交換日記から始まる、僕らの恋と七不思議。

 理科室に入った途端、空気が一変した。
 扉を隔てた廊下は、梅雨入り直前の蒸し暑さが肌に纏わりついていたのに。
 足下に冷気が流れて、漂っている。
 穏佳の足が止まったのと同時に、詩歌も足を止めた。

(怖い……この先に、進みたくない)

 理由のわからない恐怖が、じわじわと胸の奥から湧き上がる。
 握る手を強めたら、穏佳が握り返してくれた。

「この先、入って、大丈夫なのか?」

 穏佳が独り言のように呟いた。
 詩歌も同じ気持ちだ。
 目の前に静かに佇む理科準備室の扉から、理科室とは比べ物にならない冷気が漏れ出している。

「本に、聞いてみる……あれ?」

 手に持っていたはずの本が、いつの間にかなくなっている。
 
『う……うぅ……痛い……苦しい』

 理科準備室から、うめくような声が聞こえた。
 衝動的に穏佳の手を振り切って飛び出しそうになった。
 そんな詩歌を穏佳の手が強く握って引いた。

「飛び出すのは、ダメだ。少しずつ、近付くぞ」

 詩歌は神妙に頷いた。

(穏佳が手を握ってくれなかったら、準備室に飛び込むところだった)

 流されて動くのは危ないと、もう何度も経験している。
 詩歌は穏佳の手を握り直すと、深呼吸した。

 冷気を醸す準備室の扉に近付く。
 扉の上部に付いている小窓から、穏佳が中を覗き込んだ。

「本が、準備室の中にある」
「え! それって……」

 いつの間に移動したのかなんて、今更疑問にも思わない。
 本が準備室の中にあるのなら、悠梧が中に入れと言っている。
 穏佳も同じように意図を察したのだろう。
 準備室のドアノブに手をかけた。

「うわ!」

 穏佳が開くより早く、勢いよく扉が開いた。
 何かに引っ張られるようにして、穏佳の体が中に引きずり込まれた。
 穏佳の手が、詩歌から離れる。

「穏佳!」

 詩歌は穏佳を追いかけて準備室に駆け込んだ。
 詩歌が部屋の中に入った途端、扉がバタンと閉まった。

「うっ……」

 小さなうめき声が聞こえて、詩歌の目が扉から部屋の中に向いた。
 その光景を見た瞬間、詩歌の胸が冷えた。

「穏佳! どうしたの?」

 穏佳が目を抑えて蹲っている。

「痛い……目が、焼けるようだ」
「目? そんな、どうして……ひっ!」

 穏佳が、ゆっくりと詩歌を見上げた。
 その顔を見て、締まった喉から悲鳴が漏れた。
 穏佳の左目が焼けたように爛れている。

「うそ……なんで」

 何をどうなったのかすら、わからない。
 この一瞬で、一体何があったのか。

 周囲を見回すと、茶色の瓶が転がっていた。
 開いた口から薬液が零れている。

「硫酸……」

 瓶のラベルに確かにそう書いてある。
 
「穏佳の目が……」

 ジワリと目に涙が浮かんだ。

(僕のせいだ。僕が本に名前を書いて、巻き込んだから。僕より先に、実験室に入ったから)

 後悔と自責が詩歌の胸に押し寄せた。

「僕が、穏佳を傷付けた。ごめん、穏佳……ごめんね」

 泣くことしかできない自分が情けなくて、腹立たしい。

(僕の目が潰れたら良かったんだ)

 あの時も、そう思った。
 友達と遊んでいるのだと思って、探しに行かなかったから。
 まさが、崖から滑り落ちて帰って来られないでいたなんて、思わなかった。
 もし、詩歌が探しに行っていたら、生きているうちに見つけられたかもしれないのに。

 死んだのが快心(こころ)ではなく、自分なら良かったのに。

「詩歌……」

 穏佳が詩歌の手を伸ばした。

「何? 穏佳」
 
 詩歌は穏佳の手を握った。

「詩歌の目を、俺にちょうだい」
「え……」

 穏佳が詩歌の手を振り解く。
 その手が詩歌の目に伸びた。

(これは、本当に、穏佳?)

 違和感があるのに、動けない。逃げられない。

「二つあるんだから、良いだろ。一つくらい、俺にちょうだい」

 穏佳の爛れた目が窪んで、真っ黒になった。
 ドクンと心臓が下がる。

(違う。これは穏佳じゃない)

 逃げたいのに、足が竦んで動けない。
 穏佳の姿をした何かの指が、詩歌の目に触れそうに近付く。
 その手を、別の手が払い除けた。

「やるわけないだろ。目は、二つあるからって誰かにやれるものじゃないんだ」

 穏佳が詩歌の肩を抱いて、顔を胸に抱いた。

「穏佳! しず、か……怪我、したの?」

 穏佳の額から血が流れている。

「少し切っただけだ。大袈裟に血が出ているだけだ。心配ない」
「でも……」

 穏佳が詩歌を抱くと、後ろに下がった。

「おい、悠梧! ここにもお前の欠片があるんだろ。どこにあるか教えろ!」

 穏佳が本に向かって怒鳴った。
 気が付いたら本が、二人の頭上に浮いていた。

「これ以上、趣味の悪いやり方をするなら、詩歌に御守りを持たせるぞ」

 フワフワ浮いていた本に文字が浮かび上がった。

『僕の趣味じゃない。これが七不思議の三つ目だから』
「七不思議は、お前が作ったんだろう」
『怪異は、僕の意を越えて存在する。総てが僕の仕業じゃない』

 床で、ちかっと何かが光った。

「え……穏佳が、穏佳じゃなくなってる」

 さっきまで穏佳だった何かは黒い影に変わっていた。
 左目だけは、焼けただれているのがわかる。その場所が、光っていた。
 詩歌は、目に手を伸ばした。

「詩歌!」

 穏佳が詩歌の腕を掴んで止めた。

「多分、あそこにあるよ。僕じゃないと、掴めないと思う」
「わかってる。俺も、そう思う。けど、詩歌が怪我しない保証がない」

 穏佳が本を睨んだ。
 本は淡く光を発しただけだった。

「僕の手に、穏佳の手を重ねて。二人で、取りにいこう」

 詩歌は穏佳の手を自分の手の甲に載せた。

「穏佳が触れていてくれたら、僕は勇気を出せるから」

 あの爛れた目に触れるのは、怖い。指先が震える。
 穏佳が頷いて、詩歌の手を握った。
 優しい温もりに包まれて、詩歌の心が落ち着いた。

 二人の手が、爛れた目に触れる。
 指先が触れた瞬間、爛れた目が影に飲まれて真っ黒になった。

「あ……」

 手の中に、カサリと紙が握られていた。
 ぐちゃぐちゃに丸められた紙を開く。

『身代わり』

 書かれていた文字に、詩歌は目を見開いた。
 紙の切れ端が、本に飛んでいく。
 パラパラをページが捲り上がり、破れたページで止まる。
 切れ端が合わさると、淡い光を帯びてページが修復された。

『彼は、僕の代わりに凄惨な虐めに耐えた。そのせいで、左目を失った』

 本の文字が震えて歪んでいた。

『嗚呼、なんてことだろう。これほどに卑劣な事実を、僕は忘れていたんだ。総ては、僕のせいだった』

 宙に浮いていた本が、ポトリと落ちた。
 本を受け止めた詩歌は、顔を上げられなかった。

「とても、辛いね」

 詩歌の目から涙が零れる。
 零れた涙が本の表紙に流れた。
 まるで悠梧が泣いているようだった。