳くんとはぐれなくて、良かった)
瞼の裏の光が次第に収まっていく。
同時に、周囲に気配を感じた。
詩歌は、ゆっくりと目を開けた。
「なんだ、これは」
先に目を開けたらしい穏佳が、周囲をぐるりと見回した。
穏佳の視線を追って、詩歌も同じように講堂の中を流し見た。
「黒い、塊……?」
大小様々な黒い影が、大講堂の壁に沿うように、ずらりと囲って立っている。
顔はないのに、影たちが一点を見詰めているように感じた。
大講堂の真ん中に、大きな影がいくつか立っている。
その中心に、小さな丸い影が見えた。
「あの真ん中の影は、石……いや、人か?」
穏佳が石と感じたのは、納得だ。
他の影が人の気配を纏っているのに対し、真ん中の小さな影にはそれがない。
まるで静かに、息などしていないかのように、ただ静かに丸くなっている。
(……蹲っているんだ。小さく丸くなって……耐えているんだ)
大きな影たちは、蹲る小さな影を囲んでいる。
時折、伸びる影が足や腕に見える。
弾けるように飛び散る黒い影が、まるで罵声に感じた。
「これって、もしかして……虐め、か?」
穏佳が、ぽつりと零した。
詩歌も同じように感じた。
まるで大きな影が小さな影を虐めている。
周囲を取り囲む壁に沿った影は、見ているのに助けようともしない。
(あのまま、蹲っていたら、あの子は動かなくなる。本当の石みたいになっちゃう)
詩歌の脳内に、昔の記憶がフラッシュバックした。
幼かった弟のように、詩歌の前から消えてしまう。
「……助けなきゃ。あのままじゃ、消えちゃう」
穏佳の手を離して、詩歌は小さな影に走った。
「待て、詩歌! 不用意に近付いたら……!」
穏佳が詩歌の後ろを追いかけた。
「やめてよ、その子に何もしないで!」
囲む大きな影を手で払い除ける。
影は実体がなくて、触れた感触もない。
なのに、詩歌が払った影は千切れて姿を消した。
「消えた……手で払えばいいのか?」
穏佳が詩歌と同じように影を手で払う。
手が影を通り抜けるだけで、消えない。
穏佳が、自分の手と影を見比べた。
「詩歌じゃないと、ダメなのか」
詩歌は、小さく蹲る影に手を伸ばした。
影の輪郭が小刻みに震える。
震えるたび、影の小さな欠片が宙に舞って、空気に溶けた。
「もう大丈夫だよ、怖くないよ」
詩歌は影を撫でた。
その手が影の中に、トプリと沈んだ。
「え……あ!」
強い力で引っ張られた。影の中に沈み込みそうになる。
「詩歌、掴まれ!」
穏佳が後ろから詩歌の体を抱き掴まえた。
詩歌の腕を掴んで、引っ張る。
「なんて力だ。引きずり込まれる」
穏佳が詩歌の腕を、体ごと強く引っ張る。
「あ! 穏佳くん、あれ!」
二人の目の前に、交換日記が浮かんだ。
本が開いて、パラパラとページが捲れる。
片隅が破れたページが開かれた。
「そうか……詩歌! ページの切れ端を探せ。鏡の時みたいに!」
詩歌は頷いて、影の中に沈んだ指先を懸命に動かした。
闇雲に探る指先に、紙の感触があった。
「あった! もう少し、奥……」
腕を伸ばして、紙を追いかける。
詩歌の体が、影に沈む。
「ダメだ。それ以上、沈み込んだら詩歌が飲まれる」
穏佳が詩歌の体を引いた。
「でも、もう少しで届きそうなんだ。もうちょっと、手を伸ばしたら……」
詩歌の腕はもう、すっかり侵食されている。
肩まで飲みこんだ影が、詩歌の顔にまで張り付く。
「詩歌……詩歌!」
耳元で、穏佳の声が聞こえた。
「それ以上、そっちに行くな。俺が助けられない場所に、行くな」
穏佳の声が、耳に沁み込んだ。
詩歌は、必死に伸ばしていた腕を自分から引いた。
「ごめん……穏佳、くん。僕……」
行ってはいけない向こう側に、行きそうになった。
直感的にそう感じたら、怖くて体が震えた。
「大丈夫。俺がちゃんと、繋いでいるから」
体を引き寄せられて、顔を胸に抱かれた。
勢いで、詩歌の腕が影からするりと抜けた。
(あ……穏佳くんの胸、温かい)
あの影の中が冷たかったのだと、穏佳に抱かれて気付いた。
じわりと、目に涙が滲んだ。
「詩歌、手の中に……」
「え?」
くしゃくしゃになった紙が、詩歌の手に握られていた。
「なんで……届かなかったのに」
指先には触れた感触があったが、掴んだ実感はなかった。
穏佳が詩歌の手から紙を取る。
丸まっている紙を開く。
破れた切れ端に、文字が描かれていた。
『傍観者』
ぞわりと、詩歌の背筋に寒気が走った。
「虐めていた奴でも、虐められていた奴でもない。この大講堂の七不思議は、周囲を囲んでいた人垣か」
