空色の小鳥は、恋をしていた。

 部屋に戻った奏楽は、すぐに優希に水を渡した。

「飲める? 横になる?」
「ありがとう、大丈夫だよ」

 ペットボトルを受け取った優希が苦笑した。
 顔の赤さは引いたみたいだ。
 ちょっと安心した。
 だけど、ドキドキする。

(お風呂上がりの優希は、何回も見てるのに。今日はドキドキする)

 一緒に風呂に入って、実際に体を見たからだろうか。
 自分の俗っぽい思考に、我ながら落胆する。
 奏楽の目が、自然と優希の腹に向いた。

(優希の腹筋……触ってみたいけど。触らせてとは、流石に言えない)

 じっと見詰める奏楽を、椅子に掛けた優希が見上げた。

「……触ってみる?」

 優希が、そろりとシャツを捲る。
 その手を慌てて止めた。

「待って、待って! 素肌は無理!」

 優希の手を、ぐっと押す。

(見すぎちゃった。変に思われたかな、思われたよね。どうしよう、変態だと思われる!)

 頭の上で、優希が息を飲む気配がした。

「じゃぁ……Tシャツの上から」

 言いながら、優希が奏楽の手を握った。
 奏楽の胸がドキリと跳ねる。
 奏楽の手を、優希が引く。奏楽の指先が、服越しに優希の腹筋に触れた。

(あ……優希のお腹に、触れちゃった……)

 ドキドキが速すぎて、心臓が止まりそうだ。
 息の吸い方を忘れたみたいに、喉が締まる。

(硬くて、熱い。こんな風に、優希の体に触れたの、初めてだ)

 気持ちが溢れそうになって、目に涙の幕が張った。
 カタン、と小さく、音がした。
 後ろの本棚が、ガタガタと揺れる。

「……え?」

 奏楽は後ろを振り返った。
 本棚の本が小刻みに揺れている。
 
(まさか、ポルターガイスト? うそ……優希がいる時は、起こらなかったのに、なんで)

 本が数冊、宙に浮いた。
 奏楽は優希の手を振り解くと、本に手を伸ばした。

「ダメ、嫌だ、浮かないで!」
「奏楽、近付かないほうがいい!」

 優希の手が奏楽の腕を掴む。
 体が優希の胸に倒れ込んだ。

(……え? これは、どういう状況?)

 まるで優希に抱きしめられているみたいだと気が付くまで、数秒かかった。
 ドクン、と大きく心臓が揺れた。
 その瞬間、本棚が一際大きく揺れて、更に本が飛び上がった。

「どうして……本が、浮いてるんだ」

 優希が戸惑いを含んで呟く。その目が宙に浮く本を見上げる。
 奏楽の頭を庇うように、胸に抱き込んだ。
 更に強く優希の熱を感じて、奏楽の息が止まった。

(どっ……どうしよう。どうすれば……)

 本が浮いていることより、優希の胸に抱かれていることのほうが大問題だ。
 
「奏楽、危ない!」
「え?」

 優希が奏楽を胸に抱いたまま、蹲った。
 
「本が奏楽に向かって、飛んできたから、避け……」

 優希の顔が、今までにないくらいに近い。
 倒れた奏楽に、優希が覆い被さるような姿勢になっている。
 混乱して言葉が出ない。

「あ……ごめ、ん」

 優希の喉が上下する。
 その瞳が見詰めているのは、奏楽の目ではない。唇に視線が向いている気がする。

「ゆう、き?」

 優希の顔が、奏楽に近付く。

(え……え? このまま近付いたら、キス、しちゃうんじゃ……)

 心臓がドキドキ煩い。
 耳元で鳴っているみたいだ。
 胸が重なるくらい近い。このままでは優希に心臓の音まで聞こえてしまう。

(無理、ムリ……もう、無理!)

 あまりに近すぎて、奏楽は耐えられずに目を瞑った。
 次の瞬間、優希の匂いが奏楽を包んだ。

「いっ!」

 優希の声が聞こえた。
 バタバタと物が落ちる音がする。

(え……何?)

