役目を終えたはずの巫女でした ― 選ばれなかった時間の続き ―

数日が過ぎ、第1診療所での仕事にも、少しずつ慣れてきた。

看護師同士で言葉を交わす機会も、自然と増えている。
処置の合間や片づけの最中に、
ふとした疑問や気づきを話すようになった。

「向こうでは、どうしていました?」

そんなふうに聞かれることもあれば、
こちらのやり方を教えてもらうこともある。

体位の変え方。
声のかけ方。
忙しいときに、どこを優先するか。

どちらが正しい、ではない。
状況に合わせて、
お互いの世界の良いところを取り入れていけたらいい。

そんな空気が、少しずつできてきていた。

患者の状態を確認すること。
それ自体は、もう自然にできている。

けれど、どうしても引っかかるところがあった。

薬草のことだ。

使われている薬草の名前も、効き目も、量も。
知識として、ほとんど分からない。

病状に応じて、
「この患者には、この薬草が使われている」
ということは分かる。
けれど、それ以上がない。

なぜそれなのか。
どこまで使っていいのか。
代わりはあるのか。

文字が読めない以上、
本に頼ることもできなかった。

文字については、少しずつではあるが、学び始めている。

巫女の部屋の前には、交代で護衛の騎士が立つ。
その待機の時間に、
簡単な文字を教えてもらうようになった。

「これは……こう読むんですね」

「ええ。医療関係では、よく使います」

長い時間ではない。
護衛の任務の合間に、ほんの少しだけ。

手が空いているときには、
クロトさんが声をかけてくることもあった。

勤務体制を考えると、
本来は休みの日なのでは、と思うこともある。

けれど、クロトさんは何も言わない。
ただ、そこに立って、
いつもの調子で文字を教えてくれる。

気づいてしまった以上、
本当は、休みの日まで面倒を見てくれなくても大丈夫だと、
言うべきなのだと思う。

それでも――

ほんの少しでも、傍にいてほしくて、
その言葉を口にできずにいた。

「今日は、ここまでにしておきましょう。
 詰め込みすぎると、混乱しますから」

そう言って、私の手元を覗き込み、
同じ文字を、何度もゆっくり書いてみせる。

教え方は、騎士ごとに少しずつ違う。
それでも、どれも押しつけがましくはなかった。

名前や簡単な言葉が、
少しずつ、形として頭に残るようになってきている。

それでも、薬の知識には追いつかない。

分からないまま、患者のそばに立つのは、怖い。

その日の勤務が終わってから、
護衛の騎士に一声かけて待ってもらい、
私は第1診療所の奥にある薬草室を訪ねた。

扉を開けると、
乾いた葉と土の混じった匂いが広がる。
棚には瓶や包みが並び、
作業台の上には刻みかけの薬草が置かれていた。

「どうしました?」

薬師のイルゼ・ノルマンが、
柔らかい声でそう言った。
作業の手を止め、穏やかにこちらを見る。

「あの……少し、お時間をいただいてもいいでしょうか」

「ええ。大丈夫ですよ」

私は、一度、息を整えてから口を開いた。

「私、こちらの薬草のことを、ほとんど知りません。
 本も、まだ読めなくて……」

イルゼは、驚いた様子も見せず、静かに頷いた。

「それで、直接聞きに来てくれたんですね」

「はい。
 でも、勤務中に聞くのは違うと思っていて……」

人手が足りないことは、分かっている。
誰かの手を止めてまで、
教えてもらうことはできなかった。

「お願いがあります」

私は、きちんと頭を下げた。

「もし可能でしたら、
 時間外に、薬の勉強をさせていただけないでしょうか」

一瞬の沈黙。

「場所は、私の部屋を使っていただいて構いません。
 寝室とは分かれていますし、
 打ち合わせにも使われている場所です」

「もちろん、謝礼もお支払いします」

それから、正直に続けた。

「あまり無理をすると、怒られてしまうので……。
 決められた範囲で、きちんと休むようにと言われています」

自分で言って、少しだけ苦笑した。

「曜日も時間も私の都合で申し訳ないのですが、
 水曜日でしたら勤務がお休みです。
 十七時以降であれば、時間が取れます」

イルゼは、しばらく考えるように目を伏せてから、微笑んだ。

「……よく考えていますね」

そのとき、薬草室の入口に、
内科医師のクラウス・ベルトラム先生が姿を見せた。

「話は、だいたい聞いたよ」

帰り際だったらしい。

「でも、給金は受け取れないな」

イルゼも、穏やかに頷く。

「職場の中での知識の共有は、
 本来、対価を取るものではありませんから」

私は、思わず言葉に詰まった。

「その代わり」

クラウス先生が、続ける。

「君の知っていることを、
 こちらにも共有してほしい」

「私の……知識ですか」

「ええ。
 患者の見方、予防の考え方、
 現場での工夫。
 こちらには、まだない視点も多い」

イルゼが、静かに言った。

「お互いに学ぶ場にしましょう。
 一方通行ではなくて」

胸の奥で、何かがすっと落ち着いた。

「……それで、お願いします」

「では、水曜日の十七時から」

「無理のない範囲で、続けましょう」

話は、それだけで決まった。

同じ場所で働く者同士が、
知っていることを持ち寄るだけ。

部屋に戻り、寝室の扉を閉めると、
ようやく完全な静けさが訪れた。

読めない文字は、まだ多い。
分からないことも、山ほどある。

けれど、
教えてくれる人は、少しずつ増えている。

胸の奥に、
静かな充実感が広がっていた。

この世界での生活が、
確かに、自分の中に根を下ろし始めている。



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■幕間 胸に留めたまま(クロト独白)

結界の修復が終われば、
彼女は巫女の役目を降りる。

それは最初から分かっている。
だから、その先を語る必要はない。
少なくとも、自分が口にすることではない。

診療所の中で、彼女の姿を見かける。
仕事を覚え、人の流れに入り、
役割を担い始めている。

問題はなさそうだ。
最初の1週間の辛そうな表情を見ることはもうないだろう。

その判断に、
胸の奥がわずかに緩む。

それでいい。
それ以上を望む理由はない。

彼女が目を逸らすことがある。
言葉に詰まり、
一瞬、動揺したように見えることもある。

だが、それを特別だとは思わない。

そういう反応には、
これまで何度も向けられてきた。

――自分の容姿だ。

それが人の関心を引くことは、
否定しようのない事実として理解している。
だからこそ、
それを感情として扱わない。

見た目に向けられる興味が、
相手の本心を示すとは限らない。
それも、もう十分に知っている。

彼女の態度も、
その延長にあるものだろう。

――本当は。

役目を終えたあとも、
ここに残ってくれるのなら。

そんな考えが、
一瞬だけ頭をよぎる。

だが、それは身勝手な思いだ。

考えるべきではないことだと、
そう決めて、胸の奥深くにしまい込む。

自分がすべきことは決まっている。
役目の終わりまで、
無事であるように支える。