顔を上げたら、影はひとつ残らず消えていた。
穏佳が手にした紙の切れ端が、宙に浮いた。
開いた本のページに合わさる。淡く光を発して、ページの項が修復した。
『ありがとう。また一つ、欠片が戻った』
本の中に、文字が浮かび上がった。
『傍観者……そう。僕は、傍観者だった。だから、七不思議を作ったんだ』
本のページが、濡れた。
まるで水滴を零したような濡れ方だ。
『大切だった。友達だった。なのに、僕は……救えなかった』
ドクン、と胸が震えた。
その言葉が、あまりに詩歌の心とリンクしたから。
悠梧の言葉が、胸の奥の古い傷に触れた。
(僕はあの時、それがいいと思って、探しに行かなかった。だから、快心は……)
もう二度と会えない場所に、逝ってしまった。
詩歌は、穏佳の手を強く握った。
「詩歌……?」
穏佳が詩歌を見下ろす。
何も聞かずに、詩歌の手を握り返してくれた。
『彼は、どこに行ったろう。彼の名は何だったろう。僕は、まだ……思い出せない』
そう記すと、本は自分から閉じた。
詩歌の腕の中に、パタリと落ちた。
二人は本を見詰めたまま、しばらく動けなかった。
明倫学園は明治創立の歴史ある学校なので、古い建物も多い。
生徒が使用している場所で一番古いのが、この旧校舎だ。
次に古いのが男子寮にあたる。
旧校舎は主に倉庫や部室になっているが、人の出入りは基本的に少ない。
「大講堂は三階の東端だな」
穏佳がスマホで学校の見取図を確認する。
明倫高校の学生サイトからアクセスすれば、敷地の地図も閲覧できる。
「僕、旧校舎って入ったことないや」
「俺もだ。用がないからな」
扉に手をかけると、施錠はされていなかった。
そわりと、穏佳が詩歌を流し見た。
「昼間にしては薄暗いから。手を、繋いでおくか……詩歌」
遠慮がちに差し出された手を、詩歌は見詰めた。
「うん! 手を繋いでいきたい」
詩歌は迷いなく穏佳の手を握った。
階段を上り、大講堂を目指す。その途中で、ふと思った。
(あれ? さっき、京久野君が僕のこと、詩歌って呼んだかも)
とても小さな声だったから、気のせいかもしれない。
(でも、呼んでくれていたら、嬉しいな。僕も穏佳くんって呼んでみようかな)
心臓の鼓動がいつもより少し速い。
ワクワクした時とは違う速さだ。くすぐったい胸の内が、何だか心地良かった。
そんなことを考えて歩いているうちに、大講堂に着いた。
「外側からは、見えないよな」
穏佳が大講堂の入口を確認すると、扉の小窓を覗いた。
「中に入ってみようよ、穏佳くん」
「そうだな……え?」
穏佳が詩歌を大きく振り返った。
詩歌は大講堂の扉に手をかけた。
「開けるよ」
詩歌は、ごくりと息を飲んだ。
「あ、あぁ……えっと、今……え?」
狼狽えた風の穏佳の手を握って、扉を開ける。
「えぃ!」
勢いで瞑った目を、恐る恐る開く。
大講堂の中は、暗幕がかかって薄暗い。
広い講堂は閑散として、空気が張り詰めていた。
「入るか」
詩歌の手を穏佳が握り直す。
「うん」
二人は同時に、講堂の中に一歩を踏み込んだ。
中に入った瞬間、眩しい光が閃光のように二人を襲った。
光が強すぎて、目を開けていられない。
「詩歌!」
かろうじて聞こえた穏佳の声を頼りに、詩歌は手を伸ばした。
指先が絡まって、体を引き寄せられた。
穏佳の匂いと温もりに包まれる。
(穏佳くんとはぐれなくて、良かった)
瞼の裏の光が次第に収まっていく。
同時に、周囲に気配を感じた。
詩歌は、ゆっくりと目を開けた。
「なんだ、これは」
先に目を開けたらしい穏佳が、周囲をぐるりと見回した。
穏佳の視線を追って、詩歌も同じように講堂の中を流し見た。
「黒い、塊……?」
大小様々な黒い影が、大講堂の壁に沿うように、ずらりと囲って立っている。
顔はないのに、影たちが一点を見詰めているように感じた。
大講堂の真ん中に、大きな影がいくつか立っている。
その中心に、小さな丸い影が見えた。
「あの真ん中の影は、石……いや、人か?」
穏佳が石と感じたのは、納得だ。
他の影が人の気配を纏っているのに対し、真ん中の小さな影にはそれがない。
まるで静かに、息などしていないかのように、ただ静かに丸くなっている。
(……蹲っているんだ。小さく丸くなって……耐えているんだ)
大きな影たちは、蹲る小さな影を囲んでいる。
時折、伸びる影が足や腕に見える。
弾けるように飛び散る黒い影が、まるで罵声に感じた。
「これって、もしかして……虐め、か?」
穏佳が、ぽつりと零した。