 そっと目を開ける。
 床に本が散乱していた。
 奏楽の顔を胸に抱いて、優希が馬乗りになった。
 顔がぴったりと優希の胸にくっ付いている。

「奏楽、大丈夫? 怪我してない?」

 胸を伝って、優希の声が聞こえた。

「……して、ない。優希は? 今、痛いって……」
「頭の上に本が落ちて来たけど、大丈夫」
「それ、大丈夫じゃない!」

 奏楽は身を乗り出した。
 優希の肩に掴まって、顔を上げる。

(あ……肩のスライムに、触っちゃった)

 小鳥だった時は握り締めていたけど、黒い塊になってから、怖くて触れなかった。
 スライムに触ったのは、初めてだ。
 透明なスライムが、大きく蠢いた。

「ひぇ……」
「奏楽? どうしたの?」

 小さく悲鳴を上げた奏楽を、優希が覗きこんだ。

「なんでも、ない」

 スライムが、奏楽の手を飲み込む。
 まるで撫でるように、奏楽の手に絡みついた。

(どうしよう。これ、どうしたらいいの)

 優希の体が、奏楽の上に倒れ込んだ。

「え! 優希、どうしたの?」
「ごめん、肩が……奏楽が、触れると……楽で、力が抜けた」

 優希が起き上がろうと力を籠める。
 だが、すぐにまた力が抜けて、奏楽に覆い被さった。

「優希……優希!」

 奏楽は慌てて優希の肩を摩った。

(前も、僕が触れると楽だって言ってた。僕が肩に触れたら、優希の力が戻るの?)

 前は、優希の肩に載っていた小鳥のあみぐるみを握りしめると、楽だと言っていた。
 今はスライムに手を突っ込むと、優希が楽そうだ。

「ごめん……もう少しだけ、肩……撫でて」

 優希らしくない、弱い声音だ。
 
「わかった」

 泣きそうな気持で、奏楽は懸命に優希の肩を撫でた。
 その度に、手がスライムに飲み込まれていく。

(ぬるってして、怖い。けど、触れていたら、優希の肩からスライムを剥がせるかも)

 ぐっと背中のほうまで手を伸ばす。
 優希の体が、ビクンと跳ねた。

「ぁっ……奏楽、それ以上は……止まって」
「え? うん」

 優希が奏楽から体を離した。
 奏楽は、そろりと手を引っ込めた。
 上がった優希の顔が、赤い。
 いつもより目が、とろんとして眠そうだ。

「……えっと、奏楽は怪我してないよね?」
「僕は平気だけど、優希が……頭、大丈夫?」

 優希の後頭部に手を伸ばす。
 本が落ちてきたのなら、痛かったに違いない。

「頭、ダメかも……違う怪我のほうが痛い」
「えぇ⁉ 他にも怪我した? どこ?」
「いや……何でもない。大丈夫だよ」

 優希が奏楽から離れて起き上がった。
 他に怪我をしている様子はない。見える範囲ではないのだろうか。
 起き上がった優希が部屋の中を見回した。

「この感じ、奏楽が模様替えしていた時みたいだ」

 ぽそりと呟いた優希の言葉に、心臓が冷えた。

「もしかして、今までも、こういうこと、あった?」

 優希の目が奏楽に向く。
 返事ができなくて、奏楽は俯いた。

(バレちゃった、もう誤魔化せない。どうしよう……気持ち悪いとか、思われてるかな)

 奏楽がいる時だけ、ポルターガイストが起きる。
 こんな奴が同室では、優希が嫌になるかもしれない。

「なんで、相談してくれないの? ルームメイトなのに」

 優希が奏楽の手を握った。
 奏楽は、握られた手を見詰めた。

「だって、こんなの……話しても、信じてもらえないかもって。気持ち悪いかもって、思って」

 優希の手が、奏楽の手を強く握る。

「奏楽の言葉なら、信じるよ」

 優希の声は茶化すのでも、揶揄うのでもない。
 とても真剣だ。
 奏楽は恐る恐る目を上げた。

「気持ち悪くないの? また、起こるかもしれないのに、嫌じゃないの?」
「奏楽が一人で怯えているほうが、嫌だよ」

 優希の手に力が入る。

「一人で怖い思いしないで、俺を頼ってよ。解決方法、一緒に考えよう」

 優希が、優しく微笑んだ。
 奏楽の目に涙が溢れた。

「うん……ありがとう、優希」

 胸が温かくて、切ない。
 溢れてくる涙を優希の指が何度も拭った。
 優希の肩に載るスライムが、小さく萎んでいく。

(え……消える?)

 小さくなったように見えたが、優希の肩に張り付いただけだった。

(スライムのことも、話したほうがいい、よね。だけど……)

 ポルターガイストより、重い怪異な気がする。
 解決法もわからないのに、安易に話す気になれない。
 優希に涙を拭われながら、奏楽はスライムから目を逸らした。