詩歌も同じように感じた。
まるで大きな影が小さな影を虐めている。
周囲を取り囲む壁に沿った影は、見ているのに助けようともしない。
(あのまま、蹲っていたら、あの子は動かなくなる。本当の石みたいになっちゃう)
詩歌の脳内に、昔の記憶がフラッシュバックした。
幼かった弟のように、詩歌の前から消えてしまう。
「……助けなきゃ。あのままじゃ、消えちゃう」
穏佳の手を離して、詩歌は小さな影に走った。
「待て、詩歌! 不用意に近付いたら……!」
穏佳が詩歌の後ろを追いかけた。
「やめてよ、その子に何もしないで!」
囲む大きな影を手で払い除ける。
影は実体がなくて、触れた感触もない。
なのに、詩歌が払った影は千切れて姿を消した。
「消えた……手で払えばいいのか?」
穏佳が詩歌と同じように影を手で払う。
手が影を通り抜けるだけで、消えない。
穏佳が、自分の手と影を見比べた。
「詩歌じゃないと、ダメなのか」
詩歌は、小さく蹲る影に手を伸ばした。
影の輪郭が小刻みに震える。
震えるたび、影の小さな欠片が宙に舞って、空気に溶けた。
「もう大丈夫だよ、怖くないよ」
詩歌は影を撫でた。
その手が影の中に、トプリと沈んだ。
「え……あ!」
強い力で引っ張られた。影の中に沈み込みそうになる。
「詩歌、掴まれ!」
穏佳が後ろから詩歌の体を抱き掴まえた。
詩歌の腕を掴んで、引っ張る。
「なんて力だ。引きずり込まれる」
穏佳が詩歌の腕を、体ごと強く引っ張る。
「あ! 穏佳くん、あれ!」
二人の目の前に、交換日記が浮かんだ。
本が開いて、パラパラとページが捲れる。
片隅が破れたページが開かれた。
「そうか……詩歌! ページの切れ端を探せ。鏡の時みたいに!」
詩歌は頷いて、影の中に沈んだ指先を懸命に動かした。
闇雲に探る指先に、紙の感触があった。
「あった! もう少し、奥……」
腕を伸ばして、紙を追いかける。
詩歌の体が、影に沈む。
「ダメだ。それ以上、沈み込んだら詩歌が飲まれる」
穏佳が詩歌の体を引いた。
「でも、もう少しで届きそうなんだ。もうちょっと、手を伸ばしたら……」
詩歌の腕はもう、すっかり侵食されている。
肩まで飲みこんだ影が、詩歌の顔にまで張り付く。
「詩歌……詩歌!」
耳元で、穏佳の声が聞こえた。
「それ以上、そっちに行くな。俺が助けられない場所に、行くな」
穏佳の声が、耳に沁み込んだ。
詩歌は、必死に伸ばしていた腕を自分から引いた。
「ごめん……穏佳、くん。僕……」
行ってはいけない向こう側に、行きそうになった。
直感的にそう感じたら、怖くて体が震えた。
「大丈夫。俺がちゃんと、繋いでいるから」
体を引き寄せられて、顔を胸に抱かれた。
勢いで、詩歌の腕が影からするりと抜けた。
(あ……穏佳くんの胸、温かい)
あの影の中が冷たかったのだと、穏佳に抱かれて気付いた。
じわりと、目に涙が滲んだ。
「詩歌、手の中に……」
「え?」
くしゃくしゃになった紙が、詩歌の手に握られていた。
「なんで……届かなかったのに」
指先には触れた感触があったが、掴んだ実感はなかった。
穏佳が詩歌の手から紙を取る。
丸まっている紙を開く。
破れた切れ端に、文字が描かれていた。
『傍観者』
ぞわりと、詩歌の背筋に寒気が走った。
「虐めていた奴でも、虐められていた奴でもない。この大講堂の七不思議は、周囲を囲んでいた人垣か」
顔を上げたら、影はひとつ残らず消えていた。
穏佳が手にした紙の切れ端が、宙に浮いた。
開いた本のページに合わさる。淡く光を発して、ページの項が修復した。
『ありがとう。また一つ、欠片が戻った』
本の中に、文字が浮かび上がった。
『傍観者……そう。僕は、傍観者だった。だから、七不思議を作ったんだ』
本のページが、濡れた。
まるで水滴を零したような濡れ方だ。
『大切だった。友達だった。なのに、僕は……救えなかった』
ドクン、と胸が震えた。
その言葉が、あまりに詩歌の心とリンクしたから。
悠梧の言葉が、胸の奥の古い傷に触れた。
(僕はあの時、それがいいと思って、探しに行かなかった。だから、快心は……)
もう二度と会えない場所に、逝ってしまった。
詩歌は、穏佳の手を強く握った。
「詩歌……?」
穏佳が詩歌を見下ろす。
何も聞かずに、詩歌の手を握り返してくれた。
『彼は、どこに行ったろう。彼の名は何だったろう。僕は、まだ……思い出せない』
そう記すと、本は自分から閉じた。
詩歌の腕の中に、パタリと落ちた。
二人は本を見詰めたまま、しばらく動けなかった。



